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山影に消えた足音

◇第1章:ゼミ旅行の始まり


シーン1:旅館到着


 俺は悠真。大学三年、文学部に通う、ごく普通の学生――少なくとも、この旅に来るまではそう信じていた。

 成績も運動も中の上。特別な才能なんてない。ただ、人と話すのが好きで、初対面でもそこそこ打ち解けられる程度の器用さはある。


 隣にいるのは幼なじみの拓真。物静かで、目立つことを避けるくせに、ふとした瞬間に核心を突く言葉を口にする男だ。授業では目立たない学生に見えるが、その観察力は、人の生死すら左右しかねない――そんなこと、この時の俺はまだ知らなかった。


 午後四時半。ゼミ一行を乗せたマイクロバスは、冬枯れの山あいを抜け、川沿いの細い道を進む。川面を渡る風は冷たく、窓ガラスに当たって微かに震える音がした。硫黄の匂いが車内に漂い始めると、誰かが「温泉の匂いだ」と笑い、途端に車内がほころんだ。


 やがて、石畳の坂を上がった先に三階建ての和風旅館が見えてきた。瓦屋根に白壁、玄関前には門松が左右に並び、格子戸の向こうから温かな灯りが滲み出ている。薄曇りの空の下、その明かりはやけに心強く見えた。


 玄関に降り立つと、足元から冷気が這い上がる。思わず肩をすくめると、拓真は無言で旅館全体を見回していた。屋根の端、奥まった廊下の影、表札の細工まで。まるで何かを確かめるかのように――。

 「温泉と地酒、どっちから攻める?」と俺が笑って声をかけても、「……荷物置くのが先だろ」とそっけない。


 木戸をくぐると、ひんやりした空気が背後へ逃げ、畳と檜の香りが鼻をくすぐった。ロビーの隅では薪ストーブが赤く燃え、パチパチと火花を散らしている。囲炉裏の横には、山里の祭りを描いた水彩画と、色褪せた集合写真が飾られていた。


 フロントでは、翔太が宿帳に名前を書き込んでいる。長身で笑顔も爽やか、ゼミのエースと呼ばれる男だ。だがその足元に置かれた黒いスポーツバッグの口が、ほんの少しだけ開いていた。中に差し込まれた赤いUSBメモリが、ロビーの灯りを一瞬だけ反射する。


 拓真が、その光を捉えたかのように視線を止めた。わずか数秒、表情は変わらない。それでも俺は、彼の瞳に小さな針のような集中の色が宿ったのを感じた。

 ――このときはまだ、それが事件の始まりの合図だとは思いもしなかった。


 荷物を受け取って部屋に向かう廊下の途中、外からひときわ冷たい風が吹き込んだ。ほんの刹那、背筋に微かな寒気が走ったのを、俺は温泉街の冬のせいだと自分に言い聞かせた。

