第53話:絶望の中の希望
焔は何が起こったのか判らず、更にもう一歩後ろに下がる。
しかしそんな彼女の様子とは関係なく、浩一郎の肉体を有する『それ』は身体をくの字に折り、苦しみ始めた。
喉の辺りをかきむしり、時折苦しげに息を吐く。酷くくすんだ顔色、歪みきった表情が彼自身の異変を明確に現していた。
(新手の、敵か・・・?)
目の前の男の話では後二人ほど、今回の件に関与していることになる。
だが、新たな敵の出現だとするとそれは浩一郎の身体に三つの精神体が入ってしまったことになる。そんな状態で、肉体の占有争いなどされたら、普通の器など数秒で壊れてしまう。
(それとも、肉体の限界が・・・)
この可能性のほうが本当は高い。だがそれは先ほどよりももっと状態が悪くなる。
術者の限界を超えた操作は術者自身が危険になるだけではなく、操られていた身体にも回復できないほどのダメージが与えられる。運がよくて意識不明の重体、運が悪ければそのまま・・・・死。
どの結果でも絶望的な答えしかでてこない。
(最悪だっ!!)
焔の目の前では浩一郎が空間を切り裂くような咆哮をあげながら、悶え苦しんでいる。足元がいつ崩れてもおかしくない状況に、焔は両手で顔面を覆いその場にしゃがみこんだ。
後悔で、胸が痛い。今更後悔しても、目の前の現実は変わりはしない。
(誰か、浩一郎を助けて!!誰か!!)
焔は声にならない悲鳴を何度もあげた。届かない助けを何度も呼んでみた。両手を耳に移動させ、頭を抱え込むようにして耳を塞いだ。
しかし苦痛を訴える浩一郎の声は指の合間を縫って、焔の鼓膜を打ち続ける。
「ぐぎゃあああああああぁぁぁぁっぁぁ・・・・・・・・・・」
断末魔を残して、始まったのと同じぐらい呆気なく苦しみの声は止んだ。
辺りには気味の悪いほどの静寂が復帰する。
そうなっても、焔は顔を上げることなどできずにいた。どんな結末が訪れたのか見極めることが怖かったのだ。
コツッ・・・・・・
足音がした。浩一郎が普段から使用している革靴の足音だ。
コツコツッ
それはまっすぐに焔のほうへと近づいてきた。
どんどん近づいてくる足音に彼女は更にその身を縮こまらせた。
足音は彼女の前で止まり、身を丸くしている『良弘』の後頭部を見つめていた。
いや良弘に扮していた術は、先ほどの精神的な衝撃により外れてしまっている。今、その頭を彩るのは焔の色である紅であった。身体も小さくなっていて、良弘の大きな制服の中で泳いでいるようにも見える。
足音の人物は少しだけ逡巡した後、彼女の前で膝を折った。大きな手が、優しく焔の髪を梳いた。
「どうしたんだ、焔・・・顔色が悪いぞ」
いつもと変わらぬ浩一郎の口調だった。
元に戻っている・・・・?
そんな事が起こるはずがないと思いながらも、ほのかに淡い気体が自分の中で膨らむ。彼女は耳を押さえていた手を外して、恐る恐る顔を上げた。
「本当に・・・どうしたんだ?変身の術もはずれてるじゃないか」
不安いっぱいの焔の目に映ったのは、多少傷を負ってはいるもののいつもと変わらない浩一郎の顔だった。
怯える焔を心配して支えてくれる大きな手、優しく包み込む視線、安心させるような笑顔。オーラだって先ほどまでとは違い、今は浩一郎のものしか感じ取れない。
焔は目の前に居る彼を確かめるためにそぅっと手を伸ばした。
少しだけその事に驚いた浩一郎だったがそのようなことを微塵も感じさせずに焔がやりたいように触らせてやった。
「浩一郎?」
「おう」
浩一郎は答えると同時に焔の手を捕まえて、自分自身の頬を包み込ませる。
そこから伝わってくるぬくもりに焔はやっと安堵の息を吐いた。
「よかったぁ・・・」
長い間、迷路の中で孤独にさ迷っていた幼子がやっとの思いで親を見つけたときのような表情で焔は何度も頷いた。
やがて、ふぅっと焔の目が閉じられ、自分と同じようにしゃがみこんでいる浩一郎の胸の中に倒れこんだ。浩一郎は良弘の時とは違う軽い身体を抱きとめると、幼さの残る焔の顔に呼びかけた。
「ちょっと、焔?焔!」
だがさっさと意識を手放した焔に、その声は届かなかった。
浩一郎、自力生還するの巻。何故無事なのかはもう少し後で理由が出てきます。
焔は『ヒロイン失神』の形で浩一郎の胸に倒れこみました。浩一郎としてみれば、殆どラッキィの状態かもしれませんが、心労を与え続けられた焔にしてみれば殴ってやりたい状態だと思います。