孤島の楽園殺人事件
第1章:楽園への招待
「なあ、拓真。ちょっと面白い話があるんだ」
大学の講義を終えた夕暮れ、食堂で丼をかき込んでいた望月拓真の前に、中村悠真がにやりと笑って腰を下ろした。昔からのお調子者ぶりは相変わらずだ。拓真は箸を止め、半ば呆れたように顔を上げる。
「また怪しいバイトの話じゃないだろうな」 「違う違う。今度はリゾートだ。お金持ちの知り合いが、無人島にある会員制リゾートに招待してくれたんだ。友達も連れてきていいって言うから、お前を呼ぶことにした!」
拓真は一瞬、眉をひそめた。無人島リゾート──聞いただけで非日常の匂いがする。普通なら冗談かと思うところだが、悠真の家は昔から裕福で、彼の人脈の広さを知る拓真は否定できなかった。
「俺が行っても場違いだろ」
「いやいや、絶対楽しいって! 豪華なヴィラ、プール、専属シェフにダイビング……。しかもタダで泊まれるんだぞ? 大学生でこんな経験できるやつ、そうそういないって」
悠真の勢いに押され、拓真は小さくため息をついた。
──それに、胸の奥ではほんのわずかな予感が疼いていた。非日常の舞台に立てば、また“あの力”を使わざるを得ないのではないか、と。
二日後。二人は港から白いクルーズ船に乗り込み、青い海を渡っていった。デッキに立つ悠真は潮風を受けてはしゃぎ、拓真はその隣で静かに景色を見ていた。
一瞬ごとに視界を切り取る。波の高さ、雲の流れ、客の服装、スタッフの仕草。脳裏に“映像”として焼き付き、消えることはない。彼は誰にも悟られぬよう、それを当たり前のように受け流していた。
やがて水平線の先に、緑に包まれた島が姿を現した。
「見ろよ拓真! あれが俺たちの楽園だ!」
悠真の声に、拓真は小さく笑みを浮かべた。だが心の奥では、言い知れぬ不安が静かに広がっていた。
桟橋に降り立つと、白いリゾートホテルが南国の木々の向こうに輝いていた。そこには招待主、中条家の人々が待ち構えていた。
重厚なスーツを着た初老の男──オーナーの中条隆司。鋭い眼光で客人を迎える姿は、島の王そのものだった。
その隣に立つのは、涼しげな表情の娘・美咲。知的な雰囲気を漂わせつつ、どこか冷たさがある。
さらに後方からは、派手なシャツ姿で笑みを浮かべる息子・俊が現れた。陽気さの裏に軽薄さが見える。
「ようこそ、私の楽園へ」
隆司の低い声が響いた。
拓真は軽く会釈しながら、視線を一瞬だけ周囲に走らせる。支配人・佐伯がスタッフを指揮している姿。厨房から顔をのぞかせる料理人。海辺でゲストに手を振るガイド。彼の目に映った光景は、すべて記録されていった。──これから起きる、まだ誰も知らぬ惨劇の伏線として。
チェックインを終えると、オーナー一家の計らいで、夕暮れのプールサイドに招かれた。白いテーブルクロスの上にカクテルグラスが並び、薄桃色の空が水面に溶け込んでいる。スタッフが小さなフィンガーフードを運び、南国の香りが風に混ざった。
「さあ、存分に楽しんでください」
隆司の合図で、ささやかなウェルカムパーティが始まる。
投資家の高城は、グラスを持ったまま常に腕時計を見ていた。
「市場が閉じていても、頭から離れんのですよ」
彼の言葉に俊が肩をすくめる。
「仕事中毒はご遠慮願いたいね。ここは楽園だ。株価の話なんて退屈だろ?」
軽口を叩きながらも、俊の指は落ち着きなくグラスの脚を弾いている。癖だ──拓真は一拍で覚えた。
芸能人の白石は、神経質そうに自分のグラスをハンカチで拭いた。
「すみません、潔癖症でして……」
指紋と曇りが消え、ガラスが硬い光を返す。些細な仕草だが、後に“誤解される動き”になることを、誰もこの時は気に留めなかった。
悠真はそんな空気を気にせず、厨房から出てきたシェフ・岸田に話しかける。
「このカナッペ、絶品ですね! レシピって教えてもらえたりします?」
岸田は頬をゆるめ、素材と火入れのこだわりを語った。料理談義に花が咲き、張りつめた空気がほどけていく。
その少し離れたところで、支配人・佐伯はグラスの残量を遠目に見ては、必要なところへ自然にスタッフを動かしていた。歩幅は一定、視線は低く、口元だけが僅かに笑う。癖も、呼吸も、規則正しい。
