第五章 迷い込みし者②
「な、何だよ! こっち来んなよ!」
木の棒を振るいつつ。
少年は目に涙を溜めていた。
「や、やめろよ! あっち行け!」
今、少年の目の前には無数の狼達がいた。
背後には怯えて声も出せない守るべき者がいて、さらにその奥は湖の淵だ。
もはや湖以外に逃げ場はないのだが、彼らはまだ泳げなかった。
(ど、どうしよう……)
少年の顔がどんどん青ざめていく。
狼の群れは徐々に距離を詰めてきている。
大の大人でも棒きれだけでは狼の群れと戦うことできない。
ましてや、わずか八歳の少年に勝ち目などなかった。
「グルウウウゥ……」
唸り声を上げる狼の群れ。
木の棒を持つ少年の手がビクッと震えた。
このままでは自分達は殺されてしまう。
と、思った時だった。
――バキバキバキッ!
突如、森の奥から轟音が響いてきたのは。
「――な、何だよ! 今度は!」
少年は大きく目を見開き、狼達は警戒した。
まるで巨大な獣か何かが森の中を疾走するような音だ。
明らかに普通の状況ではない。
「うわああッ!? 何だあれッ!?」
そして怯える少年の前で、それは遂に現れた。
木の枝を砕き、繁みを突き抜け、勢いよく登場したのは紫銀色の甲冑騎士だった。その背中には、青ざめた表情の蜂蜜色の髪の少女がしがみついている。
『リーゼ! 到着です!』
「わ、分かりま……うぷっ」
さらに、その甲冑騎士は前傾姿勢のまま狼の群れの中を突っ切り、少年の目の前で反転した。そうして少年達の盾となった騎士の足は少しだけ浮いている。
少年は唖然としていたが、すぐに目を輝かせ、
「す、凄っげえええ! 何だこれ! かっけええええ!」
状況も忘れて興奮した。
すると、甲冑騎士はズズンと地面に降り立ち、前を向いた姿で子供達に尋ねる。
『怪我はありませんか?』
「……え? お、女の人?」
厳つい外見からは予想も出来ない可憐の声に、少年は一瞬唖然とするが、
「あっ、け、怪我はないです。俺も弟も、この子も」
『そうですか。それは良かった』
「ええ、本当に」
少年の返事に、ホッと胸を撫で下ろすメルティアとリーゼ。
が、リーゼの方はそこで眉根を寄せた。
「この子? 確か行方不明の子供は二人だったのでは……」
リーゼはメルティアから降り、少年達の方へ振り向いた。
そこには幼い兄弟と、もう一人、少女がいた。
薄青いシーツのような服を着た八歳ほどの女の子だ。
彼女は少年の弟と手を繋ぎ、怯えていた。
リーゼはますます眉をしかめた。
「……どういうことですの? 迷子が増えて……?」
と、呟いた時、
『……リーゼ』
メルティアが告げる。
『狼達に危険な兆候があります。私が牽制しますので、その間にリーゼは鎧機兵を喚んでその子達を保護して下さい』
「ッ! 分かりましたわ。メルティア、気をつけて!」
リーゼは腰の短剣に抜刀し、そう答えた。
考えるのは後でいいだろう。
今は子供達の安全確保が最優先だ。
『問題ありません。狼の牙では私の装甲は貫けません』
と、メルティアが返答する。
そして紫銀色の甲冑騎士がズシンと前へ踏み出していく。
「「「グルウウウウゥ……」」」
対する狼達は警戒した。
甲冑騎士は両の拳をすっと構える――が、その立ち姿は、お世辞にも洗練されたモノは言えない。身構えた足は若干内股で、拳も少しだけ反っている。
元々メルティアは戦闘訓練など受けていない。完全な素人の構えだ。
狼達もそのことにはすぐ気付いたようだ。
「……グルウウゥ」
唸り声を上げつつ、ゆっくりと間合いを詰め始める。
そして――意を決した一頭がメルティアに襲い掛かった!
