後編「本当に好きだったもの」
一瞬だった。渾身の力で振り降ろしたハンマーは寸でのところで躱され、勢いで僕の身体が前に持っていかれる。そのままハンマーを床に思いきり打ち付けてしまい、金属音とともに強い衝撃が掌に襲ってきた。これがまずかった。思わず手の力を緩めてしまった僕から、相手はハンマーを取り上げる。
武器を奪われた僕は丸腰にも関わらず飛び掛かった。しかし、その僕の脇腹めがけ、相手はハンマーを振った。
重い一撃を食らった脇腹は「痛い」という信号を出すこともできずに回路ごと潰される。
脇腹を押し潰されながら、僕は壁にたたきつけられた。
「闇討ちとは。お前にしては考えたな」
Tは感心するように言うと、部屋の照明を点ける。
一方の僕は破損個所から送られてくる膨大な信号の処理に追われ、うずくまったままで自由に身体を動かせなかった。左脇腹が強引に圧縮されたため、周囲の回路から様々な信号が飛び交う。目もちかちかとしている。
これはとんだお笑い草だ。彼女をTの手から守るために自分の命を投げ捨てる覚悟でこの破壊計画を立てたのに、僕がやられてしまっては元も子もないではないか。これで誰もTの暴走は止められない。
今Tはどのような表情を浮かべているのだろうか。彼のことだからきっと勝ち誇った笑みでも浮かべていることだろう。
信号の処理も間に合い、目のちらつきも収まってきた。しかし、僕はこれから来るであろうとどめの一撃に目を強く瞑る。
だが、来たのは金属の重い衝撃ではなかった。音だ。先の空振りの際に生じた金属音が聞こえてきたのだ。
ハンマーを、捨てた?
目をうっすらと開けると、灰色の床に赤銅色のハンマーが転がっているのが見えた。
何のつもりだ?
すると、Tが頭上から言う。
「俺ならこのタイミングで仕掛けるからもしや、と思ってはいたが。やはり俺はお前だな。考えることが一緒だ」
「誰が、お前なんかと……」
痺れる身体に鞭打って、僕はわずかに顔を上げる。が、
「あ、あ……」
顔を上げたことを後悔した。僕の中の殺意というべきものが、一瞬にして崩れ去った。潮に流される砂の城のように。
遅かった。遅すぎた。
なぜ、もっと早く実行しなかったのだろうか。これでは、これでは……。
こんなの、あんまりだ。
Tは僕の表情を見て、満足そうな笑みを浮かべた。
彼の作業着は大量の返り血で赤黒く染まっていた。
「ずいぶん手こずったよ。動物の死体から剥ぐのとはわけが違う。生きている分、必死に暴れるからな。皮に傷がつかないか冷や冷やしたよ。だけど、苦労した甲斐はあった。これまでずっと恋焦がれていた、あの女の〝皮〟を手に入れたんだからな」
Tは嬉しくてたまらないようだった。感動で身体を震わせている。
「もう誰にも渡さない。兄弟にも、お前にもだ。あれは、あれは、この俺のものだ!」
それはTの勝利宣言だった。
その時、身体のそこから何かが湧き上がってきた。
「よくも、よくも彼女を殺したな!」
吠える僕に、Tはあざ笑うように鼻を鳴らす。
「なんだよ、負け犬の遠吠えか?」
「黙れ!」
僕は立ち上がると、彼の襟に掴みかかった。
だが、今の僕に彼を押し倒す力など残ってはいない。事実、彼の身体はびくともしなかった。
「どうして、どうして殺した? どうして殺したんだよ? 僕だって、僕だって彼女の事が……」
次第に声が情けなくなっていき、雑音のようなものが混じっていく。さっきので発声器も狂ったのだろうか。ついには声が雑音に飲み込まれ、嗚咽のようになってしまった。
両腕から力が抜けていき、その場に僕は崩れ落ちる。
雑音を流しながら僕は自分を呪った。すべて僕の責任だ。Tの残虐性に気付いているだけでなく、彼女が彼に狙われていることを知っていながら、助けられなかったのだ。今、思えばなんだかんだ言って僕は保身に走っていた気がする。本気で彼女を助けたいのならば、あの時業務を投げ出してでも医務室へ向かうべきだったのだ。そしてTに注意するよう彼女に言えばよかったのだ。猫が殺された時点で、次に人間である彼女が狙われるのはわかっていたのだから。
と、こんなことを今更考えたところで意味がない。
もう後の祭りなんだ。
「……きている」
Tが何かを呟いた。だけど、もうどうでもいい。彼女が殺された今、何を言われたところで……。
「まだ、生きている」
え?