 けれど今にして思えば、あの瞬間からすでに、この旅は“ただの小旅行”ではなくなっていたのかもしれない――。

---


◉シーン2:部屋割りと自由時間


 チェックインを終えると、高橋先生がロビーの中央に立ち、手元の名簿をめくった。

 「さて、部屋割りを発表します」

 その声に、ゼミの面々が一斉に耳を傾ける。


 男子は二部屋、女子は大部屋で一緒。先生と助手はそれぞれ個室だ。

 俺は拓真と同室。もう一部屋には翔太と陽介、それに別のゼミ仲間二人が入る。


 「お、よろしくな陽介」

 翔太が笑顔で肩を叩くと、陽介は少し照れたように頷いた。

 ――その瞬間、陽介の口元がわずかに引きつったのを、なぜか覚えている。


 陽介はゼミではよく資料整理や発表準備を手伝ってくれる真面目なタイプだ。

 背筋を伸ばし、メモを取る姿が板についている。話し方は少し堅いが、嫌味はなく、頼まれたことはきっちりこなす。

 特定の誰かと深く付き合うわけではないが、誰からも一定の信頼を得ている。こういう地道な努力型は、ゼミにひとりは必要な存在だ。


 部屋は二階の奥。襖を開けると、八畳の畳敷きに低いテーブルと座布団が四枚。窓際には障子越しに雪をかぶった山並みが見える。

 壁には、冬祭りの山車を描いた日本画が掛けられていた。拓真は荷物を置くと、その絵に目を留め、静かに視線を辿っていた。


 荷物を置いて廊下に出ると、夕暮れの橙色が障子越しに差し込み、磨き上げられた板張りの床に長い影を落としていた。

 ふと視線の先で、翔太と陽介が廊下の端で肩を寄せ合い、何やら低い声で話している。

 内容までは聞こえない。だが、陽介の腕組みと翔太の小刻みなうなずきが、妙にかみ合っていないように見えた。

 笑顔もあった。だから、そのときは深く考えなかった。


 夕食までの自由時間、女子たちは早々に浴衣へ着替えて温泉へ。男子の何人かはロビーでカードゲームを始めた。

 ロビーは畳と板張りが半々で、中央には大きな鉢植えの松。壁際の木棚には観光パンフレットや地図が並び、その横に湯上がり用の麦茶ポットが置かれている。


 俺はというと、人懐っこい性格を発揮して、早速旅館の従業員と世間話を始めていた。

 「この旅館って、どれくらいの歴史があるんですか?」

 「もう三代目ですわ。昔はこの辺り、もっと宿が多かったんですけどねぇ」

 そういう何気ない会話は、旅先ならではの楽しみだ。言葉の端々から、その土地の匂いや人柄が染み出してくる。


 一方、拓真はロビーの隅から廊下をゆっくり歩き、壁の絵や案内板、非常口の位置まで視線を滑らせていた。

 まるで、この建物全体を心の中に写し取っていくかのように。


 そのとき、外から冷たい風が吹き込んだ。ストーブの炎が小さく揺れ、障子に映る影が一瞬だけ形を変える。

 俺は何とはなしにそちらを見たが、すぐにカードゲームに誘う声がかき消した。

 ――あの影をもっと気にしていれば、この後の展開も違っていたのかもしれない。


---


シーン3:宴会開始


 二階の大広間に足を踏み入れた瞬間、ふわりと出汁の香りが鼻をくすぐった。

 長い座敷には朱塗りの膳がずらりと並び、湯気を立てる寄せ鍋、透き通る湯葉の刺身、小鉢の山菜の和え物、香ばしく焼かれた川魚――彩りも香りも、冬の旅館らしいもてなしだ。

 障子越しに差し込む雪明かりが、室内の橙色の灯りと混ざり合い、ほの温かい色合いを作っている。


 上座には高橋先生、その両脇には助手と翔太が座っていた。翔太は当然のように一升瓶を片手に、あちこちの席を回っている。

 「さあさあ、今日は日頃の疲れを忘れて楽しみましょう!」

 その明るい声に、部屋中が一気に賑やかになる。笑い声や椀の蓋を開ける音、鍋の煮立つ音が混ざり合い、冬の夜の温もりを形作っていた。


 俺もつられて声を上げる。

 「拓真、飲めよ! あ、陽介もお疲れー!」

 向かいの陽介が軽く会釈を返し、鍋の具を俺の椀にそっとよそってくれる。こういう細かい気遣いが自然にできるあたり、やっぱり真面目なやつだ。


 そのとき、翔太が陽介の席に近づいた。

 「おい陽介、このグラスちょっと曇ってるな。ほら、新しいの使えよ」

 軽い口調でそう言うと、翔太は自分の前にあったグラスを陽介の前に置き、曇った方を何気なく引き取った。酒をこぼさぬように動作は流れるようで、まるで日常の一部のようだった。

