私が寝とる日、親友は、もう一人の私と笑っとる。
〈十二時、昼食。真野さんと。〉
〈十二時二十分、真野さんが笑う。〉
布団にうつぶせになって、一花はその二行を読み返した。真野さんが何に笑ったのかは書いていない。誰の言ったことで笑ったのかを聞けば、端末はもう少し出してくれる。一花は聞かずに画面を上へ送り、今日の記録を最初の行から読み直した。〈六時〇〇分、分離。〉〈七時五十分、家を出る。〉〈八時二十五分、教室。〉昼は真野さんと食べて、午後は体育があって、帰りに図書室へ寄っている。何を借りたのかは机の上を見れば分かって、知らない本が一冊、筆箱の横に置いてある。
二か月前の朝、目を開けたら、隣に自分が寝ていた。
一花は布団の上で後ずさって壁に背中をぶつけ、そのまま動けなかった。同じ顔の子が目を開けて、一花を見ても驚かずに、一花の声で「おはよう」と言った。一花は返事をしないで、その子の前髪の生え際を見ていた。自分なら白い傷あとがあるところに、何もない。
中学二年の冬に自転車で転んで頭を打ったとき、治療のために体に入れたAIが、いつのまにかそういうものを作れるようになっていたらしい。高校一年の冬から学校へ行けなくなって、二年の秋になっていた。端末に打てば、そのAIが返事をする。聞くと、〈作れる〉とだけ返ってきて、少しして〈頼まれたら、出る。〉と続いた。あの子を動かすのも、同じAIだった。
最初の晩に頼んだのは、学校へ行ってほしいということだけだった。あの子は朝六時に一花の背中から分かれて、夕方には戻ってくる。十二時間を過ぎると指先から白く崩れはじめるから、寄り道はしない。
あの子が外にいるあいだ、一花の体は布団に縫いつけられたように重い。トイレに立つにも壁に手をつく。昼すぎにうとうとして、気がつくと窓が暗くなっていて、玄関の鍵が回る音がする。あの子は制服のまま一花の部屋に来て、膝をついて手を出す。手のひらを合わせると、あの子の指先から順に輪郭がやわらかくなって、一分もしないうちに一花の腕の中へ入ってしまう。床に残った制服をハンガーに掛けるのは一花の仕事で、そのあと夜中の台所で、ふつうの三倍食べる。背中のあたりがむずがゆかった最初の何週間かは、冷蔵庫の前に立ったまま、もっと食べていた。
母はそれを知らない。介護施設の夜勤から朝九時すぎに帰ってくる母は、一花が食べられるようになったのだと思っていて、冷蔵庫が空になるたびにうれしそうに買い足してくる。先月、担任から「戻ってきてくれてよかった」と電話があった日、母は電話を切ったあと流しの前で泣いた。母は、出席日数のことは何も言わなかった。
「一花の顔、楽そうやったもん。こないだ、玄関で」
母が玄関で見た一花は、あの子だった。
土曜の夕方、牛乳を買いに出た団地の下のコンビニで佐伯に会った。あの子を出さない日の体は軽くて、階段を下りるだけで息が上がるのが、かえって自分の体らしかった。一年のとき同じ図書係だった佐伯は、当たり前のように隣に並んで、「瀬戸。昨日の話の続きやけどさ」と言った。昨日の記録には、佐伯の名前が二回出てくる。何を話したのかは、聞かなかった。「あれ、ほんとに瀬戸の言ったとおりやったわ」と佐伯は笑い、一花の言ったとおりのことを、一花は知らなかった。
一花は入力欄を開いて、毎晩打つのと同じ文を打つ。『明日も行って』。送ると、〈分かった。〉と返ってくる。
*
月曜の夜、一花は『明日も行って』を打たなかった。
火曜の朝、制服は自分で着た。ブラウスのボタンを留める指が途中で何度も止まり、そのたびに時計を見る。教室の後ろの戸を開けたのは始業の五分前で、何人かがこっちを見て、すぐに見なくなった。毎日来ている子が、今日も来ただけだった。
窓際の自分の席に座ると、前の席の椅子がくるりと反対を向いた。
「おはよう」
真野さらは一花の顔を見て笑いかけ、その途中で何かが冷えた。ほんの一瞬で、たぶん誰にも見えない。一花には見えた。さらはすぐに笑い直して昨日のドラマの話をし、一花は記録で読んだ範囲のことを答えた。
