中編「Tの暴走」
どこまでも最低な奴だ。自分のしたことを認めようとしないどころか、あの女性を剥製にしようとか言い出すなんて。
Tの相手をしたおかげですっかり不愉快になった僕は、研究室へ向かわずに、その途中にある休憩所へ立ち寄ることにした。今のまま研究室へ行っても業務に支障をきたす可能性があるかもしれない。行く前に気分をリフレッシュさせても罰はあたらないだろう。
休憩所につくと、僕はあたりを見渡す。観葉植物とベンチしかない小さなエリアだが、これで少しはマシになるはずだ。
手前のベンチに深く腰を掛ける。エリア内にBGMとして流れる「川のせせらぎ」を聞きながら、僕は目をつぶった。
静かだ。気持ちが安らぐ。
電子脳がゆっくりと冷却されていくのを感じながら、僕はしばしの休憩を楽しんだ。
数分ほど経ったところで、ふと前方に人が立っている気配を感じた。
まさか、Tが? まったく、どこまでもむかつく奴だ。
忌々しげに目を開ける僕であったが、そこにいたのはTではなく、彼女だった。
「あれ?」てっきりTが来たとばかり思っていた僕は少しばかり戸惑った。対して、彼女は落ち着いており、汚れひとつない白衣を見事に着こなしている。
「お仕事、お疲れ様です」彼女はにっこりと微笑んだ。
「あ、どうも」僕は軽く会釈する。
このままでは駄目だ。もう少し彼女と話したい。そう思った僕は何か気の利いた言葉はないかと思案に暮れる。すると、ふと彼女が灰色の猫を抱いていることに気が付いた。
「あの、それは?」
「この子? ああ。先ほど研究エリア内を散歩していたら、偶然見つけたんですよ。たぶん迷子だと思いますけれど……」
彼女が愛おしそうに撫でると、猫は「にゃあ」と甘い鳴き声を発しながら身をよじった。よく見ると至る所に泥の微粒子やダニが付着している。十中八九野良だ。
「アメリカンショートヘア、ですね」
「よくわかりましたね」
「いえ、結構有名な品種ですから」
本当は電子脳のデータバンクで検索したに過ぎないのだが、それを彼女に言ったところで何の意味もない。つまらないだけだ。
「その猫、どうするつもりなんです?」
興味本位で訊ねると、彼女は言った。
「そうですね。この子は栄養失調なので、しばらくは医務室で様子を見ようかと思っています」
「なるほど。それで元気になったら?」
「野に返します」
この返答は少し意外だった。てっきり飼うか保健所に送るか、二つに一つだと思っていたからだ。
「飼ったりとかはしないんですか?」
「はい」
「どうして?」
「なんだか、この子の自由を奪ってしまう気がして……」
「自由?」
「はい。この子はずっと広い世界の中で暮らしてきたんです。だから狭い家で飼うことはかえってこの子の為にはならないと思います」
ああ、そういう考え方もあるのか。
僕は感心した。飼うことが優しさだと思っていたが、改めて考えてみるとそれも一種の虐待なのかもしれない。自由に生きてきた野良なら尚のこと。
この女性は本当に優しい人なんだな。だから、僕は彼女に惹かれているんだ。
「あの、触ってみます?」
彼女は猫を抱いたまま、僕に近づいてきた。
僕は何も言わずに猫の背中へ手を伸ばす。その間、猫は青い瞳で僕を凝視していた。警戒しているのだろう。
僕は背中の毛に触れると、優しく一方向に撫でてみる。指先に毛の暖かさがほんのりと伝搬すると同時に、わずかながらに浮き出た骨の凹凸の感触が直に伝わる。もう一度撫でてみる。もう一度。もう一度。
「この子、喜んでますよ」
彼女が嬉しそうに笑う。それを証明するかのごとく、猫は満足そうにごろごろと喉を鳴らした。
今頃、あの猫はどうしているのだろうか?
機械室で書類仕事をしながら、僕は十日前のことを思い出していた。あれから彼女達には会っていない。医務室にいることは知っているが、特に用がないため行っていない。
「蛍光灯でも空調でも何でもいいから壊れてくれないかなあ」
そうなれば「修理」という名目で医務室に行けるのに。彼女や猫に会えるのに。
「もしかしたら、もう栄養失調も治って、元気に野良やっているかもしれないな」
「栄養失調? 何かあったのか?」
後ろから聞こえてきた声に、僕は一気に不快な気分になった。
「作業中だ。出てけ」
相手の顔を見もせずに、僕は言い放つ。
「つれないな」僕の言葉に臆するどころか、Tは作業の妨害をしてきた。彼は強引に僕の肩を掴んで言う。
「ちょっとこいつを見てみろよ。俺の渾身の力作なんだ」
彼は肩をがんがんと揺さぶってきた。とても作業どころではない。うっとうしいことこの上なかった。
「いいかげんにしろよ!」
僕はペンを机に叩き付けると、勢いよく振り返り――
悲鳴を上げそうになった。
Tはニッと笑う。
「俺が作ったんだ」
まるで夏休みの工作を自慢する子供のようだ。彼はその作品を撫で上げる。僕はというと、その作品に目を釘付けにされた。
美しい灰色の毛に包まれた、しなやかな身体。
顔に取り付けられた二つの青いビー玉。
全く動く気配を見せない〝これ〟を僕は知っている。いや、正確には〝これ〟だったものを知っている。
喉元の発生器から、か細い声が発せられた。
「アメリカン、ショートヘア……」
「そう。もったいないから俺が処理したんだ」
彼は猫の姿をした作品を僕の作業台に置いた。
「触ってみな」
書類の上に佇む作品に、僕はおそるおそる指を這わせてみる。暖かった毛はざらざらしていて、固い。柔らかな見た目に反して、毛の下は冷たい石のようだ。中にぎっしりと合成樹脂が詰め込まれていることだろう。