パーティがお開きになる頃、海風は湿り気を帯び、遠雷がかすかに鳴った。
「明日は島をご案内します。設備も含めて、安心してお過ごしいただけることをお見せしたい」
佐伯が穏やかに告げる。
「楽しみだな」
悠真が無邪気に笑う横で、拓真は窓ガラスに映る雲の縁の濃さを見つめていた。
翌朝。支配人の佐伯は宿泊客を集め、島のツアーを開始した。
まず向かったのは小高い丘。海を背にして建つ鉄扉の建物は、発電機小屋だった。
「嵐にも耐えられる構造です。非常時にはこちらで切り替えを行います。停電の心配はほとんどありません」
佐伯は鍵束を胸の内ポケットから取り出して見せ、扉の前で手短に説明を終える。言葉は簡潔で、無駄がない。
──“ほとんど”という副詞。わざとらしくない程度に、保険を残す言い回し。
拓真の記憶に、その言葉の選び方がぴたりと貼り付いた。
次に一行は岩場へ降り、波打ち際へと続く影の口へ近づく。洞窟だ。
入口には「立入禁止」の赤い札。岩肌には白い筋が不規則に走り、それが胸の高さで揃っている。
「満潮時にはここまで水が来ます。反響が強く、奥で迷うと危険です」
佐伯の説明を遮るように、ガイドの矢野沙耶が付け加えた。
「足元が悪いので、本当に入らないでくださいね。夜は特に」
矢野は笑って見せたが、その靴のつま先には、乾ききらない塩の粉が薄く付着していた。昨夜の下見だろうか──拓真の視界に、塩の粉末の粒径までが一瞬、鮮明に立ち上がる。
最後に案内されたのは、スタッフ用の掲示板だった。
カレンダーの横に「潮見表」が貼られ、満潮と干潮の時刻が細かな数字で並ぶ。いくつかの時間帯には赤いペンで丸。
「漁やダイビングの安全確認に必須の情報です。今日の夜は、満潮が二十二時三十八分」
佐伯の声は相変わらず落ち着いている。
掲示板の角は何度もめくられた跡で柔らかく、赤丸の部分だけ紙が僅かに光っていた。新しいインク。書き足し。時刻は──二十二時三十八分。数字の「8」の下半分だけ、他よりも濃い。二度なぞったのだ。
その些細な“差”も、拓真の内側に静かに保存される。
ツアーを終え、ヴィラへ戻る途中、雲の底がわずかに垂れ、風が濃くなった。椰子の葉が擦れ合い、湿気が肌にまとわりつく。
「雨、来るかな」
悠真が空を見上げる。
「……さあな」
拓真は曖昧に答え、歩みを緩めない。彼の足取りは軽いが、視線だけが場所から場所へ、印から印へ、無言の線を引いていく。
夕刻。プールの水面は風でさざめき、海は遠くから鉛色を混ぜ始めていた。レストランのガラス扉越しに、支配人・佐伯がスタッフへ短く指示を出す姿が見える。
「非常灯、点検。予備バッテリー確認。グラスは今夜も同じ配列で」
同じ配列──その言葉が、何気なく空気に溶けた。だが、何気ない言葉ほど、後で効いてくることを拓真は知っている。
夜の始まりは穏やかだった。だが、楽園の輪郭は、もうすでに風の中で滲み始めている。
拓真はガラスに映った自分の目を見た。
映像が、音が、匂いが、温度が、位置が──ばらばらの断片として、確かにそこにある。
そしていつものように、彼はそれを「偶然」と呼ぶ準備をしていた。
非日常は、いつだって静かな足音で近づいてくる。
島の夜は、まだ何も知らないふりをしていた。
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第2章:嵐の訪れ
リゾート初日の午後。
拓真と悠真は海沿いのヴィラに案内され、開放的な部屋に歓声を上げた。大きな窓からは真っ青な海が広がり、風に揺れる椰子の木の音が心地よく響く。
「最高だな! これがタダなんて信じられるか?」
悠真はベッドに飛び込み、天井を仰いで笑った。
部屋の中は白を基調にしたインテリアで、壁には抽象画が飾られ、南国の花を象ったガラスの花瓶が光を受けて輝いている。窓際には木製のテーブルが置かれ、上には潮風で微かに湿ったメモ帳が一冊。表紙にホテルのロゴが刻まれていた。
拓真は窓辺に立ち、海の向こうをじっと見つめた。雲の流れが、わずかに速まっている。色の濃い雲が水平線の端に溜まり始めていた。
──天気が崩れる。
一瞬で判断し、心に刻む。だが口には出さない。