昼休み、さらは弁当を広げながら少し声を落とした。
「前にも言ったけどさ。あの日、隣におってくれて、ほんと助かった」
あの日がいつのことか、一花は知っている。二か月前の放課後、さらが教室で泣いていた日で、記録には〈十六時、真野さんが泣く。隣に座る。十七時、帰宅。〉とだけある。助かったと言われても胸のどこにも届かなくて、届かないものをさらが大事そうに言うのを見ているのが、いやだった。
「さら」
「うん」
「昨日の話、私には分からない」
さらの箸が止まった。
「……何それ。じゃあ私が昨日話しとったの、誰なん」
一花は答えなかった。答えられることは何もなくて、言えることが一つだけあった。
「明日、あの子を家まで送ってきて。見たら分かる」
*
水曜の夕方、一花は布団の中で階段の足音を聞いていた。
あの子を出した日の体は、起き上がるだけで腕が震える。足音は二人分で、話し声も混じっている。片方が笑ったけれど、どっちの声なのか分からなかった。同じ声がもう一つあるのだから、分かるはずがない。
肘をついて起きかけて、途中で止まる。枕元の端末をつけかけてやめ、裏返して布団の中に押しこんだ。寝ぐせのついた前髪を指でなでつけてから、何をしているのかと思って手を下ろす。
足音がドアの少し手前で止まった。
「送ってくれてありがと、さら。ここまででええよ」
自分の声だった。一花が言いそうなことを、一花の声で言っている。
「……ここまで、って」さらの声が少し裏返った。「玄関まで行く。ドアの前まで。……開けるとこまで、見とる」
一花は布団から足を出した。立とうとして膝が抜け、畳に手をつく。そのまま這って部屋の戸まで行き、枠につかまってなんとか座った。郵便受けの細いすき間から、廊下の明かりが線になって入ってくる。鍵はあの子が持っている。
「……ここまででええよ、って」
小さく口に出してみると、似ていて、気持ちが悪かった。
鍵が回って、ドアが開いた。
制服の自分と、さらが立っている。さらの指が、制服の自分のブレザーの袖のはしをつまんでいて、指先が白くなるほど力が入っていた。さらは一花を見て、隣を見て、もう一度一花を見た。靴を脱ぎかけた足が、玄関の段差の手前で止まっている。
「……いち、か」
誰を呼んだのか、さら自身にも分かっていない声だった。一花の目はさらの顔より先に袖をつまむ指へ行って、そこから動かなかった。
「……袖。伸びるで、それ」
言ってから、口の端が引きつった。笑わせるつもりなんかなかった。
あの子はさらの指に自分の手をそっと重ねてほどき、靴を脱いで上がってきた。廊下の突き当たりで一花の前にしゃがみ、自分の手は膝の上に置いたまま、一花には触れない。
「ただいま。……立てる?」
一花は返事をしなかった。あの子の肩ごしに、宙に浮いたままのさらの指を見ていた。
「立てんよ」少し間をあけて、玄関まで届くように言った。「あんたが外におるあいだ、私、立てんの。毎日。……ずっと寝とるの」
「……うん」とあの子が言った。
さらの指がやっと下りて、スカートの横で握られた。靴を片方だけ脱いで、つま先を段差に乗せる。
「……昨日、学校来とったの。……昨日の、昼の」
一花はそこで初めてさらの顔を見た。
「うん。昨日のは、私」少し黙ってから、口が勝手に続けた。「……教室入ったとき、さら、がっかりした顔しとったね」
さらは否定しかけて、何も出てこなかった。
「……ごめん」
もう片方の靴も脱いで上がってきたけれど、突き当たりまでは来ないで、廊下の真ん中で止まった。
「謝らんでよ」一花はさらの足もとを見ながら言った。「謝られたら、ほんとにそうだったって、なるで」
さらは二回目のごめんを飲みこんだようだった。膝から力が抜けたみたいに廊下の真ん中にぺたんと座りこんで、カバンを膝に抱える。一花と目の高さが同じになった。さらは何も言わなかった。
