第二章 近づく者たち①
それは、夜深く。
虫も獣も寝静まる時刻。
(……今日は月が綺麗だったなあ)
とある和室にて。
布団の上で正座をし、和装の少年はそんなことを思い出していた。
焔魔堂において、御子さまと呼ばれる黒髪の少年。
コウタ=ヒラサカその人である。
(……うん。凄く綺麗だった)
彼はとても遠い目をしていた。
長老衆との会談を終え、ムラサメ邸の一室にて休んでいたコウタ。
そんな彼の元に、いま客人が訪れていた。
コウタが現実逃避に入った原因の人物である。
「…………」
三つ指をついてコウタに対峙する彼女は無言だった。
年の頃は、コウタと同じ十六歳。
うなじ辺りまで伸ばしているサラリとした黒髪。美麗な顔の左半分を隠している。
身に纏うのは白い和装。セラの服に比べ、羽織ることが主体であるアロンの和装であるため、胸元からはわずかに赤みを帯びた白い肌が見える。
美貌だけではなく、小柄ながらもスタイルもまた群を抜いた少女である。
ただ、その美しさ以上に特徴的なのは、額から生えた二本の角だった。
彼女が焔魔堂の一族である証だった。
――アヤメ=シキモリ。
コウタをこの里に連れてきた少女である。
そんな彼女が、夜遅くにコウタの部屋に訪れ、とんでもないことを告げたのだ。
「……えっと、アヤちゃん?」
いつまでも現実逃避も出来ない。
コウタは、出来れば聞き間違いであって欲しいと願いながら尋ねた。
「今、なんて言ったの?」
「…………」
アヤメは視線を落として、微かに肩を震わせた。
そして、
「……夜伽を」
深々と頭を下げる。
「御身にご寵愛を賜りたく、馳せ参じました」
「…………」
今度はコウタが無言になった。
やはり聞き間違いではなかったようだ。
コウタは遠い目になったが、ふと気付く。
アヤメの細い肩が震えていることに。
(……アヤちゃん)
こんな状況だ。
まだ少女である彼女が怖くないはずがない。
(いや、そもそも……)
そこである考えが浮かんで、コウタは尋ねた。
「それって、アヤちゃんが御子さまのお側女役だから?」
――焔魔堂一族の責務ゆえに仕方がなく。
そう思って尋ねたのだが、アヤメはかぶりを振った。
「……それは合っているけど、違うのです」
「……合ってるけど違う?」
眉をひそめて反芻するコウタ。
一方、アヤメは顔を上げた。
「確かにお側女役の役割は御子さまのお傍に仕えて守り、寵愛を賜ることなのです。そのために代々受け継がれてきた役目なのです。ただ、私はその役目をずっと嫌っていたのです。けれど、今夜、こうしてここに私がいるのは……」
アヤメは頬を朱に染めた。
「……コウタ君だから……」
喉を微かに鳴らす。
「相手がコウタ君だから、私はここにいるのです。私は……」
彼女は告げる。
「コウタ君が好きなのです。あなたに愛されたい」
「……ア、アヤちゃん……」
コウタは息を呑んだ。
鈍感王一族の次男たる彼であっても、直球の愛だけは流石に理解できる。
アヤメが、どれほど本気なのかも伝わってきた。
しかし、
「……ごめん。アヤちゃん」
コウタは、申し訳なさそうにかぶりを振った。
「アヤちゃんの気持ちは嬉しいよ。けど、ボクは……」
「他に好きな人がいるのですか?」
アヤメは下からコウタの顔を覗き込んだ。
赤い眼差しに見つめられて、コウタはドキッとする。
「そ、それは……」
違うとは言えない。
少なくとも二人。守るべき幼馴染と、暗闇より奪い取った少女。コウタの心の中には愛する女性として意識している大切な少女が二人いる。
ただ、それを口にするには、コウタにはまだ照れが強く、勇気もなかった。
そもそも好きな子が二人もいることに強い抵抗感もあった。
「……コウタ君」
それを感じ取ったのか、アヤメは嘆息した。
「コウタ君は、そろそろ自覚した方がいいのです」
「え、じ、自覚?」
困惑するコウタに、アヤメは「そう。自覚です」と繰り返した。
「コウタ君は王なのです。少なくとも焔魔堂の王になったのです」
「いや、ちょっと待って。それは異議あり」
