番外編2−2:獰猛な獣
眠りの淵からようやく浮上し起き上がろうとした良弘は、目の前にある背中に困惑した。
寝覚めで視界がぼやけているせいか、その背中がつい先日亡くなった父のものに見える。
(・・・・・・誰なのだろう)
同じ制服を着ているその背中の主は自分が起きた事にも気付かず、一心不乱に本を読んでいる。
(あれは、私の読みかけの本)
そう思っても取り返そうとする気が起きない。とりあえず、彼は目の前の『彼』を観察することにした。
(おや?)
本を読んでいる彼の横には数冊の本が積み上げられていた。
どうやら彼も読書のために此処を訪れたらしい。一番上の本の真中辺りに栞が挟んである。
真剣に本を読みふけっている男に気づかれぬように彼は一番上の本を手にとった。本の題名は『日本経済の収支調整と未来への功罪』、著書は地方の経済団体の会長らしい。
他の本も経済・金融・経営・帝王学に関するものばかりだ。
(こういう本も面白いのだろうか)
良弘は手にとった本を徐に読み始めた。
最後の頁を読み終えたところで、浩一郎はやっと顔をあげた。
いつのまにかあたりは薄暗くなっている。もう本を読むのには適さないだろう。
「面白かったですか?」
ふいに声を掛けられ、浩一郎は驚いて振り返った。
自分が読んでいた本の持ち主である良弘はいつもと変わらず冷めた目で彼を見上げている。
「ああ、なかなか。だがこじつけてある部分とかあって、それはひっかかった」
「それでも新興宗教の雑誌とかよりもマシですよ」
即座に返された言葉に「それは言えている」と浩一郎は笑った。
それから自分が占有してしまっていた彼の本を差し出した。良弘は差し出された本を受け取らないまま、むくりと起き上がった。
彼は獲物を観察するように浩一郎の前へと移動し、じぃっと彼の顔を覗き込んだ。
浩一郎もそんな彼の同行に文句も言わず、されるがままに観察の対象になった。
(誰だろう・・・・・・)
見知らぬ男だ。でも、どこかで逢ったような気もする。
日本語は解すようだが、薄茶色の髪とこげ茶色の瞳は日本人よりも色素が薄く感じた。その明るい色調で誤魔化されがちだが、瞳の奥に灯る光は良弘自身がはっとするほど真の強い光を発していて、彼の理知的な表情を彩り深く飾っている。
「獣みたいな奴だな」
ふいに観察対象に喋られて、良弘は即座に身体を起こした。
「それは私のことですか?」
良弘は挑発的な笑みを浮かべた。それは浩一郎が初めて見る彼の表情だった。
「そう、獰猛な獣。俺が喰えるのかどうか、じっくり観察して決めてる」
浩一郎も良弘へと笑ってみせる。
いつも周りに振り撒いているのとは違う『牙』を隠さない笑みだ。
「それは讃辞と受け取って宜しいんでしょうか」
「もちろん、そのつもりだ」
短く応えた浩一郎は、今度は自分の番とばかりに良弘の表情を観察する。
良弘もその視線に嫌がることなく、されるがままに観られている。
「本当に、普段の桧原の態度とはかけ離れてるよな」
良弘が無口なのは今更なのだが、こんなにも他人に対して素顔を晒すことはない。
「?・・・・・・私を、知っているのですか?」
目を丸くして問い掛けてきた良弘に、浩一郎は批難の溜息をあからさまについた。
「同じクラスの松前浩一郎だ。出席番号だって5番と離れてないのに覚えてないのか?」
良弘は暫し考えると、ぽんっと手を叩いた。どうやらやっと浩一郎だと認識したようだ。
「あなたこそ、教室と今では表情にギャップがありすぎです」
良弘の認識では『松前浩一郎』という人物は馬鹿騒ぎが好きで、間抜けで、だが自分と張り合うぐらいの知識をもった秀才だった。
それはすごく自然体すぎて、その裏に隠された顔など想像もできなかった。
「少なくとも、教室に居る貴方からはこういう本を読むという雰囲気は伝わってきませんでした」
良弘は、先程拝借した本を彼に差し出した。
「経済に興味があるんですか?」
手元の本は読んだ感じでは中学生が理解できる内容とはいい難いものだった。
しかし彼はそれを確りと読み解き、所々に赤ペンで注釈まで書き込んでいた。
「興味を持たなければいけない立場と環境があったから、な。でも強制されてやっているわけじゃない」
浩一郎はそういう質問になれているのかマニュアルに嵌ったような言葉で返してきた。
だが一瞬だけその口角に自嘲の笑みが浮かぶのが見えた。
良弘、ボケ倒す、の巻。この時代の良弘は、他人の顔を覚えようとする努力を怠っています。
良弘と浩一郎が通っている学校は男子校です。一クラス35人前後でクラスを編成しています。