彼の脳裏には、壁の絵のタッチ、花瓶の傾き、窓枠の細かな傷までもが鮮明に保存されていった。普段の生活ではほとんど役に立たない、しかし彼にとっては“自然すぎる記録”だった。
夕方、レストランに招かれた二人は、他の客人たちと顔を合わせた。
投資家の高城はスマートフォンを手放さず、指先で株価アプリを滑らせながら、落ち着かない視線を窓へ向けている。
芸能人の白石は、自撮り用にカメラを取り出すが、テーブルに置かれたグラスの水滴を気にして何度もナプキンで拭っていた。
医師の大谷はワインを片手に、隣の客へ「赤身肉は心臓にいいんですよ」と得意げに語り、専門性を誇示していた。
場を取り仕切るのは支配人の佐伯だった。
彼は冷静な声でメニューを説明し、スタッフを的確に動かしている。グラスの配置を一つひとつ確認し、座席の間隔まで目で測るように整えていく姿は、几帳面さを通り越して執拗さを感じさせた。
「ディナーの後はラウンジで演奏会もございます。どうぞごゆっくり」
佐伯は微笑みを見せたが、その笑顔は一瞬で消え、次の指示へと切り替わった。
その最中、突然ホールに低いざわめきが走った。
窓の外の海が、急速に荒れ始めていたのだ。雲は厚く、風が強まり、遠雷が響く。ガラス窓に雨粒が打ちつけられ、館内の灯りが滲んで見えた。
「……台風が近づいております」
佐伯が硬い声で告げる。
「本島との連絡船は、しばらく運航できません。ヘリも出せない状況です。通信も一部、制限がかかるでしょう」
テーブルの上のグラスがわずかに揺れ、水面が波打つ。
「つまり……」
美咲が淡々と続けた。
「私たちは、この島に閉じ込められたということですね」
その言葉に場の空気が凍りついた。
「そんなの大げさだろ? どうせ数日で収まるんだろ」
俊が笑ってみせたが、その笑みには焦りが混じっていた。
「……嵐は気まぐれです」
佐伯が短く言い添える。
「発電機と非常灯の準備は済んでおりますが、万一の停電時にはご注意を」
悠真は強がるように声を上げた。
「まあまあ、せっかくだしサバイバル気分を味わえばいいじゃないか!」
だがその笑いも、窓を打ち付ける雨風の音にかき消された。
拓真は黙って周囲を見渡す。
スタッフたちの不安げな視線。
客人たちのざわめき。
そして、一瞬だけ見えた支配人・佐伯の険しい表情。
──ここで何かが起こる。
拓真の胸に、漠然とした確信が宿った。
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第3章:第一の事件 ― 父・隆司の死
翌日の夜、オーナー・中条隆司が主催する歓迎ディナーが開かれた。
大広間には長いテーブルが設えられ、煌びやかなシャンデリアの光が揺れるグラスに反射して虹色を散らしていた。
白いクロスの上には銀の食器が整然と並び、中央には南国の花をあしらった大きな装花が置かれている。
シェフ・岸田が誇らしげに料理を運び、スタッフが息を合わせてワインを注いでいった。
「諸君、よく来てくれた」
隆司は立ち上がり、低く響く声で語り始めた。
「この島は、私の人生の集大成だ。金と時間を惜しみなく注ぎ、地上の楽園を作り上げた。ここで君たちと未来を語り合えることを、心から誇りに思う」
その言葉に拍手が起こる。
だが、美咲は冷めた表情でグラスを傾け、俊は退屈そうにナイフを弄んでいた。
食事が進むにつれ、会話も賑やかさを増していった。
芸能人の白石は冗談を飛ばし、写真を撮ろうとしては「やっぱり光が悪い」とぼやいている。
投資家の高城は料理には目もくれず、「この島の資産価値はいかほどか」と隆司に探りを入れた。
医師の大谷は「この気候は心臓病には理想的ですよ」と専門的な話をし、隣席を煙に巻いていた。
悠真は場の空気に合わせて明るく笑い、緊張感を和らげていたが、拓真はただ黙々と観察を続けていた。
──佐伯がワインボトルを手に取り、客のグラスへ注ぐ。
そのわずかな動きの中で、グラスの順番が一瞬だけ入れ替わった。
誰も気づかないほど自然で、流れるような仕草。
拓真の脳裏に、その光景が鮮明に焼き付けられる。
佐伯の指先、ワインの流れ、グラスの揺れ……。
