21話 現実 キモイと言われて喜ぶ一定数の生き物が、この世の中にいるらしい。
朝、目が覚めると同時に胸がざわついた。
……たちばなさん?、のことが頭に残っている。
昨日、転ぶところを咄嗟に支えた。
あれは、本当に反射だった。
でも、僕の正体に気づかれたら。
「え、あの時、触られた……?」
「うわ、あいつだったの?」
「キモーい」
そう思われる未来が、怖すぎた。
自分でも気にしすぎだと思うけれど、本当にそうなる未来を想像して心が縮こまる。
だから、いつものコースは走らない。
会う可能性がある道は全部避けた。
逃げているのは分かっている。でも、今はそれしかできない。
いつものコースの反対方向へ足を向け、ゆっくり長く走る。
息が段々慣れていくみたいに、胸のざわつきが少しずつほどけていく。
景色がいつもと違い、新鮮な感じだけが僕の心の救いだ。
でも、本当は同級生と楽しく話したり、同級生の女の子と楽しく過ごしたい。だって、僕は中学生の男の子だもの。
汗だくになって、家に帰ってきて、玄関にある竹刀を手に取り振る。
すると、仕事に行く父さんと出くわす。
父さんはじっと僕の竹刀を振る姿を見つめた。
「頑張っていることはいいことだ。ちょっといいかい」
僕の素振りを止めた父さんは、僕の前に立って、構えた。竹刀も木刀もないのに、見えない刀が向けられているようだった。
なんというか、あっ、このままだと切られる、そんな感じすら覚えた。
「まずは俺の足を見て。足は肩幅くらい。そんなに力まなくていい。かかとは少し浮かす」
そして、父さんは僕から竹刀を取って、再度構え直す。
「上下素振りって言ってね。普通の面みたいに頭を狙うわけじゃなくて、もっと大きく振る動きだ。
振り下ろすときは、膝より下。道に落とす手前まで」
父さんは一度ゆっくりと見本の素振りを見せた。
ゆっくりなのに空気が切り裂かれたような鋭いふりだった。
「振りかぶるときは、こう、背中の方に運ぶイメージで、大きく振りかぶる、振り下ろす時は背筋を伸ばしたまま。はい、やってみて」
父さんの動きの真似をする。真似ているのに全然違うのがわかる。腕の動きが硬いし、なんか、竹刀に振り回されている感じだ。
「うん、さっきより良くなった。ただ、右手は添えるだけでいい。力は左手。右手で竹刀のコントロール」
もう一度、僕は竹刀を振り上げて振り下ろす。
今度は、竹刀がまっすぐ落ちて、膝下くらいで止めることができた。
「いいね。それが上下素振りの形」
父さんはわずかに嬉しそうにこちらを見ていた。
「おっと、仕事に遅れる。無理するなよ」
「うん、ありがとう」
父さんの離れる足音が妙に大きく聞こえた。
僕は上下素振り、もう少し綺麗に振るえるように、しばらく振り続けた。
僕はもう一度、竹刀を構え直した。
昨日の自分から、少しでも前に進みたい。
汗が落ちる度、心の迷いが竹刀という刀で断ち切られていく。
たちばなさんに会うのが怖い気持ちも、昨日の自分を思い出すたびに苦しくなるのも、全部ひっくるめて。
もっと強くなりたい。
逃げない自分になりたい。
振り抜いた竹刀の先に、ほんの少しだけ、そんな未来が見えた気がした。
そういえば、剣道って、アキレス腱が切れることが多いって父さんが昔言っていたな。
アキレス腱が切れたらどんな治療をしているのかな。
素振りをしながら、昔の話を思い出した。今日はアキレス腱のこととか調べてみよう。
読んでいただきありがとうございます。
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アキレス腱が切れる時はバーンというかバチンと弾けるような音が聞こえるというか、普通の踏み込みとは違う音が聞こえました。
また、アキレス腱が切れる時は、普通の踏み込みだけじゃなく、ひねりも混ぜると発生しやすい気がします。
腱は直線的な力には強いけれど、回転を加えると断裂しやすいという人体の構造上の根拠があります。実際に切れる瞬間を何度か見ると、ああ、やっぱり根拠どおりなんだ、という気持ちになります。
久しぶりに運動する人は気をつけましょう。