 俺は「気配りのいいやつだな」としか思わなかったが――隣の拓真は箸を止め、その入れ替えの一部始終を目で追っていた。


 乾杯の声が響き、湯気の向こうで笑顔が弾ける。

 昼間ロビーでカードをしていた仲間が、陽介に向かって軽口を飛ばす。

 「お前、昨日の続きで勝負だぞ!」

 「いやいや、あれは引き分けだったろ」

 笑いながらのやり取りだが、その一瞬、陽介の目が笑っていないことに気づいたのは、きっと俺だけじゃなかったはずだ。


 俺は湯葉を箸でつまみながら、拓真をちらりと見た。

 彼は相変わらず表情を変えず、湯気の向こうをじっと見つめている。誰かと目が合えば、すぐに視線を外す。

 ――その視線の先に、何が映っていたのかを知るのは、ずっと後になってからのことだ。


---

◉シーン4:宴会後半

 宴会が始まって一時間ほど経ったころ、陽介の頬は薄く赤く染まり、箸の動きもゆったりしてきていた。

 普段はほとんど酒を口にしない彼が、今日は珍しく杯を重ねている。

 鍋の湯気と地酒の香りに包まれた座敷は、すでに笑い声と話し声で渦を巻いていた。


 「陽介、外の空気でも吸ってきたらどうだ? このままだと鍋の味も分からなくなるぞ」

 翔太が笑顔で声をかける。その口調は軽やかで、冗談のように聞こえる。

 だが、俺の耳にはなぜか、ほんのわずかに急かすような響きが混ざっていた。

 周りもつられて笑い、陽介は「じゃあ、ちょっとだけ」と立ち上がった。


 俺は別のグループに呼ばれ、最近の授業や試験の話に加わる。

 地酒を片手にくだらない冗談を飛ばしていたが、ふと視線を巡らせると、拓真の姿がない。

 何となく席を抜け、廊下の奥を覗いた。


 そこは、宴会場から離れた静かな空間だった。

 照明は少し暗く、障子越しの外の雪明かりが床板を淡く照らしている。

 その先に、翔太と陽介が並んで立っていた。

 距離があるため声までは聞こえないが、翔太の表情は宴会場での陽気さとは違い、鋭い光を帯びているように見える。

 陽介は俯き、ほとんど言葉を発していない。


 廊下には暖房の音だけが響き、二人の間の空気が妙に張り詰めているように感じられた。

 俺は「覗き見しているみたいだな」と思い直し、呼ばれて席へ戻った。

 だが、廊下の奥では、拓真がまだ足を止めたまま、じっとその光景を見ていた。

 その横顔は、何かを記録するような、冷静で静かな目をしていた。


---


◉ シーン5:章の終わり


 宴会がお開きになると、学生たちは自然に二手に分かれた。

 女子の多くは浴衣姿で温泉へ、男子の数人は肩を組みながらカラオケルームへ向かっていく。

 廊下の向こうに消えていく笑い声が、しばらく耳に残った。


 俺はあまり騒ぐ気にならず、拓真と一緒にロビーに残った。

 「行かないのか?」と拓真が聞く。

 俺は肩をすくめて笑った。

 「まあ、せっかくだし、ちょっとここで休憩」


 ちょうどフロント前を通りかかった中居さんに、軽く声をかける。

 「さっきの鍋、めちゃくちゃ美味しかったです。あれ、何鍋なんですか?」

 「鴨鍋ですわ。地元の農家さんから仕入れてるんですよ」

 それをきっかけに、話は旅館の歴史や、この辺りが宿場町として栄えていた頃のことにまで広がった。

 人と話すのは好きだし、初対面でもつい根掘り葉掘り聞きたくなる――それはもう、俺の性分だ。


 ふと横を見ると、拓真はソファに腰掛け、黙ってロビーの窓の外を眺めていた。

 「何見てるんだ?」と聞くと、首を振るだけで答えない。

 窓の外には、黒々とした山の稜線が夜の闇に沈み、遠くの街灯がぽつぽつと淡い光を落としている。

 旅館の前を流れる川のせせらぎが、静かに、途切れ途切れに聞こえてきた。

 その音に混じって、木の枝を揺らす風の気配がする。