細部が断片のように重なり、映像として保存されていく。
やがて、隆司が立ち上がった。
「さて、最後にもう一度、乾杯を──」
その瞬間だった。
彼の顔が苦痛に歪み、手からグラスが滑り落ちた。
赤いワインが絨毯に飛び散り、隆司は胸を押さえながら崩れ落ちた。
「お父様!」
美咲が立ち上がり、悲鳴を上げる。
椅子が引かれる音、皿が倒れる音、誰かの叫び。
大広間は一気に混乱の渦に巻き込まれた。
大谷医師が駆け寄り、脈を取った。
数秒の沈黙の後、険しい表情で告げる。
「……死んでいます。恐らく毒です」
その一言で場は凍りつき、歓談の余韻は完全に吹き飛んだ。
「誰が、こんなことを……!」
俊が顔を真っ赤にし、周囲を睨みつける。
白石は蒼白になり、グラスを取り落としそうになって手を震わせている。
高城は唇を固く結び、無言でテーブルを叩いた。
スタッフたちは動揺を隠せず、佐伯だけが冷静な表情を保っていた。
拓真はテーブルを見つめた。
床に割れたグラス。
絨毯に広がる赤。
わずかに位置のずれた空のグラス。
──違和感がある。
たった数秒の映像が、頭の中で繰り返し再生される。
それは、この死が偶然ではなく、誰かによって仕組まれたものであることを示していた。
悠真が青ざめながら小声で尋ねる。
「おい……拓真。今の……どう思う?」
「……まだ言えない」
拓真は短く答えた。
だが心の奥ではすでに、一本の糸が張り始めていた。
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第4章:疑心暗鬼の孤島
嵐の唸り声が窓を叩く中、大広間は重苦しい沈黙に包まれていた。
オーナー・隆司の亡骸は布で覆われ、その存在が空間の中心で圧倒的な重みを放っている。
煌びやかなシャンデリアの下で、誰一人として食事を続ける者はいなかった。
グラスの中の赤ワインだけが、生々しく血を連想させ、視線を逸らす者さえいた。
最初に声を上げたのは、投資家の高城だった。
「これは……明らかに殺人だ。事故ではあり得ない。オーナーの死で得をする者がいるとすれば……」
その視線が、自然と俊と美咲に向けられた。
「ふざけるな!」俊が立ち上がり、テーブルを叩いて怒鳴った。
「俺たち家族を疑うのか!?」
「冷静になってください」
美咲が弟を制しながら、冷ややかな目で高城を見返した。
「あなたもまた、父と取引で揉めていたはず。動機があるのは家族だけではありません」
「なっ……!」高城は顔を赤くし、口ごもった。
「まあまあ……落ち着こう」
白石が震える声で取りなすが、その指先はソワソワとグラスを拭き続けている。
その落ち着きのなさが、逆に場の緊張を煽った。
医師の大谷が低い声で言った。
「確かに毒死の可能性は高い。しかし、死因を正確に判断するには検査が必要だ。だが……この島にはその設備がない」
その言葉に全員の表情が曇る。
「つまり、真実は闇の中ってこと?」
白石が唇を震わせながらつぶやいた。
「その間に、犯人は次の行動に出るかもしれません」
大谷の言葉は冷静であったが、その冷静さが逆に恐怖を植えつけた。
その時、支配人の佐伯が皆を見回し、冷静な声で口を開いた。
「いずれにせよ、我々はこの島から出られません。警察が来るのも数日は先でしょう。ですから……互いに監視し合うしかないのです」
その言葉に全員の表情が硬直した。
監視し合う──つまり「誰も信用できない」ということだ。
高城が吐き捨てるように言った。
「つまり、我々は囚人同然というわけか」
「違います」佐伯の声は冷ややかだった。
「生き延びるための、最低限の手段です」
拓真は黙って会話を聞きながら、視線をテーブルに落とした。
──隆司のグラスが倒れた位置。
──誰がワインを注いだか。
──ほんの一瞬、支配人が入れ替えたかのように見えたグラスの順番。
頭の中で、その光景が再生される。
細部まで鮮明に。
それは彼にとって自然すぎる行為だったが、人に知られれば異常な力と映る。
記憶を繋ぎ合わせれば、ひとつの答えに近づける。
だが今ここで口にすれば、自分が異常なほどの記憶力を持つことが露見する。