僕は顔を上げる。Tの顔からは笑みが消えていた。
聞き違い、ではなさそうだ。
「生きている」、確かにTはそう言った!
「どういうことだ? 生きている、とは」
「そのままの意味だ」
そのままの意味? ますますわからない。
「でも、殺したんだろ? 殺したのに生きているってどういうことだよ!」
「何を勘違いしているんだ? 俺は皮を剥いだだけだ。本体は無事だ。命に別状は、今のところ無い」
それまでの狂気じみた雰囲気はどこへ行ったのか、彼の口調は静かなものだった。
「それは本当か? 嘘じゃないよな?」
念のため、僕は訊いた。彼のことだ。僕を嘲笑うために嘘をついている可能性がある。だが、Tは強く頷いた。
「ああ。本当だ」
彼女が、生きている!
信じられない。だけど、もしそれが本当ならば――と、僕はここで気付いた。
「今のところ」とはどういうことだろうか?
「俺が医務室を出るときはまだ息があった、ということだ。医務室のど真ん中でマグロみたいに横たわっていたが、あの分だとそう長くはないだろうな」
「そんな……」
「早く助けに行ってやったらどうだ?」
言われるまでもない。
僕は立ち上がる。脇腹のダメージは無視できないものではあるが、走る分には問題なさそうだ。
僕はTを押し退けると、開けっ放しの扉へ向かう。
彼が急に態度を変えたのは気になると言えば気になる。しかし、今は彼女が優先だ。
一刻も早く彼女を助けないと……!
医務室へ向かおうと廊下に足を踏み出した、その時だ。
突如、ガクッと僕は態勢を崩しかけ、前のめりになる。何事かとおもいきや、その原因はすぐにわかった。
「脚が……」
よりによって、こんな時に!
僕は硬直した脚を睨む。
まるで金縛りにあったみたいだ。焦る僕を嘲笑うかのごとく両脚は頑なに動こうとしない。
どうした? なぜ動かない? このままだと、彼女が……!
「はははははははははははは!」
突然狂ったような高笑いが後ろから聞こえてきた。
まさか、あいつが僕に何か仕掛けたのか?
僕は振り向いた。
Tの顔に再び笑みが戻っていた。しかも、その眼は狂気に歪んでいる。
「早くしないと手遅れになるぞ?」
Tは楽しそうだ。
そんなことはわかっている。わかっているけど……!
「あの女はお前の助けを今か今かと待っているんだぞ? 筋肉繊維むき出しの人体模型の姿でな!」
人体模型?
フッと脳裏にイメージが浮かびあがった。医務室に置かれている、不気味な人形のイメージが。青白い肌の右半身、筋肉繊維むき出しの左半身、そして丸出しの臓器。
彼が何を言おうとしているか、すぐに理解した。
途端、脚から急激に力が抜けていき、僕は片膝を床に付ける。
「おやおや? これはどういうことかな?」
動けないだけでなく自分の身体も支えきれなくなった僕を、興味深そうにしげしげと眺めるT。こいつ、どれだけ僕を苦しめれば気が済むんだ!
「T、悪ふざけはやめろ」
「あ?」
「とぼけるな。僕の身体にいったい何をした!」
怒鳴られた彼は一瞬きょとんとする。身に覚えが無いと言わんばかりに。だが、彼はすぐに腹を抱えて笑い出した。
「何もいじっちゃいないよ、俺は」
「嘘をつくな! 現に僕は」
「ハンマーで殴っただけだろうが」
ハンマー! そうか、ハンマーか。あれほどの威力なら脇腹を潰す際、脚関係の回路が駄目になっても不思議じゃない。ハンマーのせいで。つまり、結局こいつのせいで僕は――
「残念だが、それは違うぞ」
「違う、だと?」
「ああ。お前、扉までは普通に歩けたろ? 本当に回路がいかれていたら、まず動かない」
「なら、どうして……」
「もうわかっているはずだ。どうして突然お前の脚が動かなくなったのかくらい、な」
もうわかっている、はず……?