 ――ただの夜景だ。そう思っていた。

 だが、今になって思えば、あの視線の先には、拓真なりに何かを感じ取る理由があったのかもしれない。

 その夜の静けさは、どこかで、嵐の前触れのようでもあった。

---


第2章:不穏な影


シーン1:宴会後半の不自然な空気


 宴会が始まって一時間ほどが経った頃だった。

 佐藤陽介の頬は赤く染まり、箸を持つ手もどこかおぼつかない。

 彼は酒に強い方ではないが、今夜は珍しく杯を重ねている。

 笑顔はあるが、その目の焦点は少しずれて見えた。


 そんな陽介の様子を、村上翔太がちらりと横目でとらえた。

 翔太は箸を置き、軽い口調で声をかける。

 「陽介、外の空気でも吸ってきたら? このままだと鍋の味も分からなくなるぞ」

 冗談めかした言葉に、周囲の数人が笑う。

 陽介もつられるように口元を緩め、「じゃあ、ちょっとだけ」と立ち上がった。


 しかし、彼が向かったのは宴会場の出口ではなく、部屋のある廊下だった。

 その動きに気づいた者はほとんどいない。

 皆、地酒の追加やデザートの甘味に気を取られていたからだ。


 ――俺も、最初は見過ごしていた。

 だが、拓真が席を立ち、ゆっくりと廊下の方へ歩いていくのが目に入った。

 何かを追うような視線をしている。


 少しして、俺も水を取りに行くふりをして廊下に出た。

 すると、宴会場から離れた廊下の奥で、翔太と陽介が向かい合って立っているのが見えた。

 声は低く抑えられていたが、翔太の口調には明らかに刺がある。

 陽介は俯き、ほとんど返事をしていない。


 距離があるため、言葉は拾えない。

 ただ、その場の空気が、宴会場の賑やかさとはまるで別のものになっているのを肌で感じた。


 拓真は、壁際の陰からそれをじっと見ていた。

 俺は一瞬だけ足を止めたが、声をかけることもできず、再び宴会場へと戻った。

 その背中に、何かを見逃してはいけないという直感が、じわりと広がっていた。



---


シーン2:二次会・自由時間


 宴会がお開きになると、学生たちは自然に二手に分かれた。

 女子の多くは浴衣姿で温泉へ向かい、男子の何人かはカラオケルームに消えていく。

 廊下の向こうから、笑い声や足音が遠ざかっていくのが聞こえる。


 俺はあまり騒ぐ気にならず、ロビーのソファに腰を下ろした。

 足を伸ばし、天井を見上げる。宴会の熱気がまだ身体に残っていて、喉が少し渇いていた。

 フロント横の給茶機で水を注ぎ、一口飲む。


 ――そのときだった。

 外の玄関口の方から、コツ、コツ、と規則的な靴音が聞こえた。

 間隔は一定で、迷いのない歩き方。

 だが、旅館の外は街灯も少なく、夜道はほとんど人通りがないはずだ。

 耳を澄ましたが、やがて音は消え、誰かが入ってくる気配もなかった。

 「……気のせいか」

 自分にそう言い聞かせ、もう一口水を飲む。


 一方その頃、悠真は温泉に向かう途中で中居さんと出くわしていた。

 「お兄さんたち、今からお風呂ですか?」

 「そうです。……あ、そういえばこの辺って夜も人が歩いてます?」

 「いいえ、ほとんどいませんよ。山道ですし、外灯も少ないから危ないですわ」

 「へえ……」

 悠真は軽く会釈して、浴場の方へ歩いていったが、その言葉が耳の奥に残っていた。


 ロビーには暖かな灯りと、ストーブの低い唸りが満ちている。

 外の冷えた空気や、あの靴音のことなど、すぐに忘れてしまいそうになるほど、穏やかな時間だった。



---


シーン3:被害者行方不明


 温泉組が戻ってきたころ、ロビーの空気はまた少し賑やかになっていた。

 カラオケ帰りの連中も合流し、夜更け前のゆったりとした時間が流れる。