拓真はただ唇を結び、沈黙を守った。
悠真が横から小声で囁いた。
「なあ……お前、何かに気づいてるんじゃないか?」
「……勘だよ」
拓真は短く答える。だが、その瞳の奥には確かな光が宿っていた。
外では嵐が唸りを上げ続けていた。
孤島の楽園は、一夜にして疑心暗鬼の牢獄へと変わったのだった。
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第5章:第二の事件 ― 息子・俊の死
その夜、島を激しい嵐が襲った。
風は木々をなぎ倒し、雨は壁を叩きつける。リゾートの建物は頑丈に造られているはずだが、窓ガラスが大きく揺れるたびに、客人たちの顔はこわばった。
天井を伝う雨漏りの音が、遠くで規則的に響いている。
「こんなときに停電したらどうなるんだ……」
高城がグラスを持つ手を震わせながら弱々しくつぶやいた。
その言葉を裏切るように、次の瞬間──。
館内が闇に沈んだ。
「うわっ!」
白石の甲高い悲鳴が響く。
非常灯が点くまでのわずかな数十秒。
嵐の轟音が壁を揺らし、食器が床に落ちて砕ける音、人々のざわめき、誰かの押し殺した息づかいが闇を支配した。
暗闇は数秒のはずなのに、果てしなく長く感じられた。
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光が戻ったとき、状況は一変していた。
床に倒れ伏すひとりの姿。
「俊……!」
美咲が叫び、駆け寄る。
遊び人のように振る舞っていた息子・俊の顔は蒼白に染まり、胸元には鋭い刃が突き立てられていた。
彼の口からはわずかに血泡が漏れ、すでに力なく広がっていく。
「殺されてる……!」
白石が口を押さえて後ずさる。グラスが手から滑り落ち、床で小さな破片を散らした。
大谷医師が駆け寄り、手際よく脈を取り、胸に耳を当てる。
数秒後、険しい顔で首を振った。
「即死だ。暗闇の混乱の中で、近づいた者が一瞬で刺したんだろう」
沈黙が広がり、嵐の轟音だけが場を満たした。
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「クソッ……! 誰だ! 誰がやった!」
高城が怒声を上げた。
「停電が偶然だと思うか? 計画的だ! 発電機を操作できるのは……」
その視線が支配人・佐伯に向かう。
「お前しかいないだろう!」
しかし佐伯は眉ひとつ動かさず、静かに答えた。
「私が操作していたなら、今こうして皆さんと同じ場にいるはずがありません」
その冷静さが、逆に不気味だった。
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拓真は混乱の中、ほんの一瞬の映像を脳内で再生していた。
──停電直前、窓際に立ち上がった影。
──暗闇の中、微かに聞こえた靴音の方向。
──俊が手にしていたはずのナイフが、彼の手元ではなく別の位置に落ちていたこと。
映像が次々と繋がり、脳裏に線が引かれていく。
暗闇に紛れて誰かが計画的に俊へ迫ったのだ。
しかし、まだ確信には至らない。
「……違和感が残る」
拓真は心の中で呟いた。
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「次は……私?」
震える声で美咲がつぶやいた。
父を失い、弟を殺された今、彼女の表情には恐怖と絶望が色濃く浮かんでいた。
「狙われているのは中条家全員……そう考えるのが自然でしょう」
医師の大谷が重苦しく言う。
その言葉は全員に突き刺さり、場を押し潰すような沈黙を生んだ。
高城は唇を噛みしめ、白石は今にも泣きそうな顔で壁際に寄りかかる。
佐伯の冷たい横顔だけが変わらずにそこにあった。
嵐は収まる気配を見せず、島は完全に閉ざされたまま。
楽園はすでに地獄へと変わりつつあった。
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第6章:記憶の糸
俊が命を落とした夜、館内は沈黙と恐怖に支配されていた。
嵐は止むどころか勢いを増し、窓に叩きつける雨と風の音が、まるで外界との断絶を告げる鐘のように響いていた。
