8話 現実 そうだ、変わろう
少し開けておいたカーテンの隙間から、朝の日差しが差し込んでいた。
いつものように、体が鉛みたいに重いはずだったのに。今日はなぜか、布団を押しのける動作がほんの少しだけ軽かった。
カーテンを開けると、目に入るのは無機質なビルの列。
馬車の代わりに、鉄の塊の車が排ガスを巻き上げながら走っていく。
腹に手を当てると、一掴みの贅肉がしっかり残っていた。
夢の中の華奢な自分が嘘みたいだ。まあ、嘘みたいなものなんだけど?
「……現実に戻った、か」
窓を開ける。
木々の香りも、焼きたてのパンの匂いもない。
けれど、冷たい朝の空気だけは、やけに澄んで感じられた。
夢の中の僕は……あんなに軽かったのに……
夢を思い出せば、子猫を探すために街中を走り回っていた。
身軽だったし、知らない他人に声をかける勇気があった。たかだか6000ゴールド、日本のお金6000円程度の仕事だ。今の僕より、どれだけ身軽で、真面目で腰の軽いやつだったんだろう。
でも、あの金髪の少女が、確かに僕の意思を持って、一生懸命仕事をしていた。
だから、あの少女がただの他人じゃなく、『本当の自分』だったような錯覚が、どうしても消えない。
階段を降りると、ふくらはぎがビキッと痛んだ。
体育の持久走を頑張ったせいだろう。
だが、それだけじゃない気がした。
まるで昨夜、一晩中走り回っていたような妙な疲れが残っていた。
それなのに、階段を降りる足取りが昨日よりも少し安定しているような気がして。ふと足を止めた。
……気のせいか?
炊き立てのご飯の香りが漂ってくる。
二階から降りると、妹がもう朝食を食べていた。
鮭の焼き魚とほうれん草のおひたし。いつもの朝だ。
「お兄ちゃん、朝早くない?」
目を丸くして、珍しいものを見るような顔。
時計を見ると、いつもより三十分も早い。
「……たまたまだよ」
誤魔化すように席についたけれど、妹はじっとこちらを見ていた。
「なんか、今日ちょっと…元気?」
「え?」
「いつもより、目がちゃんと開いてるっていうか……顔色いいよ?」
そうかな?、と思う。
体、特に足は筋肉痛だし……
妹の何の気なしの言葉だったと思ったが。でもその一言が、妙に嬉しかった。
ふと、夢の中の夜に見た特別クエスト終了のログを思い出す。
ーーー
特別クエスト終了
知らない人50人に声をかける
報酬 知力+2 魅力+2 話術Lv1
ーーー
夢の中で魅力が上がったから、もしかして現実に反映された?
それなら、現実のステータスはどうなっているんだろう。
「ステータスオープン」
しかし、僕の期待を現実世界は答えることなく何も起こらなかった。
「やっぱりお兄ちゃん疲れているんじゃない。もう少し寝たら?」
「はは……だよな」
自嘲気味に笑ったその瞬間、妹が嬉しそうに目を細めた。
「なんか、今日はよく笑うね」
「そうかな?」
箸を持って魚を一口食べる。
味が昨日よりはっきり感じられた。
塩気も、香ばしさも、ちゃんと舌に残る。
「一瞬、お兄ちゃん、大丈夫かなあ、って思ったけど元気そうだね」
妹の方を見る。
いつも、勝手に僕は家族から嫌われているような気がしていた。朝早く朝食を作ってくれる母、あまり会話はないけれど時々僕のお土産も忘れずに買ってくれる父、そしてそばで食事を共にして微笑んでいる妹の顔を見て、僕は嫌われていたんじゃないと気づいた。
ただ、僕が僕自身を嫌って、他人に投影していただけなのだ。
変わらなきゃ
僕はそう強く胸に刻んだ。
ーーー
体育の時間がやってきた。
いつもの苦手な持久走の授業だ。
先頭グループどころか後続グループからも大差をつけられていた。
汗はシャツに張り付き、髪に染み込んだ汗が目に入り込む。
だが今日は、いつもより少しだけ呼吸が続いた。
汗は滝のようで、足は鉛みたいだったけれど。
最後尾だった僕は、初めてこの日、後ろから2番目でゴールを果たした。
他の人は全然どうでもいい記憶として忘れるだろう。抜かされた人も、授業ごときに必死になって、と僕をあざ笑っていた。
でも、僕は、一生懸命足を止めずに誰か一人を追い抜いた今日を絶対に忘れないだろう。
ーーー
学校から帰る途中、周りをキョロキョロしながら不安そうな小学生の男の子を見つけた。
「どうしたの?」
そんなふうに声をかけるなんて、前の僕なら絶対にしなかった。でも、そうしないといけない気がした。あの夢の中の自分もそうやって誰かに助けてもらったのだ。
「犬が逃げちゃった」
ボソッと呟いたその声に、助けてあげたいと思った。
僕は、迷惑かもなと思いながら、
「一緒に探すよ」
その言葉に男の子の顔がぱっと明るくなる。
僕らは、犬『ジロー』を探して回る。
路地を歩いて、ジロー、と男の子が犬の名前を呼びながら何度も角を曲がる。
なぜか『こっちだ』という確信がふっと湧いて、足が自然と向いた。
するとボクサー犬という、イカつい筋肉質の犬が家の敷地の中で鎮座していた。首輪から垂れているリードは誰もつかんでいない。
「もう、ジロー心配したよ! 先に帰ってたんだね!」
見つけて感動、と思ったらそういうオチかい、とずっこけされた気分になる。まあ、見つかって何よりだ。
男の子が僕の手をぎゅっと握って、言った。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
その言葉に、少し胸が暖かくなる。
……僕でも、誰かの役に立てるんだ
その帰り道、世界が少しだけ明るく見えた。
そういえば、夢の世界の白い子猫は家に帰れたのだろうか。
感想など頂けると今後の参考になりますので助かります。
今日も3話分投稿します。