 そんな中、誰かがふと口にした。

 「そういえば、陽介見ないな」


 近くにいた学生が顔を上げる。

 「さっきから見てないな。部屋にいるんじゃない?」

 「さっき覗いたけど、いなかったぞ。布団もまだ敷いてなかった」


 何人かが「じゃあ廊下のソファかも」と笑いながら話す。

 酔った勢いでそのまま寝てしまうのは、この手の旅行では珍しくない。

 実際、宴会の終盤で陽介がふらついていた姿を思い出し、俺も深刻には考えなかった。


 「トイレかもしれんし、そのうち戻ってくるだろ」

 そんな軽いやり取りで話は流れ、皆は再びそれぞれの雑談やスマホに戻っていく。


 ただ、少し離れたソファに座る拓真だけは、何も言わず静かに天井を見上げていた。

 その視線の先には、ロビーの明かりに照らされた時計があった。

 ――その時刻を、彼が頭の中で記憶に刻んでいたことを、俺はまだ知らなかった。




---


シーン4:発見


 ロビーにいた数人が笑い声を上げたその時、旅館の玄関先から甲高い声が響いた。

 「誰か――! 下に、人が……!」


 外で涼んでいた男子学生の一人が、顔を真っ青にして飛び込んでくる。

 空気が一瞬で張りつめ、周囲のざわめきが消えた。


 「どうした!?」

 「崖の下……人が倒れてる!」


 その言葉を聞くなり、高橋先生と数人が駆け出した。俺と悠真も慌てて後を追う。

 旅館の裏手は山に面しており、細い遊歩道が斜面に沿って続いている。

 街灯の明かりが途切れ、暗がりに目を凝らすと、下方の岩場に横たわる人影が見えた。


 「……陽介だ!」

 誰かの声が震える。


 駆け下りようにも足場は悪く、結局、旅館のスタッフが警察と救急を呼びに走った。

 やがて到着した警察官たちが、手際よく現場を確保し、遺体を引き上げる。


 「外傷はあるが……争った形跡はないな」

 聞こえてきた声に、周囲の学生たちは口々に言った。

 「宴会でかなり飲んでたしな」

 「足元、暗いから滑ったんだろう」


 それは、自然で無理のない推測だった。

 けれど、少し離れた場所で立ち尽くす拓真は、そのやり取りをただ黙って聞き、視線を崖の縁に向けていた。



---


シーン5:主人公の違和感


 警察の車両が去り、旅館の周囲は再び静けさを取り戻していた。

 けれど、俺の胸の奥では、宴会前の浮ついた空気が跡形もなく消えていた。


 頭の中に、さっきまでの断片がひとつひとつ浮かぶ。

 ――宴会中、翔太が陽介のグラスを入れ替えた瞬間。

 ――廊下の奥で交わされた、小声でのやり取り。

 ――あの夜の外から聞こえた、妙に一定のリズムを刻む靴音。


 どれも、それだけでは何の証拠にもならない。

 偶然と言われれば、それまでのことだ。

 ……だが、すべてが同じ一晩に重なったのは、あまりにも出来すぎている。


 ロビーの大きな窓から外を見る。

 街灯の光が届かない闇の奥で、風が枝を揺らす音がする。

 その向こうに、何かがこちらを見ている――そんな錯覚が、しつこくまとわりついて離れなかった。


 俺はその夜、なぜか眠りが浅く、何度も目を覚ました。




---


第3章:調査と情報収集


シーン1:現場調査(翌朝)


 朝の空気は澄んでいるはずなのに、崖の縁に立つと肺の奥が冷たく締めつけられるようだった。

 昨夜、佐藤陽介が発見された場所――そのすぐ上にある細い遊歩道。

 まだ雪は降っていないが、冬の湿った風が頬を刺す。


 俺は手すりに近づき、ゆっくりと視線を走らせた。

 木製の欄干の一部が、わずかに土埃で汚れ、しかもそこだけ粉のように削れた跡がある。

 自然に触れるにはやや高い位置。

 ……誰かが腰をかけるか、よじ登るように立っていたのではないか?