「二人目……」
白石が震える声で呟く。
「オーナーに続いて、息子まで……次は誰なんだ?」
高城が立ち上がり、テーブルを拳で叩いた。
「こうなったら全員疑うしかない! さっきの停電だって怪しすぎる! 発電機をいじれるのは……」
再び視線は佐伯へ向けられた。
だが支配人は表情を変えずに答えた。
「私は一切関与していません。非常時の電源管理は私の責任ですが、あの瞬間、操作はしていなかった」
「なら、誰が停電を……」
美咲が声を震わせる。
「父に続いて、弟まで奪われて……もう、誰も信じられない」
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拓真は椅子に深く腰を下ろし、目を閉じた。
頭の中に、先ほどの数秒間の闇が映像のように再生されていく。
──停電直前、誰かが立ち上がった気配。
──暗闇の中で、硬い靴底が床を叩いた音。
──俊のナイフが、本来の位置からずれて落ちていたこと。
記憶の断片を繋ぎ合わせると、ある仮説が浮かび上がる。
だが証拠として示すにはまだ弱い。
「……犯人は、停電を利用して俊に接近した」
心の中で結論を出しつつも、それを言葉にすることはできない。
あまりに鮮明すぎる記憶を披露すれば、自分の“異常な力”を晒すことになるからだ。
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「どうすれば……」
白石が声を震わせ、部屋の隅に縮こまった。
「次は私かもしれない……!」
「被害者は中条家に偏っている」
大谷医師が低く言う。
「父と息子を失った以上、狙いは家族の殲滅だと考えるべきだ」
「……つまり、次は私」
美咲は蒼白な顔で呟いた。
その瞳には怯えと、父譲りの強い意志がせめぎ合っていた。
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その時、外の嵐に混じって、不気味な音が聞こえた。
窓の外で、何かが軋むような音。
美咲が反射的に身をすくめる。
「……気のせいか?」
悠真が呟いたが、その声にも力はなかった。
嵐に閉ざされた孤島。
次に誰が狙われるのか分からない恐怖。
その夜、誰も眠ることはできなかった。
そして拓真は確信していた。
──この連続殺人には、まだ見えていない“仕掛け”がある。
自分の記憶が、その真相を暴く唯一の鍵になると。
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第7章:第三の事件 ― 娘・美咲に迫る影
夜が更けても嵐は収まらなかった。
館の窓は雨に叩かれ、海から吹き上げる風は獣の唸り声のように響く。
暗い廊下を照らす非常灯の赤い光が、不気味な影を壁に揺らしていた。
その影の中に、美咲の姿があった。
彼女は兄と父を失った疲労と恐怖に耐えきれず、自室に籠もることを拒み、ロビーの片隅に腰掛けていた。
「閉じこもれば、余計に狙われる……」
彼女はそう言って、静かに震えていた。
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拓真はその様子を遠くから見つめていた。
頭の中で、これまでの断片が組み合わされていく。
──父・隆司の死。
グラスの順番が一瞬だけ入れ替わった。
──弟・俊の死。
停電の刹那、靴音が移動し、ナイフの位置が変わっていた。
──そして今。
嵐が強まるこの夜、美咲だけが狙われる可能性がある。
「犯人は確実に家族を狙っている……次は、美咲だ」
その確信が、冷たい刃のように胸に突き刺さった。
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その時だった。
廊下の奥、非常灯に照らされた影が動いた。
誰かがゆっくりと近づいてくる。
靴底が床板を踏む乾いた音が、規則的に響いた。
「……誰?」
美咲が顔を上げる。
返事はない。
ただ、足音だけが近づいてくる。
拓真は咄嗟に立ち上がった。
その瞬間、頭の中で「音」と「映像」が繋がった。
──停電の夜と同じ靴音。
