第七章 悪竜の逆鱗②
「――ぷはあ」
その時、エルは水面から顔を出した。
突如、放たれた洪水。
槍を構えていたアルフレッドも、エルの肩を掴んでいたジェイクも含めて、ほとんどの者は水流に流されてしまった。
当然ながら、エル自身も含まれる。
水流に呑み込まれてもがいていたところで木にぶつかり、どうにか水面に顔をだすことが出来た。ケホケホと水を吐き出しながら周囲を見やると、徐々に水流は収まっており、水かさは腰辺りにまでなっていた。
全身の痺れは、すでに動ける程度には回復していた。
背後には木もあるため、水流に捕らえられることもない。
だが、周囲には人の気配はなかった。アルフレッドもジェイクの姿もない。代わりに兎のような小動物がもがきながら流されていた。
「……く」
エルは顔の水を拭った。
恐らくこの水攻めで死者までは出ないだろう。
しかし、完全に孤立してしまった。
(あの男……)
異界の宝珠の使い方を熟知している。
この膨大な水は、異界の湖か海にでも繋げたのだろう。
そして自身は異界に避難しているはずだ。
(このまま逃げる気か? いや……)
あの男は、エルに執着していた。
自分の本性が、すでに見抜かれている可能性を知りながらも、エルの拉致を強行しようとしていた。
その上で最後の台詞。
恐らくまだ諦めていないはずだ。
(一人はまずい。せめて鎧機兵を……)
そう考えて、腰の短剣に手を掛けるが、「く」と呻く。
そこには短剣がなかった。
どうやら水流に巻き込まれた時に流されてしまったようだ。
探そうにもまだ一面は水だらけだ。
どうすれば――。
と、迷った時だった。
(え?)
エルは目を瞬かせた。
周囲を窺っていたら、突如、白い物体が目の前に現れたのである。
水流に流れてきたそれは、エルの腹部に直撃する。
相当に重かった。
思わずエルは「ゴフッ!」と息を吐いた。
ただ、反射的に、その白い物体を両腕で掴んでいた。
重くはあるが、同時に凄く柔らかい物体だった。
「な、なんだ?」
エルが見やると、それは巨大な兎だった。
――いや、厳密にいえば兎によく似た生物である。
垂れた長い両耳に、今は水に濡れているが本来はふわふわとした体躯。柔らかな体に比べて、頭部だけはまるで兜をかぶったような外皮で守られている。
いわゆる魔獣の一種である。名前は《滅兎》といった。
背後から抱えられた兜兎は顔を上げて、円らな眼差しを向けていた。
「これは《滅兎》か?」
エルは、まじまじと腕の中の兜兎を見つめた。
そう言えば、先程、兎らしきものが流されていた。
流されていたのは《滅兎》の群れだったのだ。
この一体は、たまたまエルの方に流されたのだろう。
「すまないことをしたな」
エルは兜兎に謝罪した。
魔獣といっても《滅兎》はほとんど危険視されていない。
戦闘能力が著しく低いからだ。
大きさはエルが抱えてる通り、幼児ほどの大きさだ。この個体は少し大きくゴーレムより一回り大きいぐらいか。けれど、その大きさのため、本物の兎よりも俊敏さは劣る。
主な攻撃方法は突進。頑強な頭部で体当たりをするのだ。
しかし、よほど追い込まれない限り、それをしない。
魔獣らしくない温厚な性格もあるが、やったところで勝てないからである。
足の速度は成人男性ほどの速さだが、その程度の速さと、人の半分にも届かない体重を乗せたところで、その威力はたかだか知れている。
少なくとも、他の魔獣にとっては脅威でもないだろう。
結果、《滅兎》は最弱の魔獣となった。
明らかな生存競争の弱者。しかしながら、それでもまだ《滅兎》が種族として生き残っているのは、《滅兎》が非常に珍しい草食型の魔獣だったからだ。
群れを成すことで襲われても全滅はしない。
その上、《滅兎》の肉は人間が調理してもなお非常に不味く、魔獣にしてみれば、硬い上に量も少ないため、一度捕食したことのある魔獣はあまり狙いたがらない。
言わば、彼らは生存競争の枠外にて平穏に生きる種族なのである。
「本当にすまないな」
エルは苦笑を零した。
そんな彼らの平穏を壊してしまったことは申し訳なく思う。
すると、
「ボエェェ」
兜兎が鳴いた。
愛らしい見た目と反した鳴き声である。
「お前、そんな声で鳴く奴だったのか」
「ボエェェ」
エルは目を細めて笑う。
水流はすでに膝以下になっていた。
この水かさならば、この兜兎を解放しても問題ないだろう。
そう思った瞬間だ。
『お、見つけたぜ。姫さん』
いきなりそんな声が聞こえた。
ギョッとして、エルが顔を上げると、そこには鋼の巨人がいた。
右手にノコギリ状の鈍器を構えた騎士型の機体である。
見たことのない鎧機兵だった。
何より一体いつ現れたのか。エルは全く気付けなかったことに愕然とする。
「貴様! ホロットか!」
先程の声もある。察するには充分だった。
エルはブルブルと震え始めた兜兎を強く抱きしめて、鎧機兵を睨み据える。
一方、鎧機兵――ダイアンは、
『おう。そうさ』
陽気な声で答える。
そして、
『お前のご主人さまさ。迎えに来てやったぜ』
そう宣告した。