Tは僕の肩にぽんと手を置くと、耳に口を近づけ、ゆっくりと言い聞かせた。
「俺達は同じだろ,兄弟」
瞬間、下劣でおぞましい答えが僕の頭に浮かんできた。
「嘘だ……」
カチカチカチと小槌で打ち付けるような音が聞こえてきた。僕の口からだ。
「そんなこと、絶対にありえない!」
「なら、早く行ってやれよ」
Tは肩から手を離した。僕は脚を動かそうとするが、膝すら上げられない。いくら力を入れても脚を震わせるだけだった。
「ほらほら、どうしたんだ? 外見だけに目を奪われている俺とは違うんだろ? 彼女の優しさに惹かれたんだろ? 中身に惹かれたんだろ? 心に惹かれたんだろ? 早く行ってやったらどうだ!」
最後の言葉を聞いて、ようやく僕の脚は動き出した。
すぐさま僕は廊下へ走り出る。一刻の猶予もならない。
後方より聞こえてくる笑い声から逃げるようにして、僕は医務室へ向かっていった。
「大丈夫ですか!」
医務室の扉を勢いよく開ける。真っ先に目に入ってきたのは、クリーム色のタイルが敷き詰められた床。そしてその上には、皮を剥がれた彼女の姿が――
無い?
医務室の床はきれいに掃除されており、瀕死の彼女どころか埃すら見当たらない。
不審に思った僕は部屋に入ると、辺りを見渡す。
きれいに整えられた真っ白なベッド。書類がしっかりと整頓されているデスク。さまざまな薬品の瓶が並べられている棚。
「どういうことだ?」
彼女どころか、争いの痕跡が一切見られない。Tの話では部屋のど真ん中で彼女が横たわっているとのことだが、これはいったい……。もしかして彼女は逃げたのだろうか? いや、それはない。それならば何かしらの痕跡があるはずだ。それに、皮を剥ぐとき彼女は必死に抵抗したと言っていたが、その割には血痕のような類が全く見当たらない。あれだけの返り血を浴びていたのだ。暴れたのなら至る所に飛び散っているはずだ。
いくらなんでもきれいすぎる。
「どこに……」
どこに消えた?
僕はふと、足元に冷やりとした空気が流れていくのを感じた。
どこからか冷気が漏れている。
僕は部屋の奥の、薬品棚の隣にある冷蔵庫へ近づく。
扉が閉まりきっていない。
僕は扉を開ける。バサリと何かが落ちてきた。
ノートだ。
「どうしてこんなところにノートが?」
僕はノートを手に取るも一旦脇に置いて、冷蔵庫の中を確認してみる。そこには生理食塩水のボトルと輸血パック数袋がしきつめられていた。
僕は冷蔵庫の扉を閉める。扉はすんなりと閉じた。しっかりと閉まっていなかったのは、このノートが原因のようだ。
誰かがノートを無理やり冷蔵庫に押し込んだのだろう。
だけど、何のために……?