──館の西廊下で響いた硬質な音。
──犯人は、この歩き方を隠せていない。
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「美咲、下がれ!」
拓真は叫び、彼女の前に立ちはだかった。
影が非常灯の下に入った瞬間、手にした金属の光がギラリと反射した。
ナイフだ。
次の標的が誰か、明白だった。
美咲は息を呑み、後ずさる。
「やっぱり……私なのね」
「大丈夫だ」
拓真は低く答えた。
「俺が守る。……そして、犯人を暴く」
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嵐の咆哮が窓を揺らし、館全体が震えた。
緊張が極限まで張り詰め、時間が止まったかのように感じられる。
拓真の脳裏には、すべての記憶が走馬灯のように再生されていた。
──ワインの注ぎ方。
──停電の瞬間の靴音。
──ナイフの落ちた位置。
そして今、目の前に現れた刃。
すべての断片が一本の糸で繋がり、犯人の姿が浮かび上がる。
「……もう、逃がさない」
拓真の瞳に、鋭い光が宿った。
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第8章:真相の暴露(拡張版)
廊下に響く足音。
非常灯の赤い光に浮かび上がった影は、鋭い刃を握りしめ、美咲へとじりじり歩み寄っていた。
その姿を前に、拓真は一歩前へ出た。
「……もう十分だ」
低い声で告げると、犯人の足が止まった。
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拓真は目を閉じ、記憶の断片を呼び起こす。
──ワインボトルを注ぐ支配人・佐伯の指先。
──一瞬だけ入れ替わったグラス。
──停電の刹那に移動した靴音。
──俊のナイフが、あり得ない位置に落ちていたこと。
映像のパズルが繋がり、一枚の絵となる。
拓真は目を開き、まっすぐに影を見据えた。
「オーナーを毒殺したのも、俊を刺したのも……あなたですね、佐伯さん」
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空気が張りつめた。
美咲が息を呑み、白石が声を失い、支配人・佐伯の顔だけが変わらぬ冷静さを保っていた。
「……根拠は?」
佐伯の声は揺れなかった。
「まず、父・隆司の死。グラスの順番が入れ替わっていた。自然に見えたが、あの瞬間、あなたは確かに一つだけ位置をずらした。……毒入りのグラスを隆司の前に置くために」
拓真の声は次第に強さを帯びていく。
「そして弟・俊の死。停電の暗闇で動けたのは、館の構造を熟知していた者だけ。……あの靴音は、発電機室から戻るときに何度も聞いた、あなたの足音と一致している」
「俊が持っていたナイフが、彼の手から落ちて離れた位置にあったのも不自然だ。あなたは暗闇で俊に近づき、彼の手から刃を奪って突き刺した。即死に見せかけるために」
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佐伯の顔に、わずかな歪みが走った。
しかし拓真は止まらない。
「狙いは中条家の抹消。父を殺し、息子を消し……そして娘の美咲をも葬ろうとした。
動機は――中条隆司がかつてあなたの家族を切り捨てたことだ。投資に失敗した責任を転嫁され、会社を追われ、家族を失った。あなたの恨みは、この島で結実したんだ」
その言葉に、美咲の瞳が大きく揺れた。
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沈黙の後、佐伯はゆっくりと口を開いた。
「……君は恐ろしい男だな。すべてを見ていたのか?」
「見ていたんじゃない」
拓真は静かに答えた。
「記憶していたんだ。細部まで、正確に」
非常灯の赤い光に照らされる拓真の瞳は、鋭い刃以上の力を宿していた。
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次の瞬間、佐伯は低く笑った。
「そうか……。だが、証拠はどこにある? 記憶だけでは、人は裁けない」
