第六章 極致の剣④
それは子供の頃。
父の大きな手が好きだった。
『ホラン』
父は幼いホランの頭を撫でてくれる。
『お前には才能があるな』
そう言って、嬉しそうに微笑んでくれた。
ホランは父の期待に応えようと一生懸命に剣の稽古をした。
ホランはベース伯爵家の長女だ。
武門で知られた一族。歳の離れた兄が二人おり、二人とも騎士団に所属している。
ホランは、父にとって待望の女児だった。
だが、父はホランをお姫さまのように育てようとは考えなかった。
後継者がいて貴族の子女ならば政略結婚なども視野に入れそうだが、父はホランを伸び伸びと育てたいと考えていた。
『自分の生きる道は自分で決めなさい』
それが父の口癖だった。
だからこそ、ホランが武に打ち込むことも歓迎していた。
どんな道であり、娘が充実した人生を歩めるのならそれに越したことはない。
父を始め、母も、兄たちもホランを温かく見守ってくれていた。
ホランは家族に恵まれていたと言える。
ただ、現役の騎士である父は、剣には厳しかった。
ホランが真剣だったからこそ、父も真剣に応えてくれたとも言える。
『――立て。ホラン』
訓練の時だけは、優しい父も怖かった。
何度、ホランは打ち倒されたことだろうか。
それでも、ホランは立ち上がった。
父のような騎士になりたかったから……。
そうして、
(どうして……)
ホランはきつく唇を噛んだ。
(どうして、あの頃を思い出す……)
何度目だろうか。
地に打ち付けられて、ホランは自分で疑問を抱いていた。
(どうして、こいつは……)
軋む体を必死に起こして、前を見やる。
そこには少年がいた。
黒い異形の長剣を携えた少年だ。
名は、コウタ=ヒラサカといった。
この少年の足止め。
それがホランの与えられた役割だった。
そういう意味では、ホランは役目を果たしている。
だが、この少年はそれを承知の上でホランの相手をしていた。
(……こいつは……)
ホランは、ゆっくりと立ち上がった。
流石にダメージはあるが、まだ動ける。
彼女は短剣を逆手に構えた。
「そんな構えではないでしょう」
信じ難い速度の刺突がホランの胸を強打する!
彼女は再び吹き飛ばされた。
黒い異形の剣は不思議なことにホランの体を斬り裂くことはなかった。
だがしかし、それでも鋼の強度には変わりない。
衝撃だけはホランを打ち付ける。
ゴロゴロと転がって、ホランは「カハッ」と息を吐いた。
「あなたの剣は相手の急所を刺すだけの構えではないはずです」
淡々とした声で少年は言う。
あの頃の父のように。
「思い出してください。あなたの剣を」
「―――うるさいッ!」
ホランは感情をむき出しにして叫んだ!
「うるさい! うるさいッ!」
目尻に涙を溜めて睨みつける。
「お前に何が分かる! 私の気持ちなんて! 私がどんな目に遭ったかなんて!」
ホランは膝に手をついて立ち上がった。
口元を覆ったマスクも剥がす。
「お前だってあの男と同じだ! 姫さまを穢した! 犯した! 奴隷に堕とした! あの男が私にしたようにッ!」
「…………」
コウタは無言だった。
ただ、哀し気にホランを見つめている。
その眼差しが、ホランをさらに苛立たせた。
先程までの無表情の面影はない。
その瞳は狂気を孕んだ光を宿している。
「お前だけは殺してやる!」
その声には激しい感情が現れていた。
「……そうですか」
コウタは呟く。
そして、ホランの心をより揺さぶるようにこう続けた。
「ですが、今のあなたではボクには勝てませんよ」
ホランは、ギリと歯を鳴らした。
確かにその通りだ。
この少年はあまりにも強かった。
兄よりも父よりも。
下手をすれば、かの陛下よりもだ。
だが、このままで終わるなど自分が惨めすぎた。
「うわああああああ――ッ!」
まるで御前試合の再現のように。