「ガアアアアッ!」
牙を剥き、甲冑騎士の肩口を狙って跳びかかる――が、
『えい』
――ドゴンッ、と。
あっさり迎撃されてしまった。
メルティアが放った拳。それはいわゆる猫パンチだった。
襲い来る狼の頭めがけて撫で下ろすように拳を振るったのだ。
だが、その威力が怖ろしい。
直撃を喰らった狼は、まるでハンマーで打ち落とされたように地面へと叩きつけられたのである。流石に狼達も動揺した。
しかし、ここまで追い詰めた獲物を簡単に諦めたりはしない。
すぐさま第二陣――二頭の狼が跳び掛かるが、
『こ、来ないで下さい』
言って、左腕をブォンと横に振るう。
問答無用の張り手は一頭の頭部に直撃すると、狼の身体を容易く吹き飛ばし、そのまま並んでいたもう一頭の狼も弾き飛ばした。
そして一直線に吹き飛んだ二頭の狼は、凄まじい勢いで森の奥へ消えていった。
「す、凄いですわね……」
メルティアの戦闘力に、愛機を召喚するのも忘れてリーゼが呆気にとられる。
もはや、格闘技の心得など関係ない。
ただ手を振り回しているだけで狼の群れを全滅させそうな攻撃力だ。
愛機を喚ぼうと身構えていたリーゼだったが、見たところ、狼の群れはかなり怯え始めている。野生動物だけあって、自分より強い者には敏感なのだろう。
(これなら、わたくしが鎧機兵を喚ぶ前に逃げ出すんじゃ……)
と、リーゼの脳裏にそんな考えがよぎった時、
「グルルウ……」
まるで無念の意志を表すように呻いて、狼の群れが撤退し始めた。
リーゼの推測通り、メルティアを相手にしては割に合わないと判断したようだ。
そして次々と背を向けて逃走する狼達。
リーゼを始め、メルティア、少年達もホッとした表情を見せる。
――が、その時だった。
「ガアアアアアアアアアア――ッ!」
突如、森から響く怒号。
メルティア達はもちろん、狼達さえも身体を委縮させた。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!!」
さらに、周囲に轟く怒号。
そしてバキバキと木々をへし折り、咆哮の主は広場に現れた。
「う、うそ……」
唖然とするリーゼ。
それは、体長四セージル級の巨大な猿だった。
最大クラスで六セージルほどまで成長する中型魔獣の一種であり、《暴猿》と名付けられた凶暴な黒い大猿だった。
「こんな小さな森で《暴猿》ですって!?」
本来ならば、広大な密林などを縄張りにする魔獣だ。木々の間隔がかなり狭く、しかも街道に近いこんな場所で出くわす相手ではない。
突然すぎる来訪者に、リーゼもメルティアも困惑していた。
子供達に至っては、完全に呆然としている。
「――ギャンッ!?」
すると、《暴猿》は巨大な手を伸ばし、近くにいた狼を捕えた。
そしておもむろに口に運び、狼をひと呑みにする。
バリボリという音に、ハッとしたのはメルティアだった。
『リ、リーゼ! 早く鎧機兵を! あれは私の手には負えません!』
友人の切羽詰まった声に、リーゼも息を呑んだ。
「わ、分かりましたわ! 来なさい《ステラ》!」
そして短剣を構えて愛機の名を呼ぶ。
途端、地面に光の線が疾走し、一瞬で紋様が描かれる。
これが鎧機兵を召喚する転移陣だった。
そうして、ゆっくりと転移陣から姿を現す白銀色の鎧機兵・《ステラ》。
しかし、それがまずかった。
狼を襲って捕食していた《暴猿》の注意が鎧機兵に向いたのだ。
「……グアアアアアアアアッ!」
黒い大猿は鎧機兵を敵と認識したのだろう。
威嚇の声を上げると、猛烈な速度で鎧機兵に突進してきた。
『リ、リーゼ! 急いで乗って下さい!』
怒涛の勢いで迫る魔獣に、メルティアは完全に怯えていた。
狼の群れ程度が相手ならば無双できるこの着装型鎧機兵も、あんな巨大な化け物と戦えるようには設計していない。
しかし、今逃げれば、リーゼや子供達が殺されてしまう。
ここはリーゼが鎧機兵に乗るまでメルティアが体を張るしかない。
――が、
「ガアアアアアアアアアア――ッ!」
『………あ、う』
大猿の咆哮に、メルティアは身体をすくませた。
もはや恐怖のあまり身構えることも出来ず、その場に立ち尽くす。
「メルティア! 逃げて!」
解放された鎧機兵の胸部装甲の淵に足をかけ、リーゼが叫ぶ。
「お、お姉ちゃん! 危ない!」
と、少年も声を上げるが、メルティアは全く反応できない。
そして《暴猿》が目前に迫る――が、
「ッ!? ガアアアッ!?」
突如、大猿は足を止め、後方に跳んだ。
そしてその直後のことだった。
――ズドンッッ!