僕はかがむと、ノートをぱらぱらとめくっていった。ノートには日付とその日の出来事が汚い字で書かれている。日記だ。
ただ、この日記。ところどころにとんでもないことが散りばめられていた。
〈七月二十七日 友人から金魚をもらった〉
〈七月二十八日 金魚を液体窒素の中に漬け込んだ。凍った。金魚鉢に戻してみた。氷が解けて金魚が元気に泳ぎだした。でもすぐ死んじゃった〉
「なんだよ、これ」
他にも、帰りに車で狸をひき殺しただの、自宅付近でカラスをボウガンで射抜いただの、こういったことが何気ない日常と一緒に書かれていた。そして、なぜか仕事や職場については一切触れられていない。
僕は一度ノートから目をそらした。
気持ち悪い。
書いた奴は相当狂っているとしか思えない。命を弄ぶことに快楽を覚えているのだろうか? 精神的に非常に危険だ。何かしらの処置をしなくては――
「そうだ。カウンセリング」
このノートの持ち主はおそらくこの医務室の患者なのではないだろうか? だとすれば、職場について書かれていないのも頷ける。こんな精神状態で仕事などできるわけがない。冷蔵庫にノートを押し込んだのも、単に頭が終わっているからだろう。持ち主は定期的にカウンセリングを受けていたに違いない。
カウンセラーである彼女の。
僕は日記を読み進める。
読んでいて胸糞悪くなる内容であったが、それでも僕のページをめくる手は止まらなかった。何かに取り衝かれたように。
そして、あるページに差し掛かったところでその手は止まる。僕の目は次の一文に釘付けになっていた。
〈八月十三日 脚立に細工をした。でも、残念だった。作業ロボだからオイルでも撒き散らすのかと期待していたのに〉
「これは……」
ノートを持つ手が震えた。
まさか、こんなところで証拠を見つけるなんて……。
間違いない。この日記の持ち主はTだ。狂わんばかりの残虐性を持つ、自分の同型ロボ。日記をつけているとは知らなかったが、おかげで脚立に細工を施したのが誰なのかはっきりとわかった。あとはこれを彼に見せてやれば言い逃れは――
あれ、ちょっと待てよ?
もしこれを書いたのならTなら色々とおかしいぞ。これに書かれている日常は僕ら作業ロボには無縁のものだ。たとえば、日記には料理のことが書かれているが、僕らは料理なんかしない。僕らはエネルギーオイルで動いているんだ。料理をする意味がないのだ。
それにそもそも自宅って何だ? 彼の、僕ら作業ロボの自宅は機械室にある、狭い調整器の中だ。行くのに車を使う必要はない。カラスなど入ってくるわけが無いのだ。
なら、これは誰なんだ?
〈八月二十二日 研究エリアでネコを拾った。あのロボ曰く、アメリカンショートヘアみたい。これからが楽しみ〉
「は?」
僕は言葉を失った。
頭にズーンと鈍い痛みが押し上がってきた。
こんなことがありうるのか?
〈八月二十七日 幾分か回復してきたのでネコに毒薬を飲ませてみた。元気になった分、ぴくぴくと痙攣していて面白かった。これで自由に走れる。今までの世界よりずっと広い天国で〉
『なるほど。それで元気になったら?』
『野に返します』
『飼ったりとかはしないんですか?』
『はい』
『どうして?』
『なんだか、この子の自由を奪ってしまう気がして……』
『自由?』
『はい。この子はずっと広い世界の中で暮らしてきたんです。だから狭い家で飼うことはかえってこの子の為にはならないと思います』
『ちょうどいい材料を見つけたんだ。医務室の傍だよ』
『動物の死体から剥ぎ取るのとはわけが違う』
「こ、こんな馬鹿なことあってたまるか!」
僕はノートを床にたたきつけた。
馬鹿馬鹿しい。ふざけている。あの女性がこんなことを、優しいあの人がこんな残忍なことをするわけがない。T。そうだ、Tのいたずらだ。そうに決まっている。デマに振り回される僕を馬鹿にするために仕組んだんだ。動物の皮を剥いで喜ぶような狂った奴だ。何をしたっておかしくは……。
肩の力が次第に抜けていく。
何をしたっておかしくは……、
「おかしいよな、こればっかりは」
「何がです?」
ぞわり、と寒気が全身に行き渡った。
ゆっくりと僕は振り向く。
目と鼻の先に、彼女の顔があった。
聖母のような笑顔を浮かべている彼女。
だが、その瞳には光が宿っていなかった。
あれから何分経ったのだろう?
気付けば、彼女は僕の手の中でその目を白くしていた。絶えず微かに漏れ出ていた吐息も、今はない。
僕が手を離すと、彼女は力なく床に倒れた。
その首にしっかり残された、赤い手の跡が目を引く。にも関わらず、照明に照らされた彼女をきれいだ、と一瞬思ってしまった。
「……けだもの」
不思議とそんな言葉が口から出てきた。以前、Tに言い放った言葉だ。それを今どうして言ったのかは自分でもわからない。
ふと医務室の扉に目を向けてみると、そこには既にTが立っていた。
返り血を浴びたままの彼は勝ち誇ったような目で僕を見ている。
その左手には空の輸血パックが――
〈了〉
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。