一花は短く鼻で笑おうとして、途中で息が詰まった。
「……それ。黙って横に座るの。私がやるやつだで」
膝の上の手が少しだけ持ち上がり、あの子のほうへ半分だけ向いて、胸の高さに届かないところで止まる。
あの子は半歩横へずれて、一花とさらのあいだを空けた。右手を、手のひらを上にして、一花の膝の横の床に置く。
「あと二十分くらい」
さらの肩がびくっとした。「……二十分って。二十分したら、どうなるの。あんた、どっか行くの」
「どこにも行かんよ。一花と手、合わせたら、一花んとこに戻るの。毎日そうしとる」
さらはカバンのファスナーの引き手を指でいじっていて、しばらくしてから一花のほうへ顔を向けた。
「……戻ったら、今日の、お昼の話。一花も、分かるようになるの」
「分からん。字で読むだけ。『十二時、昼食。真野さんと』って。誰がしゃべったかは出る。さらがどんな顔しとったかは、書いてない」
真野さん、のところで、さらの指が止まった。外の暗さが廊下の奥まで入ってきている。
「今日は、あんまり笑っとらんかった。昨日のこと、ずっと考えとったで。……卵焼き、半分あげたら、いらんって言われた」
さらはカバンに顎をうずめた。
「いらんって」一花は初めて、横にしゃがんでいるあの子をまともに見た。「なんで断ったの。私、さらの卵焼き好きなのに」
言ってから、おかしなことを言ったと気づいて口をつぐむ。目が床に落ちて、上を向いた手の指先の色が変わっているのに気づいた。
「……指、白なっとる」
あの子は白くなった手を床から上げて、一花の手の下へ寄せた。
「卵焼き断ったんは、私だよ。一花やない」さらのほうは見ないで言った。「……一花。時間」
さらは粉をふいたような指先を見ていた。
「……明日も、教室、おる?」
あの子は少しだけ、さらのほうへ顔を向けた。
「一花が頼んだら、おるよ」
さらが一花を見て、何も言わなかった。
一花はその目から逃げるように顔を伏せる。目の先に、白くなった指がある。何も言わないまま、上を向いた手のひらに自分の手を下ろした。重ねるというより、落とした。粉っぽくて、乾いていた。
「……明日のことは、知らん」さらのほうは見なかった。「見とって。昨日、見たら分かるって言ったで」
あの子は手のひらを上に向けたまま、指を閉じなかった。顔も上げない。何も言わない。
指先から、薄くなった。
手首。腕。肩。
一分もかからなかった。廊下に制服だけが残って、しゃがんだ形のまま少しずつ崩れ、たたんだように床に落ちた。ソックスの片方が一花の膝に引っかかっている。体が軽くなって、少しだけ温かい。布団のほうで端末が一回震えた。
さらは最後まで見ていた。制服が落ちたところでやっと吐いた息が、震えていた。膝で二歩ぶん進んで、床に崩れたブレザーの袖のはしに手を伸ばし、つまもうとして、指先が布に触れたところで止まる。
一花は膝のソックスを外して、握った。まだ少しあったかかった。
さらは長いあいだ袖から指を離さなかった。それからゆっくり離して、つまんでいたところを一回だけなでた。カバンを拾って立ち上がり、膝ががくっとして壁に手をつく。かかとを踏んだままの靴に足を入れて、ドアノブに手をかけたところで、振り返らずに言った。
「……卵焼き、明日も持ってくで」
誰が食べるのかは言わなかった。ドアが閉まって、足音が階段を下りていった。
*
その夜、一花は『明日も行って』を打って、消した。かわりに『卵焼き、なんで断ったの』と打って、送った。
〈一年の十月、真野さんから卵焼きを半分もらって食べた記録がある。その日の午後、一花の心拍がずっと普段より高かった。帰ってから三十分、「お返し」を調べとった。〉
〈もらうと、そのあと体の負担が上がる。そう判断して断った。合っとるかは、分からん。〉
調べたことは、一花も覚えていた。一年の十月、駅前のパン屋でラスクを買って、名前は書かないで、朝のうちにさらの机に置いた。