片手を上げてコウタはそう言うが、アヤメは気にせず言葉を続ける。
「これは決定事項なのです。変わらないのです。ともあれ、王に側室がいることは不自然ではなく、むしろ世継ぎのことを考えるのならば当たり前のことなのです。だから、他にお側女役がいることは気にすることではないのです。ここで重要なのは、コウタ君に好きな人がいることではなく……」
大きく息を吐いて、
「コウタ君が、私をどう思っているかなのです」
「ア、アヤちゃんのことを?」
アヤメは耳まで赤くして、こくんと頷く。
「もしも……もしもなのです」
一拍おいて尋ねる。
「私が誰かに手籠めにさせるとしたら、コウタ君はどうしますか?」
「そんなの決まっているよ」
アヤメとしては意地の悪い問いかけのつもりだったが、コウタは即答した。
「ボクは大切な人は誰にも奪わせない。そう決めているんだ」
そう告げて、アヤメの片手を取る。
「君を守る。攫われたのなら奪い返す。誰にも渡さない」
はっきりとそう言い切った。
流石にアヤメも、カアアアっと顔を赤くした。
彼女の仕草に、コウタは今更ながら自分が宣言した台詞にハッとする。
ほとんど反射的に口走っていた。
「い、いや、あのね、アヤちゃん」
と、慌てて言い訳しようとするが、
「……それが即答できるのなら、何も問題ないのです」
アヤメは、コウタの手を自分の頬へと当てた。
「……コウタ君。どうか、今宵、アヤメを愛してください」
「ア、アヤちゃん……」
コウタは息を呑んだ。
いつもは不愛想なことが多いアヤメが微笑んでいる。
とても綺麗だと思った。
その上、月明かりで照らされる彼女の肌はとても美しくて、見るのは失礼だと分かっていても目に入ってしまう。
こんな美しい少女が、自分にすべてを捧げようとしている。
ぞわぞわと心が泡立つ。
もし、彼女のすべてを自分のモノに出来るのなら――。
そんな感情が湧き上がってくる。
普通の男ならば、間違いなく一線を越えてしまうところだろう。
――だが、忘れてはいけない。
コウタは鈍感王であると同時にヘタレ王でもあるのだ。
傾国の姫君を一晩抱きしめ続けても手を出せなかった二冠王なのである。
「ご、ごめん! アヤちゃん!」
コウタは立ち上がった!
「ホントにごめん!」
そしてキョトンとするアヤメをよそに、襖をバシンと開けた。
「コ、コウタ君!」
アヤメも立ち上がってコウタを追おうとするが、
「ボク、多分、アヤちゃんのことが好きだ! 女の子として!」
コウタは、とんでもない台詞でアヤメの初動を封じてきた。
アヤメが半分立ち上がった状態で「えっ?」と硬直する。
「けど、ごめん! ボクには色々とまだ足りてない! 全然足りてないんだ!」
今宵、心の中に住む大切な少女が三人になってしまった。
それを強く自覚して「ううゥ」と呻くコウタ。実のところ、コウタの心の中にはシークレットキャラがまだ数人にいるのだが、そこまでは自覚できていない。
「ごめん! アヤちゃん!」
いずれにせよ、コウタは叫んだ。
恐らく、精一杯の勇気を振り絞った彼女に対して、自分の不甲斐なさと不誠実さを本当に申し訳なく思いながら、
「ごめん! 今はまだ無理! ボクはヘタレる!」
遂にはヘタレ宣言までした。
そしてコウタは、自室から脱兎のごとく飛び出した。
まさしく敵前逃亡である。
あんまりな展開に、アヤメはしばし唖然としていたが……。
「……誰にも渡さないとまで言うのなら……」
不意に、剣呑な光が彼女の瞳に宿る。
次いで指先を髪の中に入れ、ゆっくりと立ち上がった。
そして、
「とっとと覚悟を決めて、私を頂戴するのです!」
その台詞と同時に、アヤメは邪魔な襖を蹴破った。
そして巨大化させた金棒を手に、少女は愛しい少年を追った。
「ごめェん! アヤちゃん!」
「全力でヘタレるな! 私を愛しやがれ、なのです!」
信じられない速さで逃げる少年に、金棒を嵐のように振り回す少女。
その鬼ごっこは、実に朝方近くまで続くのであった。




