第六章 蘇る過去④
その時、彼女はゆっくりと歩を進めていた。
後ろ手に手を組み、笑みさえ浮かべて歩いている。
しかし、脳裏に浮かぶのは穏やかにはほど遠い光景だ。
それは、夢現のような記憶。
自分の意志とは関係なく、幾人もの人を殺害してきた。
ある時はその手で無垢な少女を切り裂き。
ある時は村ごと圧壊させたこともあった。
何十機という鎧機兵とも対峙した。
だが、そのどれもが彼女の敵ではなかった。
唯一印象に残ったのは突撃槍を持った白金の鎧機兵。
あの機体だけは完全に破壊するまでには至らなかったのを憶えている。
機体の損傷の隙間から、唇を噛みしめてこちらを睨む赤髪の少年の顔も。
そうして、誰にも止められず。
彼女自身にも止められず、幽玄の中を彷徨い続けた。
老いもせず、同じ時間の中を歩んでいた。
そして――。
四本の角に、漆黒の鎧。鬼の風貌を持つ鋼の騎士。
――『彼』が現れた。
幽玄の記憶の中で、最も多く彼女に対峙した鎧機兵。
一目で『彼』だと分かった。
その鎧機兵はどの機体よりも強かった。
しかし、それでも彼女には届かない。
幾度となく破壊した。
ただ、『彼』の命を奪うことだけはさせなかった。
人間を殺す。
強迫観念にも等しいその衝動を必死に抑え込んだ。
だからこそ『彼』は何度敗北しても、彼女の前に現れることが出来たのだ。
――すべては彼女の暴走を止めるために。
敗北を重ねるごとに、『彼』と漆黒の鎧機兵は確実に強くなっていった。
そうして、いつしかあの鎧機兵は真紅へと変貌を遂げた。
その力は、凄まじく。
その拳は、遂に彼女へと届いた。
力尽きた彼女は、死をはっきりと感じた。
黄金に輝いていた髪は漆黒に戻り、体はゆっくりと光と化していく。
すると、大破寸前の真紅の鬼から、『彼』が降りてきた。
自分と違い、あの頃よりも成長した『彼』だ。
ただ、その髪の色だけは心が痛む。
その色は、『彼』を完全には救えなかった証だから。
愛しい人は、横たわる彼女を抱き上げて何度も謝っていた。村にいた頃は一度も見たことのない涙を流して謝罪していた。
――謝ることなんて何もないのに。
彼女は残された力を振り絞って『彼』の頬に触れた。
せめて最後の瞬間だけは笑顔でいたかった。
『彼』は、呆然とした顔で彼女を見つめていた。
そこで意識が消える。彼女の体は光となって消えた。
ただ、光となっても『彼』の悲痛な叫び声だけは、いつまでも耳に残っていた。
そして、彼女の魂は――……。
『……アワレナ、少女ダ』
暗黒の世界。傷だらけの彼は言った。
――あなたは誰なの?
彼女がそう尋ねると、全容さえ把握しきれないほどの巨体を持つ彼は笑った。
『……タダノ怪物ダ。死ニゾコナイノナ』
大河すら凌ぐ三つの鎌首を揺らして、彼はさらに語る。
『……乙女ヨ。ウヌハ死ンダ。ジキニ自我モ、キエルダロウ。ダガ、コノママデハ、アマリニモ、ウヌガ救ワレナイ。ワレハ、ソレヲミスゴセナイ』
――え?
『……《悠月》ノ乙女ヨ。ワガ唯一ノ友ガアイシタ者ヨ。ノゾミヲイエ。ウヌガノゾムノナラ、ワレノ、ナミダヲサズケヨウ』
荒々しい息を吐きながら、彼は告げる。
『……サスレバ、ウヌハ、ステラクラウン二、帰還デキルハズダ』
――私を助けてくれるの?
『……ソレハ、ウヌシダイダ。ワレノ加護ヲ、ウケテモ、狭間ヲ、コエルノハ容易デハナイ。多少ノ変貌ハマヌガレナイ』
――変貌? 私は怪物に生まれ変わるの?
『……ソウデハナイ。ココロガ、スコシ変質スルダケダ。狭間ヲコエルコトデ、本能ガ強ク面ニデルヨウニナルノダ。ウヌハウヌノママダ。断言シヨウ』
彼女は沈黙した。
この巨大な怪物が言っていることが正しいとは限らない。
聞こえの良い嘘を並び立て、自分を騙そうとしているのかも知れない。
一瞬そう疑った。
けれど、彼女は凶悪な怪物から、どこか優しさを感じていた。
彼女はしばし悩み、そして自分の望みを告げた。
――もう一度、『彼』に逢いたい、と。
『……ソウカ』
巨大な怪物は、三対ある双眸を細めた。
すると一滴の涙が零れ落ちた。それは彼女の身体を覆った。液体であるのに呼吸が出来る。崩れ落ちることもなく球体を維持していた。
『……強ク想エ。愛シイ者ヲ。ソレガ狭間ヲコエル、ミチシルベトナル』
――あなたはこれからどうするの?
『……ココニ、ノコルダケダ』
――ひとりぼっちで?
『……ヒトリデハナイ。ワレハ、ワレデ、セワシク生キテイル。スクナクトモ、憎悪ト憤怒二クルッテイタ頃ヨリハ、ココチヨイ』
それから彼は『……ハヤク行ケ』と素っ気なく告げた。
途端、彼女を覆う涙が加速した。夜に輝く流星のように黒の世界を横断する。
彼女は必死に『彼』のことだけを想った。
そうして、彼女はこの世界――ステラクラウンに戻ってきた。
『おお……。神託通りだ』
『では、この方こそが……』
目覚めた時、彼女は巫女装束を纏った姿で《穿天の間》にいた。
そして周囲には十人の男達。
かしずく教団の幹部達を前にして、随分と困惑したものだ。
しかし、あの重く暗い真っ黒な世界で、自分のために涙を流してくれた彼が何だったのかは、漠然とだが理解していた。
だからこそ、彼女は恩義を抱いて盟主の座に就いたのだ。
「……もう随分と昔のことのようね」
彼女はポツリと呟く。
「……姫さま?」
すると、彼女に付き従っていたジェシカが眉根を寄せた。
「どうかされましたか?」
「いえ。何でもないわ。ただ、少し緊張しているのかも」
彼女は振り向いて笑う。
ジェシカは微苦笑を浮かべた。
「仕方がありません。これからのことを思えば」
「まあね。ここが正念場でしょうし」
彼女は足を止めた。
すぐ近くに見えるのは、広大な庭園を奥に持つ巨大な格子扉。
門に滞在する守衛は不意に立ち止まった二人の女性に訝しげな視線を向けた。
しばしの沈黙。
すると、コツコツと足音と立てて近付いてくる一団が現れた。
一見だけだと一般人の集まりだ。服装にも統率性のない。
が、その足並みは、訓練された兵士のものだった。
「……何のつもりだ。あなたは」
一団のリーダー格らしき男が問う。
対し、彼女は微笑んだ。
「お仕事ご苦労様です。黒犬兵団の皆さま。ですが、あまりお手を煩わせるのも申し訳ないと思い、こうしてお伺い致しました」
そして彼女――サクヤは、にこやかな声で尋ねる。
「ジルベール=ハウル公爵はおられますか?」