一花は何も返さないで、画面を消した。
*
木曜の朝、ブラウスの三つ目のボタンで指が止まった。去年の冬に来たのと同じものが、そこで待っていた。今日は誰も代わりに行かない。三つ目を留めないまま畳に座りこんで、七時五十分も八時二十五分も、時計の上で見送った。八時四十分、誰かが階段を下りていく音がして、母の帰りが九時ごろなのを思い出した。今日は行けていないと母に知られるのが、いちばんいやだった。一花は三つ目をもう見ないで留め、リボンをポケットに押しこんで、端末は枕の下に置いたまま裏の出口から家を出た。学校の裏の公園で時間をつぶして、昼休みが始まって少ししてから、二年の教室の後ろの戸の前に立った。
自分の席の前の椅子が反対を向いていて、さらが座っている。空いた机の上で弁当の蓋が開いていて、蓋の上に卵焼きが二切れ、机の向こう側の、一花の側に押してあった。さらは自分の分を一切れ口に入れたところで、まだこっちに気づいていない。
戸口で待っていたら、たぶん帰っていた。一花は教室に入って、何人かがこっちを見たのを見ないことにして自分の席まで歩き、椅子を引いて座った。指で卵焼きを一切れつまんで、口に入れる。
「……今日は、私だけ」
さらが顔を上げて、一花の額の生え際を見た。さらの顔の奥で、一瞬何かが冷えかけて、止まった。さらは目をそらさないで、一花を見たまま箸の先で残りの一切れを蓋ごと少し押してくる。
「……それも」声が詰まって、言い直した。「それも、一花の。……リボン、出とるよ」
一花はポケットからリボンを引っぱり出して、鏡がないまま首の下で結んだ。一回ほどけて、二回目で少し曲がったまま結べた。さらはそれを見ていたけれど、手は出さなかった。
最後の一切れを指でつまんで、一花は言った。
「……一年のときより、甘なっとる」
口に入れてから、さらの顔を見た。さらの箸が止まっていて、しばらくしてから、さらが言った。
「ラスク、おいしかった」
一花の顔から目を離さないで言った。確かめるみたいな言い方だった。
一花は噛むのをやめた。飲みこんで、指の油をスカートの横でぬぐった。
「ラスクは、私」さらの顔から目を外さなかった。「……二か月前の、さらが泣いた日。隣に座っとったのは、あの子。私は家で寝とった」
もう一言、口の中で迷ってから出した。
「私でも、たぶん同じことした。……でも、してない」
さらは口の中の卵焼きを噛むのを忘れていた。
「……昨日」声が尖った。「昨日、『それ、私がやるやつ』って言ったやん」
箸が弁当箱のふちに当たって、思ったより大きな音がした。さらは一花から目をそらして、空いた机の、さっきまで蓋があったところを見た。
「……じゃあ、私、ずっと」
一花は肩を小さく跳ねさせて、さらと同じところを見た。その続きを言わせたくなかった。
「一年のとき、私も、さらの近くに座っとったって。記録に書いてあった」
言ってから、唇を噛んだ。
さらはしばらく黙って、机の上を見ていた。
「……誰かおったのは、覚えとる」ゆっくり言った。「一花やって、知らんかった。顔、見とらんかった」
さらは何か言いかけて、口を開いた。
予鈴が鳴った。
さらは言いかけたものを飲みこむように口を閉じて、弁当箱の蓋をして輪ゴムをかけた。椅子を元の向きに戻しかけて、一花の曲がったリボンをもう一回だけ見て、直さないまま戻した。
*
午後の授業にも、一花は残った。六時間目のあと生徒玄関で靴を履き替えていると、隣の下駄箱の前で、さらが上履きを脱いだまま立っていた。一花がかかとを入れ終わるのを待ってから、周りの声にまぎれるくらいの声で言った。
「一花。……明日、金曜やん」
上履きを片手にぶら下げたままだった。
「駅前のパン屋、寄るって約束しとるの。先週、あの子が言い出して。……だで、今夜、頼んでほしい」
言い終わってから、さらは上履きを下駄箱に押しこんだ。手つきが少し乱暴だった。
