31話 現実 行かなきゃいけない夜
目を覚ました瞬間、嫌な感覚があった。
髪の毛がじっとりと汗ばんでいて、パジャマも背中に貼りついている。
それだけなら、ただ夏の寝苦しかった夜で済むはずなのに鼻の奥に、妙な匂いが残っていた。
血の匂いだ。
喉の奥に、錆びた釘を舐めたみたいな味を感じた。血を飲んだわけでもないのに……。
クリーン、と口ずさむが何も変わらない。
僕はベッドから起き上がり、カーテンを開けた。
朝の光。
向かいのマンション。
道路を走る車の音。
何も変わらない、いつもの景色だった。
「戻って来たんだ」
そう口にした瞬間、胸が軽くなる。
同時に、罪悪感がのしかかる。
あっちは、僕のいない間の時間、これから……
そこまで考えて、思考を切り上げる。
考えたところで、何も変わらない。
気持ちを切り替えよう。体を動かそう。
ランニングウェアに着替え、オレンジ色の真新しいランニングシューズに足を通して外に出る。
足を前に出し、呼吸を整え、一定のペースで走り出す。
身体は軽い。昨日よりも軽い。
心肺も、脚も、よく動く。
それなのに、気分はまったく晴れなかった。
どれだけ走っても、夢の中で感じていた、あの切迫した感覚が、心に貼りついたままだ。
帰宅して、汗を拭き、木刀を持つ。
一通りの素振りをしても、心に迷いを感じた。
「本当に、上達したな」
今日は父さんが休みで、ラフな寝巻き姿で僕を見ていた。片手に2本の竹刀を持っていた。
「打ち込みしてみないか。面打ちだ」
竹刀を僕に渡すと、正面素振りを見せてから、
「面打ちは、振りかぶりと同時に飛び出して右足の着地と同時に面に振り下ろす」
父さんの右足がアスファルトを叩き音を立た時、僕の横に竹刀が振られていた。
「竹刀で受けるから、父さんの頭を狙うように振ってみるんだ」
父さんは頭の前に竹刀の両端を持って立つ。
父さんの見よう見まねで右足から飛び跳ね竹刀を振り下ろす。
「いいね、いいね。振りの速さは凄くいいけれど、足がついてきてない。もう一度やってみよう」
父さんは僕をおだてながら、面打ちを続けさせた。
「そういえば、父さん、相手に打たれないように打つような技はあるの?」
「先手必勝、先に相手より素早い打ち込み。避けきれない速さで繰り出せるなら、これに勝るものはない」
それで簡単に解決できれば苦労しないよ、とふと思う。
「相手の動きを見て、応じて打つのは難しい。相手が何を求めているかを探らないといけないから。沢山稽古を積んでも、読みが外れることもあるからなあ」
父さんがそう言いながら、頭を狙った一振りをしようと動くのを咄嗟に竹刀で受けようと腕を上げると、僕の左胴の部分をゆっくりと袈裟斬りした。少し離れて竹刀の先を合わせ、竹刀の先を押されて踏み込まれ振り上げらた竹刀に驚いて頭を守ろうとすると右手首にそっと竹刀の先を置かれた。
な、と言われて、頷くことしかできない。
「とりあえず、相手が面や小手を狙って来た時は抜き面というものがある。相手が面を打つ時に後ろに下がりながら振りかぶって面。間合いを見据えながら打ち込む」
父さんが竹刀をゆっくりあげて打ち込む動作をする。それに合わせて僕は後ろに下がり、振り下ろしてから空振りする瞬間に一歩前に出て竹刀を父さんの頭の横に落とした。
「そうそう。これが抜き面。でも、あまり経験のない子は、まず相手の動きを見ながらチャンスを見逃さず果敢に攻める方が大事かな。応じ技も、もちろん大事なんだけどね」
剣の道はとてつもなく長く遠いのだと思った。
反射的に最適解を予想して体を動かさないといけないだなんて。なろう系の主人公たちおかしいじゃないか。
この技術を身につけたところで、今日の夢に間に合うのか
そんな考えが、振り下ろした竹刀よりも先に浮かんでしまう。
「……今日、必死だな」
父さんがぽつりと言った。
「そんなに急がなくていい」
その言葉に、胸が締め付けられる。
今日の夢の中に、少しでも役に立つ技術。それがあまりにも遠い。もしかしたら戦わなければならない鬼人に、遅れをとる、いや、殺されたくない。
納得できる動きができず体力だけが消耗し、父さんによる稽古を終え、部屋に戻る。
本棚から、解剖学の本を引き抜いた。
筋肉、血管、内臓。
ページをめくるたび、夢の中で見た傷と重なっていく。
回復魔法を、もっと正確に。
もっと深く。
助けられる命を、助けきりたい。
知識を知れば、自分のMPの消費も収まるはずだ。
それだけの理由で、本を読み続けた。
でも、ページをめくる手を止めなかったのは、きっと、止めた瞬間、あの街から目を逸らしてしまう気がしたからだと思う。
結局、1日でできることなんて、ほとんどなかった。
やったことを端的にまとめると、運動をして、勉強をしたくらいだ。
夢の世界に戻りたくない。
行けば鬼人に殺されるかもしれない。
治療院で迷惑をかけるかもしれない。
何人も死なせて、いろんな人から恨まれる。
僕は父さんのコーヒーを取り出して、淹れた。湯気が天井に昇りながら消える。それを見て、シグレ院長の葉巻の煙を思い出し、頭を横にふる。
時計を見ると、二時を回っていた。
コーヒーは、もう冷めている。
苦みだけが舌に残った。
「……まだ起きてるの、兄ちゃん」
振り返ると、ハルカがいた。
眠そうなのに、ちゃんと僕を見ている。
全部見透かされた気がした。
僕は、黙っていた。
でも、黙っているのが一番つらかった。
「最近さ……」
言葉を選ぼうとして、やめた。
「夢を見てる。すごく、リアルなやつ」
ハルカは笑わなかった。
「魔法があって、治療院で働いてて……今日、多分、街が襲われる」
自分で言っていて、馬鹿みたいだと思う。
それでも、止まらなかった。
「……死ぬかもしれない」
ハルカは少し考えてから言った。
「でも、兄ちゃん、あっちでちゃんと働いて、みんなに頼られてるんでしょ」
「……うん」
「なら、行かなきゃだよ」
それは、あまりにも当然みたいな言い方だった。
「もし困ったらさ」
ハルカは、あくびをしながら言った。
「私が助けに行く」
寝ぼけた顔でニコリと親指を立てた。
根拠はない。
でも、胸の奥が少しだけ軽くなった。
僕はカップを流しに置いて、部屋に戻った。
布団に入る。
目を閉じる。
行ってくる。
そう思った瞬間、眠りが、静かに僕を引きずり込んだ。
いつも読んでいただきありがとうございます。
感想やブックマーク、リアクション等大変ありがとうございます。
テストの日に学校や試験会場に行きたくないとか、練習の仕上がりがいまいちで試合会場に行きたくないだとか、面倒な取引先に行きたくないから出社したくないとかありますよね。
くよくよ悩んでも、明日はやってくる!
酒を飲んで忘れちまえ!
ちなみに私は甘酒派です。
明日も21時に更新します。




