裏山の烏と狐
朝は静かだ。
この辺りでは、車の音もほとんど聞こえない。聞こえるのは、風と、遠くの鳥の鳴き声くらいだ。
縁側に腰を下ろし、湯気の立つお茶をすすりながら、ぼんやりと庭を見る。朝の空気は少し冷たくて、頭がゆっくりと起きてくる。
「今日も行くのか」
背後から父親の声がかかった。
振り返ると、湯呑みを手にしたままこちらを見ている。
「散歩ついでだよ」
「……気をつけろよ」
短い一言だけ残して、父親は居間へ戻っていく。
それで十分だった。
「行ってくる」
居間に向かって一言だけ声をかける。父からの返事はないが、それでいい。
「気をつけてね」
台所から母親の声がする。
帽子を被り、靴紐をしっかり結び直してから外に出る。
特にやることはないが、散歩がてら山に入って体を動かしている。
それが、ここ最近の習慣になっていた。
裏山へ続く道は、家のすぐ裏にある。舗装もされていない細い道を進むと、すぐに土と草の匂いが濃くなる。
山菜は、あれば持って帰る。
なくても困らない。
ただ、歩く。
それだけで時間は過ぎていく。
木々の間を抜ける風が、妙に冷たかった。
足元の落ち葉を踏む音だけがやけに響く。いつもならもう少し鳥の声があるはずなのに、今日はやけに静かだ。
「……?」
立ち止まる。
静かすぎる。
耳が詰まったみたいに、音が引いている。
その瞬間だった。
――風が、止まった。
枝が軋む音が、遅れて届く。
次に来たのは、圧だった。
見えない何かが、上から叩きつけられるような。
「っ、は……」
息が吸えない。
視界の端に、何かが映る。
影。
巨大な影が、二つ。
空気を裂く音。
地面が抉れ、木が吹き飛ぶ。
何が起きているのか、理解する前に、
衝撃が来た。
――身体が、千切れた気がした。
痛みより先に、感覚が消える。
冷たい。暗い。
遠くで、声がする。
『……人の子、か』
『巻き込んだのう。面倒なことを』
声ははっきりしているのに、意味が頭に入らない。
『このままでは死ぬぞ』
『当たり前じゃ。お主が吹き飛ばしたのじゃろうが』
『……直すか』
『仕方あるまい』
何かが触れる。
温かいような、熱いような、奇妙な感覚。
壊れたものが、無理やり繋がれていく。
骨が、肉が、皮膚が――
逆流するように、戻ってくる。
――息が、戻った。
「っ、は……!」
喉が焼けるように痛い。空気を吸い込むだけで、胸が軋む。
だが、生きている。
ゆっくりと目を開けると、目の前に“いた”。
一人は、異様に背の高い男。
鼻が長く、鋭い目をしている。山伏のような装束に、風がまとわりついていた。
もう一人は、女の姿。
だが、その背後に揺れるものは九つ。
尾だ。
炎のようにゆらゆらと揺れている。
「……あー」
声が出た。
それだけで、自分でも少し安心する。
「すまんな」
長鼻の男――天狗が、軽く言った。
「少々、やり過ぎた」
「少々じゃ済まんじゃろうが」
九尾が呆れたように言う。
そのやり取りを、ただ見ていることしかできない。
「身体の具合はどうだ」
天狗がこちらを見る。
「……いや、それどころじゃ――」
言いかけて、違和感に気づく。
体が、軽い。
軽すぎる。
ゆっくりと立ち上がる。ふらつきはない。むしろ、安定しすぎている。
試しに、軽く膝を曲げて――跳んだ。
視界が、一気に開けた。
「は?」
木の上を越えた。
いや、それどころじゃない。明らかに高すぎる。
慌てて着地すると、地面がめり込んだ。
足が、埋まる。
「……え?」
手近な石を拾い、軽く放る。
一瞬で、消えた。
「……は?」
小石を握る。
ぱき、と乾いた音がして、砂になる。
目の前の大木に、恐る恐る拳で殴る。
ほんの少し力を入れただけで、
――砕けた。
木が、折れるというより、粉々になって崩れた。
「……どうすんだよ、これ」
振り返る。
天狗と九尾が、普通にこちらを見ていた。
「直しただけだ」
天狗が言う。
「出来たものは、もう変えられん」
九尾も頷く。
「死ぬよりは良かろう?」
「いや、加減ってもんがあるだろ……」
声が震える。
これじゃ、まともに生活できる気がしない。
物を触るのも怖い。
「……なんとかならないのか」
思わず、縋るように言う。
二人は顔を見合わせた。
少しだけ、気まずそうに。
「……うむ」
天狗が腕を組む。
「詫びというわけではないが」
九尾が、楽しげに目を細めた。
「少しばかり、力をくれてやろう」
空気が、変わる。
「我は“先”を見る目と、空間を渡る術をやろう」
「我は“形”を変える術と、遠くを覗く目じゃ」
意味は、よくわからない。
だが、
「……断る理由、ないな」
二つの気配が、同時に流れ込んできた。
――世界が、わずかに変わる。
それが何を意味するのか、この時の俺はまだ知らない。