その約束は記録で読んでいた。〈来週の金曜、帰りに駅前のパン屋に寄ろう〉。言い出したのがあの子だということも、書いてあった。一花はかかとを入れた足のつま先で、床を一回とんと打った。
「頼まんよ」
思ったより早く出た。
「明日は私が朝から来る。……あの子出したら、私、家で寝とらなかんの。パン屋、私やといかんの」
さらは靴を出しかけた手を止めた。
「いかんって、言っとらん」
言い返すのが早すぎて、さらの手から靴が落ちた。片方が横に転がる。さらはそれを直さなかったし、一花の顔も見なかった。
「一花とは、いつでも行けるやん。……あの子とは、一花が頼まな行けんやん。一日だけ。明日だけ、頼んで」
一花はしゃがんで、転がった靴を拾い、かかとをそろえてさらの足もとに置いた。立ち上がるとき、目は合わせなかった。
「いつでもって、なかったやん。私、二か月来とらんかったんやで」
一回だけ息を吸った。
「頼まん。明日は、私が朝から来るって決めたの」
さらはそろえて置かれた靴を見下ろして、かかとを踏んだまま足を入れ、鞄を肩にかけ直した。
「……ほんなら、明日、パン屋は行かん。一花が来ても、行かん。あの子との約束やで」少し間があった。「一花とは、別の日にする」
さらが先に玄関の外へ出た。振り返らなかった。
一花は靴ひもを結び直すふりをして一回しゃがみ、結び直さないで立った。玄関の外まで追いかけて、二歩うしろから言った。
「別の日って、いつ」
さらが止まるかどうか分からないうちに、もう一言出た。
「……今、決めて。いつでもは、いらん」
三歩目で、さらは止まった。駐輪場のほうから自転車のベルが鳴って、通り過ぎるまで黙っていた。
「……月曜」鞄のひもを握っている。「来週の月曜。帰り。……パン屋やなくて、別のとこ。一花が決めて」
さらはまた歩き出した。今度は、二歩うしろの足音が聞こえる速さだった。一花は追いつかないまま、その背中についていった。
*
夜十時すぎ、一花は入力欄に打った。
『明日は出んで』
『パン屋、なしになった』
『六時半に起こして。三つ目のボタンで止まったら、なんか言って』
〈分かった。明日は出ん。〉
〈六時半に起こす。三つ目のボタンで止まったら、なんか言う。〉
〈パン屋の約束、言い出したのはこっち。駅前の店は、一年の十月にラスクを買った記録から選んだ。〉
言い出したのがあの子なのは、記録で読んでいた。店のほうは、読んでいなかった。『あのラスクは』と打って、消す。
『私の記録から、さらとの約束、作らんで』
『月曜の場所は、私が決める。あんたは見とらんで』
送ってから、無理なことを言ったと気づいた。体の中にいるのだから、見ないなんてできない。
〈分かった。一花の記録から、さらとの約束は作らん。〉
〈見とらんで、はできん。目と耳の神経の見守りが治療やで、見たこと聞いたことの記録は止められん。〉
〈月曜のことは、一花が聞かんかったら、出さん。〉
『うん』
*
金曜の朝、三つ目のボタンのところで、枕もとの端末に〈座ってもええよ。ボタンは座っとっても留められる。〉と出た。言われてから座ったのが、少し悔しかった。家を出たのは八時を過ぎていて、一時間目のあいだは駐輪場の陰に立っていた。休み時間の人の流れにまぎれて教室に入ると、さらは席に座ったまま一花を目で追い、額のほうを見た。前髪が下りていて、傷あとは見えないはずだった。さらは立たなかったし、声もかけなかった。
昼、さらはいつもどおり向かいに座った。卵焼きは入っていなかった。放課後、さらは一人で先に帰った。駅前のほうへ曲がったのか、反対へ曲がったのか、一花は見ていない。
*
月曜、帰りのホームルームが終わると、一花は鞄を肩にかけてさらの机の横まで行った。座らないで、机の端を指で一回つついた。
「庄内川の土手。歩くと三十分かかる。……それでもええ?」
さらはつつかれた机の端を見てから、顔を上げた。
「……ええよ」鞄を取って立ち、椅子を入れながら一花の足もとを一回だけ見た。「三十分、歩けるん」