「証拠ならある」
拓真は即座に返した。
「停電中に使われた発電機室。あの操作盤には、あなたの指紋が残っているはずだ」
佐伯の目が大きく見開かれた。
拓真は続ける。
「さらに、俊の手から奪ったナイフ。握り直した痕跡は鑑識が来れば明らかになる。あなたは暗闇に頼ったが、細部の痕跡は隠せなかった」
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佐伯は刃を握る手を震わせ、やがて力なく下ろした。
「……ああ、そうだ。私がやった。あの男のせいで、すべてを失った。だから……」
その声は、嵐の轟音にかき消されるほど弱々しかった。
復讐の炎に囚われた男の姿は、もはや哀れな影でしかなかった。
拓真は美咲を振り返り、静かに言った。
「終わりました。もう大丈夫です」
美咲の目から、初めて涙がこぼれ落ちた。
—
第9章:孤島の夜明け(拡張版)
長い夜が、ようやく終わりを告げた。
窓の外、嵐は静まり、灰色の空が少しずつ朝の光を迎え入れていく。
倒れた椰子の木や打ち上げられた漂流物が、暴風の爪痕を生々しく刻んでいた。
館の中には、重苦しい静けさが漂っていた。
佐伯は拘束され、館の一室に閉じ込められている。
その顔には怒りも悔しさもなく、ただ虚ろな影が差していた。
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リビングのソファに座る美咲は、夜を徹した疲労で憔悴していた。
だが彼女の眼差しは、どこか吹っ切れたように強さを宿していた。
「……助けてくれて、ありがとう」
そう小さく呟いた言葉には、父と弟を失った悲しみと、それでも生き延びた安堵が入り混じっていた。
拓真はただ頷いた。
言葉を返せば、彼女の涙を余計に誘うと分かっていたからだ。
悠真は場を和ませようと、冗談めかして言った。
「まったく、お前の“勘の鋭さ”には驚かされるよ。俺なんて、停電したら何も見えなくて腰を抜かすところだった」
その言葉に、美咲はかすかに笑みを浮かべた。
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だが拓真の胸には、複雑な思いが残っていた。
──自分の記憶力と分析力が、この悲劇を食い止めた。
だが同時に、それを知られれば異常と見なされる。
彼は再び、その力を胸の奥深くに閉じ込める決意をした。
窓の外では、嵐を乗り越えた朝日が、灰色の空を押しのけるように顔を覗かせていた。
その光は、血と涙に染まった夜を清めるように館を照らし出していた。
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数日後、海が落ち着きを取り戻した頃、救助の船がようやく島に到着した。
警察による事情聴取が始まり、佐伯の犯行は次々と裏付けられていく。
発電機室の指紋、ナイフの握り直しの痕跡、そして複数の証言。
「記憶」ではなく「証拠」によって、真実は固められていった。
それを見届けた拓真は、深く息を吐いた。
もう、自分の役目は終わったのだ。
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帰りの船に乗り込むとき、美咲が振り返った。
「また……会えるかしら」
その瞳には、失ったものの痛みと、未来への希望が同居していた。
拓真は答えず、ただ柔らかな笑みを返した。
潮風が二人の間を吹き抜け、船はゆっくりと孤島を離れていく。
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背後に小さくなっていく島を見つめながら、拓真は静かに思った。
──この記憶は、決して忘れない。
そしてまた、どこかで事件が起これば、きっと自分は同じように立ち向かうのだろう。
朝日が水平線から昇り、海を黄金に染め上げる。
それは、絶望を超えた者たちに訪れる新しい始まりを告げていた。
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完