第一章 戦士の国の姫君➂
焔魔堂の里。サカヅキ邸の一室にて。
彼女は、むくりと上半身を起こして、「ん~~」と腕を伸ばした。
肩まであるウェーブのかかった茶色い髪の美女。
渦中の人物。
ベルニカ=アーニャこと、ベルニカ=サカヅキである。
ここは畳の敷かれた和装の部屋。彼女自身も和装を纏っている。
ただ、寝起きのため、服は少し着崩れて、白く豊かな胸元は露になり、髪も少しばかり乱れていた。
「ふわあ……」
と、欠伸をする。
ベルニカは瞬きしながら、室内を見渡した。
広い和室には大きな布団が一つ。彼女が寝ていた布団だ。
しかし、そこにはもう一人寝ていたはずだった。
ベルニカの愛する夫だ。
けれど、夫の姿はどこにもない。
「……ヒョウマ?」
ベルニカは立ち上がった。
妹分ほどではないが、服装に無頓着なベルニカは、鎖骨や胸元が見えるほどに着崩れた浴衣を直すこともなく部屋を出た。
広い庭園が見える縁側の廊下を歩く。
まだ少し寝ぼけた感じでベルニカは夫の姿を探した。
そして、
「あ。いた」
庭園の一角に夫の姿を見つけた。
年齢はベルニカより少しだけ年上か。
額には一本角。精悍な顔つきの短い黒髪の青年だ。今は鋼のような上半身を開けさせて、木刀を振っている。
――ヒョウマ=サカヅキ。
ベルニカの夫であり、サカヅキ家の次期当主である。
「ヒョウマ~」
ベルニカは縁側から庭園に降りた。
彼女は裸足で、庭園には白い砂利が敷き詰められているのだがお構いなしだ。
ベルニカは、ヒョウマの元へと駆け出した。
ヒョウマもそんな妻の姿に気付き、素振りを止めて腰に木刀を差した。
「おはよう。ベル」
「うん。おはよう。ヒョウマ」
にこやかにそう答えるベルニカに、ヒョウマも笑う。
が、すぐに眉をひそめた。
「ベル」
妻の足元を見やる。
「裸足で庭園に降りてはいけないぞ。怪我をする」
「これぐらい平気よ」
ベルニカは片足を上げて、パンパンと足裏を払った。
「それより私も修練がしたいわ」
「それはダメだ。ベル」
ヒョウマは嘆息した。それから妻の腰と両腿に片腕を回し、抱きかかえた。
そのまま屋敷に向かって歩き出す。
「ベルは今、とても大切な時期なんだ。適度な運動ぐらいならいいが、修練となるとベルはついやりすぎてしまうからな」
「う~ん……不満だわ」
夫の首に両腕を回して身を寄せるベルニカ。
同時に頬も膨らませる。
「お腹の子のことが心配なのは分かるけど、このままだと弱くなっちゃう」
「その時は俺が守るさ。だが、心配しているのは俺たちの子供だけじゃないぞ」
「え?」
ベルニカは、少し上半身を離して目を丸くした。
ヒョウマは妻を見つめた。
「当然、ベルのことも心配なんだ。まだそこまで神経質になる必要はないと思うが、たとえ子供が無事産まれてもベルの身に何かあってはいけない」
ヒョウマは、片手を伸ばして妻の頬に触れた。
「ベルも、俺の生涯の宝なんだ」
「……ヒョウマ」
ベルニカは顔を赤くした。
「もう。ヒョウマの馬鹿」
言って、夫の頭を強く抱きしめる。
その際に夫の角にも触れた。
「ああ。そういえば」
照れ隠しもあって、ベルニカは話題を変えた。
「昨日、フウカのとこのアヤメちゃんと、御子さまに会ったわ」
「なに!」
ヒョウマは目を見開いた。
「ベルはすでに御子さまとお会いしていたのか!」
「うん」
ベルニカは頷いた。
「ヒョウマと同じ黒髪の結構普通な感じの子だったかな。ただ、アヤメちゃんはあの子のことが凄く好きなのは分かったわ」
「おお! そうか!」
ヒョウマは、妻を正面に抱え直して笑みを見せた。
「あの気難しいことで有名なライガ殿の義妹君がか! それはもう御子さまであることは疑いようもないな!」
「しかも、アヤメちゃんったら人前で自分の心角を触らせるぐらいよ」
ベルニカは、少し顔を赤くした。
「それって、もうベタぼれってことだよね」
「ふふ。すでに心角の試しも行った後ということか」
ヒョウマは妻を抱えたまま、その場で回った。
「これは近々、七日七晩の儀も行われるかもしれん」
「……うわあ」
自身も経験したことのある儀式の名に、ベルニカは微かに顔を赤くした。
「あの無茶くちゃな耐久レースみたいな愛の巣ごもり期間かあ……。けど、御子さまは焔魔堂の人間じゃないし、アヤメちゃんは純血の一族だから、ヒョウマみたいに体力なんて底なしだろうし、それはそれで凄く大変なんだろうなあ……」
「ん? あ、いや……」
すると、ヒョウマは足を止めて、
「あれは、本質としては二人きりにして愛を確かめ合う儀式だぞ。別に七日間全部をそういうことに当てる必要は……」
「……え?」
「………あ」
キョトンとした妻の様子に、ヒョウマは自分の失言に気付いた。
「……ちょっとヒョウマ」
ベルニカの額に青筋が浮かんだ。
「私、三日目ぐらいの時、今日だけは休ませてとかお願いしたよね?」
「そ、それは……」
言葉を詰まらせるヒョウマ。
「なのに朝も昼も夜も、もう全然休ませてくれなかったわよね?」
ジト目で睨みつけるベルニカ。
「そ、その、すまない。あれはだな……」
ヒョウマは頬を引きつらせた。
「俺も、その、ベルへの想いを結構溜め込んでいたのもあって、ベルが俺を受け入れてくれたことが、嬉しくてつい……」
「……ヒョウマ」
ベルニカは、ジト目で夫を見据えた。
「と、ともあれだ!」
ヒョウマは慌てて口を開く。
「御子さまとアヤメ殿の仲が良好なのは良きことだ! 御子さま。そしてアヤメ殿が産む御子さまと我が一族の血を引く次代の若君。俺たちと、俺たちの子の時代は、まさに祝福されているということだな!」
と、意気揚々に告げて誤魔化すように笑うが、当然ながら誤魔化せない。
「アホ。ヒョウマの鬼畜。ドスケベ」
ゴツン、と愛妻に頭を叩かれる。
ヒョウマは「う」と呻く。
「その、すまなかったよ。ベル」
そう謝罪しつつ、気まずげに頬をかいた。
「……まあ、もういいわ」
あの幸せを感じつつも、ちょっとばかり……いや、結構なぐらい過酷だった七夜を思い出して再び顔を赤くしつつ、ベルニカは嘆息した。
「全体的にクールに見える焔魔堂の人たちが、実際のところ、かなり情熱的なのはもう知っているし。けど、そうなってくると……」
ベルニカは指先をあごに当てて目を細めた。
「アヤメちゃんもきっと積極的なんでしょうね。ふふ。だったらヒョウマ」
一拍おいて、夫の頭に手を回した。
そうして女の直感も発揮して、こう告げた。
「あの二人、案外、七日七晩の儀を待たずに、昨晩にも愛を確かめてるかもよ」