ホランが、短剣を構えて順手に構え直して突進してくる。
あの時と同じく無様な構えだ。
だが、それでも暗殺者よりも剣士に近づいたと言える。
力任せに短剣を振るう彼女を、コウタは容赦なく打ち付けた。
袈裟斬りに襲い掛かれば、それよりも速く鋭利な逆袈裟を。
その都度、ホランは苦悶の表情を浮かべた。
斬るべきモノだけを斬る断界の剣。
今、その刀身はただの鉄芯だ。ホランの体を斬り裂くことはない。
けれど、鉄芯で打ち付けられて痛みを感じないはずもない。
コウタは無表情だったが、その心は酷く痛んでいた。
彼女の苦しむ姿を見るたびに、柄の握りが甘くなりそうだった。
(……ホランさん)
だが、ここで手を緩める訳にはいかなかった。
彼女自身が……。
彼女自身の意志で、それを取り戻さなければならないからだ。
――必死になって習得した剣技。
何よりも誇りを。
そして徐々に変化は現れ始める。
ホランの剣が、洗練さを見せ始めたのだ。
傷づくたびに、彼女から無駄な力が削ぎ落されていっていた。
そうして、
「――うああッ!」
彼女は大きく間合いを取った。
そして刺突の構えを見せる。
彼女にとって最も自信のある剣技。
父の真似をして、父が最初に褒めてくれた技だった。
ホランにとっては原点とも呼べる剣技だった。
それを見て、コウタは双眸を細めた。
「刻まれた歪さが抜けている。あなたの本来の構えですね」
そう告げると、コウタは断界の剣を両手で構えて頭上に掲げた。
同時に、刀身が長剣サイズから短剣へと変わる。
「だったら、ボクも最高の一撃で応えます。まだ道半ばですけど」
コウタは一歩前へと踏み込んだ。
「今のボクが至った一太刀です」
シン、と。
夜の庭園に静寂が訪れる。
そして、
「うわああああああ――ッッ!」
ホランが刺突を繰り出した!
これまでのダメージを感じさせない渾身の一撃だ。
対するコウタは、
「――――」
小さな呼気と共に刃を振り下ろした!
短剣と化した刀身では届かない距離。むしろ長剣の間合いだ。
だが、その黒い斬撃はあまりにも速く。
見惚れるほどに、美しい軌跡の一太刀だった。
それが、彼女の正中線を辿った。
黒い刀身が止まった時、ホランもまた動きを止めていた。
数秒の沈黙。
――ガシャン、と。
ホランは、短剣を地面に落とした。
唖然とした顔で、彼女は両目を見開いている。
自身に何が起こったか分からない。
ただ、今の一太刀は間違いなく自分を両断した。
それをはっきりと感じ取っていた。
「……あ」
ペタンっと、その場に腰を落とす。
まだ事態を理解できていない。
けれど、彼女は、
「こ、こう?」
両手を頭上に掲げて、それを振り下ろした。
それはコウタの一太刀の真似だった。
斬られた恐怖以上に、極致の剣を目にして自然と腕が動いていた。
座り込んだまま、何度も腕を動かしていた。
――凄い、凄い、と。
子供のように鼓動が強く弾んでいた。
「……ホランさん」
そんな彼女に、コウタは優しい表情を見せた。
「少しあなたに触れてもいいですか?」
「え? あ、はい」
憑きモノが落ちた表情でホランが頷く。
コウタは「ありがとう」と告げると、彼女の頭に優しく手を置いた。
「よく出来ています。模倣は剣技の基礎でもあるから」
「ホ、ホントか!」
ホランは表情を輝かせた。
コウタは頷く。
そして彼女の頭から手を離して、改めて問う。
「……あなたは何になりたい?」
ホランは茫然とコウタの顔を見上げた。
ややあって、
「……わ、私は……」
ボロボロと涙を零して。
「き、騎士になりたい。騎士になりたいんだ……」
「うん。そっか……」
コウタは微笑む。
「ボクもそうだよ。まだ見習いだから、騎士を目指しているんだ」
「うそを言うなあ……」
涙を拭いながら、ホランは言う。
