第44話:妥協した選択
視線のぶつかり合い・・・・・・それに最初に屈服したのは浩一郎の方だった。
彼は苦しそうに視線を外すと、焔の肩口に顔を埋めた。自分を睨んでいた大きな瞳の端に浮かんだ涙が、彼女の苦しさを訴えてきてそれ以上焔の顔を見ていることが出来なくなった。
「それでも、情報提供ぐらいはさせてくれ・・・それなら『桧原』」とも接触しないしいいだろう」
浩一郎の言葉に焔は「だめだ」を繰り返す。
本来ならまだまだ浩一郎の力を借りたい時期ではある。しかし僅かでも自分たちに関わることは彼を危険に晒すのと同じことになる。
もし、浩一郎が傷を負ったら・・・
もし、浩一郎が父母のように・・・
襲い掛かる恐怖に耐えられなくなって焔は浩一郎の逞しい肩に額を押し付けた。
泣きそうに成っている自分の顔を隠すために、不安に震える唇を見られないように・・・
「今の焔を放って置けるほど、俺は薄情じゃない」
懇願するような声が焔の耳元で木霊した。
胸が痛かった・・・・・・浩一郎の嘆きを、願う声を聞いていると、その痛みがどんどんと増していく。
まるで心臓に杭を打たれた吸血鬼みたいだ。痛んだ部分から心が灰になる。自分の主義主張など崩れ去ってしまいそうだ。
「お前を、巻き込みたくない」
焔はとうとう本心を告白した。これ以上、隠しとおすことなど彼女には耐えられなかった。
「危険は百も承知している」
浩一郎も焔の手を離すつもりは毛頭なかった。二人が互いを守ろうとする決断は、互いを追い詰めてゆく。
「お前を巻き込めない・・・」
「うるさい」
嗚咽交じりの告白を浩一郎は窒息するぐらい焔の身体を抱きしめることで止めようとする。
「うるさくてもいい、お前が諦めてくれるんなら・・・俺をもう放っておいて・・・」
焔は身を捩ると浩一郎の腕から這いずり出た。
目元に浮かんでいた涙を袖口で拭い、ベッドに取り残された彼をキッと睨みつける。
(どうか、このまま引き下がってくれ)
焔は祈るように何度も言葉を心の中で繰り返した。
このまま言い争いをしていたら、自分は間違いなく醜態を晒してしまうだろうから・・・
「焔・・・」
浩一郎はどんどん自分の心を占領する少女の名前を口にした。ビクッと振るえる身体を再度、強く抱きしめる。
小さな身体だ。本気で力を入れてしまえば折れてしまいそうな印象さえある。
「俺を、遠ざけるな。俺にも手助けをさせてくれ・・・頼む、焔」
耳元で繰り返し囁かれる言葉、喉元にかかる息、自分をすっぽり包んでくれる温かい腕に全身をゆだねてしまいたい。
だけどそれに縋ればその腕を永遠に亡くしてしまう危険性があるのだ。
焔は拳を握ると、抱きしめてくれる浩一郎の身体を押しのけた。
「・・・焔」
腕を解いて覗き込むと、焔の絶えがたい悲しみを浮かべた瞳と視線がかち合う。
壊れそうで、崩れそうで、支えていないと消えてしまいそうなのに、差し出したては更に彼を追い詰める。
「ごめん・・・浩一郎が良弘を大切に思ってるのは、よくわかってる・・・わかってるけど・・・」
浩一郎にとって一番大切なのが良弘だと焔は知っている。彼女に優しくしてくれるのも、手を貸してくれるのもすべて良弘のため。
焔自身が思うのと同等ぐらいに良弘が好きな彼を、我がままで浅はかな自分なんかの裁量で計画から外すのは自分勝手すぎるかもしれない。
でも、それでも・・・
「ごめん・・・」
焔は、再度、浩一郎に謝った。
涙のたまったままの瞳、深紅に震える体、こんな姿を見せられて浩一郎は身動きが出来なくなる。
大切な彼女を守りたいのに差し出したては悉く拒否され、自分の思いは相手を追い詰める。自分が焔を傷つけている事実に彼は愕然とした。
彼は唇を噛みながら、目を閉じると小さく「わかった」と呟いた。
「浩一郎・・・」
彼は、もうこれから触ることもできないだろう細い身体を強い力で抱きしめて、腕を解く。
「今日ぐらいは一緒に帰ってもいいだろ?」
浩一郎はできるだけ平静を装って笑顔を作ったが、その顔は悲しみで歪んでいた。
「ああ、そうだな」
答える焔の笑顔もぎこちなかった。
重い空気の流れる保健室から桧原の屋敷に辿りつくまでの間、彼らは殆ど言葉を交わさなかった。
二人の間に開いた溝は二つの心を擦れ違わせたまま、二人の心を深く傷つけた。
浩一郎、焔にフラれる?の巻。焔、女性の最大の武器、涙を遣いまくりです。しかしそれに屈服する浩一郎はとてもまぬけにみえます。