と、地面に突き刺さる黒い閃光。
思わず緊迫する広場。
閃光が直撃した場所には、一振りの剣が突き刺さっていた。
鎧機兵用の直刀だ。メルティアにもリーゼにも見覚えのある剣だった。
そして遅れて森の奥から二機の巨人が跳躍し、ズズンッと広場に降り立った。
一機は右手に斧、左半身に外套を纏った重装型の鎧機兵。
もう一機は巨大な二本角と、竜頭を象った手甲を持つ鎧機兵だ。
これらの機体にも見覚えがあった。
重装型は、ジェイクの愛機・《グランジャ》。
竜装の機体の方はコウタの愛機・《ディノス》である。
『コ、コウタ!』
メルティアが喜びと安堵の声を上げる。
すると、《ディノス》がメルティアに顔を向け、
『……大丈夫だった? メル。リーゼさんも』
と、優しい声をかけた。
『わ、私は大丈夫です』
「わ、わたくしもですわ。子供達も……」
そう告げる少女達に、《ディノス》の中でコウタは安堵した。
『そっか。子供達も無事なんだね。ジェイク。メル達のこと頼むよ』
『おう。任せときな相棒』
と、力強く応えるジェイク。
同時に《グランジャ》を、メルティア達を庇う位置に移動させた。
『うん。任せたよ。それじゃあボクは……』
そう呟き、コウタは警戒する《暴猿》に視線を向けた。
『……おい、そこの猿』
竜装の鎧機兵は剣を引き抜き、冷酷な声で告げる。
『お前、今、誰を襲おうとした……?』
その隠しきれない怒気に気圧され、《暴猿》は一歩後ずさった。
《ディノス》は処刑刀を横に振るう。
『このまま逃げるのなら追わない。けど、向かってくるのなら容赦はしないぞ。はっきり言って今ボクは本気で苛立っている』
魔獣はごく一部の例外を除き、言葉を理解するほどの知能はない。
だが、竜装の鎧機兵から放たれる殺気は獣でも理解できた。
迂闊に挑めば、確実に殺される敵だと感じ取った。
「……グルウゥ……」
結局、《暴猿》はゆっくりと後退すると、森の中へと退散した。
本能に従った利口な判断だ。先程までわずかにいた狼達もすでにいない。
湖に静寂が訪れ、コウタはふうっと嘆息した。
怒りは抱いていたが、無益な殺生は好きではない。
まあ、これはこれで望ましい結果か。
『とりあえず危機は去ったみたいだね』
《ディノス》は振り向き、メルティア達に告げた。
『……はい。助かりました』
「……本当に危ないところでした。ありがとうございますわ」
と、安堵する少女達。
『ふう……やれやれだな。いきなり魔獣っぽい雄たけびを聞いた時はマジで焦ったが、どうにかなったな、コウタ』
そう告げるのは、ジェイクだ。
彼の愛機はゴンゴンと斧の柄で肩を叩いている。
「ふええェ、こ、これで帰れるぞ……」
「に、にいちゃあああん!」
「…………」
と、これは子供達の声だ。どうやら三人とも無事のようだ。
にわかに騒がしくなった状況に、コウタが苦笑を浮かべる。と、
(……え? あれ?)
そこでふと首を傾げる。
少し不思議なことに気付いたのだ。
『……ねぇメル。リーゼさん』
そしてコウタは眉根を寄せて尋ねた。
『迷子って二人だよね? なんで子供達が一人増えているの?』