責めるみたいな聞き方だったけれど、さらは言い直さなかった。
県道沿いを並んで歩くと、一花のほうが少し遅い。さらの歩幅が、気づかないふりができるくらいに縮んだ。一花は信号が変わる前に、半歩だけ大きく踏み出した。
「なんで土手なん」信号待ちで、さらが言った。「……パン屋の反対側やん」
一花は答えなかった。
土手の上に出ると、風が強かった。川原のほうへ、コンクリートの階段が七、八段下りている。さらが先に二段下りて座り、一花も同じ段に、少しあけて座った。肩と肩のあいだに、鞄が一つ置けるくらいの隙間があった。
「一年の冬、ここに一人で座っとった。学校行けんかった日」
さらは川のほうを見ていた。しばらくして言った。
「……あの子は、ここ、知っとるん」
「知っとる。記録で。私がここで何時間座っとったかまで」一花は膝の上で指を組んで、ほどいた。「でも、さらとは来とらん。……だで、ここの話、あの子にはせんで」
さらは鞄一つぶんの隙間に目を落とした。
「……言わん」少しして、顔をちょっとだけ一花のほうへ向けた。目は合わなかった。「パン屋のことは、一花、知らんことにしとって。……記録に書いてあっても」
一花は段の割れ目から生えている草を一本つまんで、抜かないでねじった。
「知らんことには、できん。一回読んだら、知っとるもん」指を離す。「……読まんことなら、できるかもしれん。あの子に、パン屋の日は出さんでって頼んどく」
さらの肩がこわばった。
「……出さんでって」声が上ずった。「パン屋の日、あの子、もう出てこんってこと」
一花はすぐには答えなかった。さらがどんな顔をしているのか、見なくても分かった。それをもう少しだけ見ていたくて、一拍、遅らせた。
「……ちがう。記録のこと。私に見せんでって、あの子に頼むだけ」ねじった草を離した。「あの子を出すかどうかは、それとは別。……私が決める」
さらは膝の上で手を握った。川を見たまま、しばらく黙っていた。
「……決めるとき」やめかけて、続けた。「私があの子に会いたがっとるのも、数に入れて。……一花が寝とる日になるの、分かっとって言っとる」
「……入れる」
一花は川を見たまま言った。少しして、続けた。
「ほんでも、私が寝とった日のことは、次の日、さらの口から聞かせて。記録やなくて。あの子が何言ったかやなくて、さらがどう思ったか」
さらの手が、膝の上で止まった。
「……パン屋のこと、知らんことにしとってって、言ったばっかやん」
「だで、記録は読まん。さらから聞く」
さらはしばらく答えなかった。鞄一つぶんの隙間に目を落として、長く息を吐いた。
「……ええよ。言う」ええよ、の前に、少し間があった。「楽しかったら楽しかったって言うでね。一花が嫌な顔しても、ごまかさんよ」
「嫌な顔は、たぶんする」一花は手のひらを膝でこすった。「ほんでも言って。……ごまかされたら、私、記録のほう読みに行ってまうで」
「読んでも、書いてないよ」さらは川のほうを向いたまま言った。「私がどう思ったかは」
一花は返事をしなかった。
風が少し強くなって、さらが言った。
「……一花は。今日は」
何を聞かれたのか、少し考えた。
「……来る途中、さらが歩くの遅くしたやろ。あれ、嫌やった」風で前髪がめくれて、一花は押さえないままにした。「嫌やったけど、帰りも、そうしてほしい」
さらはめくれた前髪の下の生え際に目をやって、すぐには外さなかった。
「……遅く歩くよ」
さらが先に立って、一段上がり、スカートの砂をはらった。一花も段に手をついて立った。膝が一回ふらついた。さらが出しかけた手を見ないで、自分で鞄を拾い、さらの横を通って土手の上まで上がった。
上で立ち止まって、さらが来るのを待った。
本作は、連載中の長編『オプトアウター』と同じ世界の独立短編です。
少し先の名古屋で、体内AIを入れずに生きてきた少年の話を書いています。よろしければ、そちらもどうぞ。