「えげつないぐらい強いじゃないかあ。こんな強い見習いなんていないィ……」
「……いや、まあ、それはどうなんだろ?」
コウタは少し返答に困った。
「けど、騎士見習いなのは本当ですよ。そしてまだ見習いだからこそ言いますけど」
一拍おいて、
「騎士になりたいって想いがあるのなら、あなたはまだ騎士になれます」
「……私は」
コウタの台詞に、ホランは視線を逸らした。
「もう穢れている。女としても騎士としてもだ。もう戻れない……」
「そんなことはないです」
コウタは、片膝をついて断言する。
「もう戻れないことなんて絶対にない。必要なのはそこから踏み出す決意だ」
「………」
ホランは視線を逸らしたままだった。
「ホランさん。今、あなたは何をしたい?」
コウタは問う。
ホランは唇を噛んだ。
そして、
「……今の剣を習いたい」
小さな声だが、そう告げた。
「凄い、本当に凄い剣だった。ずっと求めていた極致を見たような気がした。あれを会得したいと思ったんだ」
「……そう」
コウタは笑う。
「それは光栄です。なら一緒に訓練しますか?」
「……え」
ホランはコウタの顔を見て目を見開いた。
そうして、
「私は、現金だな……」
ホランは苦笑を浮かべた。
それは苦笑ではあるが、久方ぶりの彼女の笑みだった。
「今の提案を凄く魅力的に思っている。君に剣を習いたいと思っている。お父さまに初めて剣を教わった時のように」
「……そうですか」
コウタは笑みを零して言う。
「ありがとう。未熟なボクだけど、そう言ってくれると嬉しいです」
頭をかき、少年らしい態度でそう告げた。
ホランはしばしそんな少年の顔を見つめていたが、
「……急いだ方がいい」
不意に、そう切り出した。
「……あの男の計画はすでに始まっている」
ホランは、ぽつりぽつりとだが、あの男――ダイアンの計画を話し始めた。
それは大まかにはコウタたちの推測通りのモノだった。
攫われた彼女がいかなる目に遭わされたのかも――。
(本当に最悪な男だ)
表情には出さずコウタは憤る。
不快感だけならば、仇敵だったレオス=ボーダー以上の下衆だった。
ホランの肩は常に震えていた。
あの男に逆らうことが心底恐ろしいのだろう。
それでも彼女は語り続けた。
「頼む。少年」
ホランは言う。
「姫さまを助けてやってくれ」
今なら分かっていた。
この少年は、あの男とは違う。
姫さまと結ばれたのも、凌辱などではない。
きっとお互いに愛し合った結果なのだ。
「どうか姫さまを」
「分かっています」
コウタは力強く頷いた。
「エルは必ず守る。そして」
そこで小指をホランに向ける。
「約束しましょう。これが終わったら一緒に剣の訓練することを」
ホランは大きく目を見開いた。
が、微かに笑って、
「……分かった」
コウタと小指を絡めた。
コウタは再び頷くと立ち上がり、
「もうしばらくしたら、ベルニカさんがここにやって来ます。ホランさんはここで待っていてください」
そう告げて、風のような速さで走り去っていた。
ホランは、しばし少年が去った方向を見つめていた。
「……凄い少年だな」
斬られたと錯覚した太刀筋に沿って手を動かす。
――剣の極致。
騎士の目指す頂を、垣間見た想いだった。
流石は姫さまが見初めて愛した少年だと思う。
あの男の計画の全容はすべて語った。
あの男と合流する予定の場所もだ。
あの少年ならば、見事に姫さまを救ってくれるに違いない。
けれど、
「…………ッ」
ホランは自分の両肩を掴んだ。
体が震え始める。
あの男に刻まれた悪夢が心を蝕んでいく。
酷い汗が全身から噴き出してきた。
歯までガチガチと鳴り始める。
だが、
「…………ッッ!」
ホランは、大きく息を吐き出した。
震えが徐々に治まっていく。
そうして、
「……よし」
彼女は、立ち上がった。
ありったけの勇気と共に――。