「見事な出来だろう? 剥製の技術はデータバンクで検索しても見つからなかったから独学で会得したんだ。はじめの頃はネズミで試していたんだが飽きてきたんでね。少しサイズの大きい動物に挑戦することにしたんだ。それでこの前は車に轢かれた狸で作ってみたんだが、欠損箇所が多くて人に見せられるものではなかった。次は何で試そうかなと探しているうちに、ちょうどいい材料を見つけたんだ」
どこだと思う? そうTの目が言っている。
「医務室の傍だよ」
なんとなく予想はついていたが、それでも頭のどこかでは違っていてくれと願っていたに違いない。この剥製は紛れもなく、あの野良猫だった。変わり果てた彼(もしくは彼女)に僕は言葉を失っていた。
「それにしても」
Tは剥製の背をやさしく撫でる。
「なるほど、そういうことか……」
独りごとか、それとも僕に語りかけたのか、それはわからない。
だが、そんなことよりも僕は剥製の方に意識が向いていた。
猫は相変わらず、先のポーズを維持したままで微動だにしない。もう栄養失調に苦しむこともなければ、餌を探す必要もない。そういう意味では自由になったと言うべきだろう。ただ、これまで通りの生活を送ることはもうできない。喉を鳴らすこともできない。
猫は黙って僕を見つめていた。その暗い瞳に生気が吸い取られていくような錯覚を僕は覚えた。
あいつは危険だ。
研究室の空調を弄りながら、僕は考えた。
殺人を犯した者の数ある特徴の一つとして、人間の前にまずネズミや猫といった小動物から手にかけていく、というのが挙げられる。となれば、猫の次は……。
僕は剥製にされた猫の生気の無い瞳を思い出し、ブルッと身震いをした。ついこの間まで愛らしい仕草をしていた猫が、あんな風になるなんて。それが人間となれば、もう想像もできない。改めてTの残虐性を見せつけられた、といったところか。
あいつはロボだが、狂っている分下手な殺人鬼よりも性質が悪い。このまま放っておけば何をしでかすかわかったものではない。確実にわかっているのは、ただ一つだけ。
『なかなかの上玉だ。皮を剥ぎとって、剥製にしてしまいたいくらいのな』
「そんなこと、させない」
僕はスパナを握りしめる。しかしそういう事態になった場合、それを未然に防ぐ術がほとんど無いということにも気が付いていた。
なぜなら、自分はただの作業ロボだからだ。
彼女の側にいたいと思っていたとしても、勝手に持ち場を離れることは許されない。この際、仕事やプログラムなど知ったことかといきたいところだが、そんなことをすれば真っ先に自分が廃棄処分される。そうなった場合、誰が彼女を護る? 極めて危険だ。
他の職員に相談するのも得策ではない。内容が内容なだけに信じてもらえないだろう。それ以前に「相談」というロボには本来不可能な行動をとることで、彼らの注意はTよりまず自分に向かれるだろう。その後は、良くて研究の対象、悪くて異常をきたした機体ということで廃棄。どちらにしろ彼女からは離れてしまう。
となれば、残された手段はただ一つ。
Tを、破壊するしかない。
彼女を脅かす存在そのものを消し去ってしまえばいいのだ。極めて単純かつ明快なやり方だ。もちろんそんなことをすれば自分もただでは済まない。確実に処分されるだろう。
しかし、だ。決められた作業を延々と続けるしか能のない作業ロボ一台のコストで、大勢の職員の健康管理に携わるカウンセラー一人の命を助けられるのであれば、それは安い買い物ではないのか。
空調の修理を終えた僕は研究室を出ると、その足で機械室へ向かった。いつも以上の大股で。
機械室に着くと、僕は作業場の椅子に座る。
さて、どのようにしてTを破壊するか。
彼は自分と同じ、頑丈さが売りの作業ロボだ。弱点らしいものはない。なら、ガチンコ勝負で行くしかない。スパナでは威力不足だ。電動ドリルは威力こそあるが、取り回しが悪すぎる。いや、そもそもガチンコ勝負という前提が間違っているのではないか。相手は自分と同型、すなわち同性能だ。下手をすれば、こちらが返り討ちに遭う。ならば――
カツン、カツン、
来た!
足音を聞きつけると、僕は扉の陰にそそくさと隠れた。
今、機械室内は暗闇に包まれている。照明はすべて切られ、現在、室内唯一の光源といえば点滅するメーターランプくらいのものだ。暗闇の中をボイラーの作動音がひっきりなしに響いてくる。
カツン、カツン、
足音が一歩、また一歩とこちらに近づいてくる。まるで秒読みのようだ。
僕はハンマーを構えた。これは老朽化した装置を分解するために使う特注品だ。これに殴られれば、普通のロボはひとたまりもない。
そう、僕はこれから同族を殺す。
発声器を潜めて、僕は待つ。待つ。
カツン、カツン、
カツン。
足音が扉の前で止まった。
さあ、来い。そして、そのにやけ面にこいつをぶち込んでやる。
ハンマーを握る両手に力が入る。
ゆっくりと扉が開いていき、暗い室内に光が差し込んでいく。
微かに錆びた鉄のような匂いが鼻をさしてきた。
これで終わる。終わるんだ。こいつと不愉快なやり取りをすることもなくなる。小動物がこいつの残虐な趣向に付き合わされ、犠牲になることもなくなる。彼女の命が奪われる危険も無くなる。そして、自分自身の存在も、全て!
そいつの頭めがけ、僕はハンマーを振り降ろした。
「そろそろ来ると思った」