第四章 黒意の騎士④
そうしてその日の夜。
およそ八時を過ぎた頃。
ゆっくりと。
ホランは瞳を開いた。
視界に映るのはぼんやりとした天井だった。
(……私は……)
体が重い。
ただ自分が寝ていることだけは分かった。
ここは屋敷の一室か。
アロンの寝具。そして白い和装に身を包んでいる。
(……一体、何が……)
朦朧とした意識で状況を把握しようとしていると、
「あ。起きた? ホラン」
不意に声が聞こえた。
同時に顔が覗き込んでくる。
知っている顔だ。ベルニカ隊長である。
「……隊長」
「良かった。意識はあるのね」
ベルニカは胸元を押さえて、ホッとした表情を見せた。
隣には水桶とタオルがある。
どうやら、彼女はずっと自分を看病してくれていたようだ。
「……私は一体……」
「心配したのよ」
ベルニカは言う。
「あなた、試合の後、全然起きなかったから」
「……試合」
ホランはグッと唇を噛んだ。
思い出してくる。自分の無様すぎる姿を。
「親衛隊の子たちも入れ替わり来て心配していたのよ。当然、殿下も」
「……………」
「バイク上級騎士たちもここに訪れて、あなたの身を案じていたわ。あなたの身に一体何があったのかって」
「……………」
ホランは何も答えない。
あれだけの醜態だ。ホランの騎士としてのあるまじき行為を咎めるよりも、何かあったのかと考える者の方が多かったのだろう。
「流石に、あれは私にも分かったわ」
ベルニカは、哀し気な眼差しでホランの額を撫でた。
「焔魔堂の人たちにも。ホラン。あなたに一体何があったの?」
「……………」
ベルニカの問いに、ホランはやはり答えない。
正確には答えられなかった。
あの男の恐怖が、彼女の心を強く縛り付けているからだ。
すると、その時。
「ベルニカさん」
不意に新たな声がした。
部屋の外。襖の向こうから聞こえてきた。
「どうですか? 彼女の様子は?」
「あ。御子さま」
ベルニカは襖に目を向けた。
「いま起きたところです。ホラン」
ベルニカは視線をホランに戻すと、
「御子さまに入ってもらってもいい?」
そう尋ねる。ホランは一瞬沈黙するが、
「……はい」
と、頷いた。
あの少年と話をしてみたいと思ったのだ。
ベルニカは頷くと、「御子さま、お入りください」と告げた。
「うん。じゃあ、失礼します」
少年はそう告げると同時に襖が開いた。
どうやら廊下には焔魔堂の監視役が二人いたようだ。
襖を開けたのは、その二人らしい。
そして、部屋に入ってきたのは黒い髪の少年だった。
ホランと試合をした少年である。
だが、試合の時の和装ではない。どこかの騎士服のような姿だった。
「良かった。目覚めたんですね」
少年はそう告げると、ホランの傍に寄って畳の上に両膝をついた。
「……………」
ホランは無言で少年を見据えた。
敵意がないといえば嘘になるが、ただ今は試合前ほどの激しい怒りや憎悪は、心の裡からは感じられなかった。
「えっと、ベースさん」
少年は言う。
「これだけは、あなたにはっきりと伝えておきたくてここに来ました。あなたが試合で見せた最後の一太刀」
一拍おいて、
「とても見事なモノでした」
「……………え?」
ホランは目を見開いた。
「本当に綺麗な太刀筋で、あなたがどれほど真摯に剣に打ち込んできたのかが分かる一太刀でした。だからこそ――」
少年はとても優しい双眸を見せる。
「あなたをそこまで苦しめて歪めさせたモノが許せないと思います」
「……………」
ホランは、目を見開いたまま少年を見つめる。
「今はゆっくりと休んでください」
少年は言葉を続ける。
「あなたを苦しめるモノについては、ボクもエル……王女殿下も相談に乗るつもりです。だから、今だけは何も考えずに休んでください」
ホランは未だ言葉がなかった。
少年は、ふっと笑うと立ち上がった。
「じゃあ、ベルニカさん。彼女のことを頼みます」
「はい。分かりました」
ベルニカは頷く。
そうして少年は退室していった。
残ったのは、ホランとベルニカだけだ。
二人は沈黙していた。
が、ややあって、
「……ふぐっ、うあ、うああああ……」
自分の片腕で瞳を隠して、ホランは嗚咽を零し始めた。
ベルニカは、優しい眼差しで彼女の頭を撫でていた。
十数分後、
「……少し落ち着いた?」
「……はい」
赤い瞳でホランは頷いた。
ベルニカは少しホッとした笑みを見せてから、
「桶の水がだいぶ温くなったし、水を代えてくるね。ああ。外にいる人たちはあなたの護衛役でもあるから安心して」
そう告げて、桶を両手で持って立ち上がった。
ベルニカの退室を察してか、襖が開かれて、すぐに閉じられる。
二人分の人影が映る襖を見ながら、
(……私は)
ホランはギュッと唇を噛んだ。
このまますべてを打ち明けていいのか。
隊長も、殿下も、あの少年さえも。
自分を救おうとしてくれている。
このまま彼らに救いを求めていいのだろうか。
(……私は)
歯が、カチカチと鳴り始める。
恐怖が心を縛っている。
けれど、ここで素直に助けを求めれば――。
そう考えた時だった。
「よう。ホラン」
唐突に。
室内にて声がした。
ホランは、ガバッと上半身を起き上がらせた。
全身から冷や汗が零れ始める。
一体、いつの間に入り込んだのか。
そこにいたのはダイアンだった。
両膝を曲げて、ホランを見据えている。
「お、お前、どうやって――」
「どうだっていいじゃねえか」
ダイアンは不快そうな声を上げて、ホランの短い前髪を掴んだ。
「あぐっ!」とホランが呻く。
「何だ? あの無様な試合は?」
ダイアンが吐き捨てる。
「わ、私はお前の言う通り……」
ダイアンの腕を取って、そう告げるホランに、
「いきなり形振りかまうなって話だよ! 裏技ってのは裏に潜んでこそだろうが!」
顔を近づけて、ダイアンは言い放つ。
ホランの歯は、ずっとカチカチと鳴っていた。
「あれで色んな奴にお前の異常を悟られちまったじゃねえか。おかげでお前をもう騎士団に置いておけなくなっちまった」
ホランは目を瞠る。
「わ、私を処分するつもりか?」
思わずそう尋ねると、ダイアンは「はあ?」と首を傾げた。
「そんな勿体ないことすっかよ。ただあんな無様な真似をする今のお前はとても駒としては使えねえ。だからよ」
言って、懐からあるモノを取り出した。
ホランが青ざめる。
それはあの異界の宝珠だった。
「今度は半端な真似はしねえ。一年ぐらいたっぷりと時間をかけて、誰がお前のご主人さまなのかを骨の髄まで教え込んでやるよ」
そう告げた。
ホランは言葉もなかった。
そして、
「そんじゃあ、俺の可愛いホランちゃんよ」
ダイアンは嗤う。
「またバカンスと行こうぜ」
ホランの瞳が見開かれた。
「や、やめて――」
そう叫ぼうとするが、彼女の悲鳴は最後までは響かなかった。
その日から。
誰にも気付かれることなく。
ホラン=ベースは、騎士団から姿を消したのであった。