 足元には、乾きかけた土の滑った筋が二方向に伸びている。

 片方は崖の縁へ、もう片方は手すり沿いに。

 靴底のパターンは二種類以上――しかし、この程度では学生全員の履き物を調べても特定は難しい。

 俺はしゃがみ込み、靴跡の深さと間隔を目で測った。踏み込みの強さが違う……。

 「……偶然にしては、不自然すぎる」


 背後から足音が近づき、振り向くと悠真が両手をポケットに入れて立っていた。

 「やっぱり来てたか」

 彼は俺の横に視線を落とし、崖下を一瞥する。

 「教授、今日中に大学に戻るってよ。警察の事情聴取も終わったらしい」

 「……じゃあ、のんびりしてる暇はないな」

 俺の言葉に、悠真はにやりと笑った。

 その笑みには、昨夜からうっすらと感じていた“探る気配”が、今やはっきりと灯っていた。




---


シーン2:旅館スタッフからの証言


 午前中、俺と悠真は別行動を取ることにした。

 悠真は「ちょっと昨日の縁を使ってみる」と言い残し、軽い足取りでフロントの奥へ消えていった。

 十分ほど経って戻ってきたとき、彼は妙に満足そうな顔をしていた。


 「収穫ありだ」

 俺が促すと、悠真は声を潜める。

 「昨日の夜中、この旅館から男性がひとり外に出ていくのを、中居さんが見たらしい」

 「……誰だ?」

 「暗くて顔は分からなかったってさ。ただ、足音が妙に速くて、しばらくしてから戻ってきたって」


 俺は昨夜ロビーで聞いた“あの靴音”を思い出す。

 一定のリズムで、やや硬い響き――偶然にしては出来すぎている。


 さらに悠真は、もうひとつ証言を口にした。

 「それと、夕食前にロビーで、佐藤が誰かと口論してたのを見たって」

 「……相手は?」

 「はっきり顔を見たわけじゃないけど、声からすると男だったらしい。

  ただ、背格好は翔太より少し低かったって」


 背格好――それはこのゼミに数人いる条件だ。

 俺の脳裏に、宴会での冗談半分の言い合いが浮かんだが、それと繋げるにはまだ早すぎる。


 断片的な証言が、頭の中でバラバラに転がる。

 どれが核心で、どれがノイズなのか――今はまだ判断できない。



---


シーン3:ゼミ仲間への聞き込み


 午前の休憩時間、俺と悠真は自然に役割を分けて動いた。

 俺は男子のグループ、悠真は女子や別行動の学生たちを回って話を聞く。

 昨日までの旅行気分はどこかへ消え、皆の表情にはわずかな緊張が滲んでいた。


 俺が声をかけたのは、カードゲーム仲間の一人、井上だ。

 「あのさ、昨日の夕食前に陽介と口論してたって聞いたんだけど」

 「ああ、あれ? ただのゲームの話だよ。昼休みにやった勝敗のことで、からかってただけ」

 井上は苦笑しながら肩をすくめた。

 「本気で怒ってたわけじゃないし、その後も普通に話してたから」


 拍子抜けするほど軽い理由だった。

 確かにあの場の雰囲気は冗談めいていたし、これで殺意を抱くのは不自然だ。

 とはいえ、何もなかったと断言するには早い気もする。


 一方、悠真が女子グループから戻ってきた。

 開口一番、低い声で言う。

 「面白い話を聞いた。――陽介、旅行に来る前に教授に何か相談してたらしい」

 「相談?」

 「詳しくは分からない。でも、教授の顔が少し険しかったって」


 教授と陽介の接点は、研究や発表準備くらいしか思いつかない。

 だが、もしそれ以外の理由があるなら――今回の旅行に何らかの影を落としていてもおかしくない。


 俺たちは顔を見合わせた。

 ゲームの口論はただのノイズ。だが教授への相談は、まだ色が付いていない手がかりだ。

 それが何を意味するのか、この時点では誰も答えを持っていなかった。



---


シーン4:部屋での小発見


 昼前、俺は拓真――いや、悠真と情報整理をするために自分の部屋へ戻った。

 廊下を歩く途中、ふと開け放たれた隣の部屋のドアが目に入る。

 中には誰の姿もない。だが、机の上に黒いスポーツバッグが置かれていた。

 昨日、フロントで見た翔太の荷物だ。


 何気なく視線をやったとき――バッグの脇に、小さな赤い光沢が目を引いた。

 赤いUSBメモリ。

 旅館の柔らかな照明を受け、妙に鮮やかに映えている。


 (……昨日も、あのバッグの口から少しだけ覗いていたな)

 その瞬間、足音が近づいてきた。

 俺は反射的に身を引く。


 「……ああ、悪い。忘れ物取りに来ただけ」

 部屋に入ってきた翔太は、俺の視線を追うように机に近づくと、素早くUSBをバッグに放り込んだ。

 そして何事もなかったかのように笑みを作り、「じゃあまた後で」と言って部屋を出て行った。


 俺は追及しなかった。

 赤いUSBが何を意味するのか、この時点ではまだ分からない。

 ただ、翔太の手の動きと表情が、いつもの余裕からほんのわずかに外れていたのは確かだ。


 部屋に戻ると、悠真がベッドに腰掛けていた。

 「そういえばさ、昨日の夜……翔太さんの袖、泥が付いてたな」

 「泥?」

 「温泉街って道は舗装されてるのに、あんな泥が付く場所って……限られてるよな」


 その一言が、頭の奥で小さな鐘を鳴らした。

 USB、泥の袖――どちらもまだ断片にすぎない。

 だが、ゆっくりと線がつながる感覚が、俺の中で確かに芽生えていた。



---


シーン5:主人公の思考整理


 昼下がり、ロビーの片隅でコーヒーを飲みながら、俺はこれまで見聞きしたことを一つひとつ頭の中に並べていた。


 ――宴会でのグラスの入れ替え。

 ――あの夜、廊下越しに聞いた靴音の規則的なリズム。

 ――崖の手すりに残っていた土埃の欠け。

 ――中居から聞いた「夜中に男性が外へ出た」という証言。

 ――翔太の赤いUSB。

 ――そして、悠真が言った「泥の袖」。


 並べてみると、どれも偶然にしては出来すぎている。

 しかし、これらが一つの線にまとまるには、肝心な“理由”が足りない。

 なぜ翔太がそんな行動を取る必要があったのか。

 そもそも、陽介は何を知っていたのか――。


 カップを置くと、窓の外の景色が目に入った。

 雪を頂いた山々が、白い息を吐くように霞の中に浮かんでいる。

 あの崖の下で、陽介は何を思い、どうしてそこに立っていたのか。


 (……被害者が何を知っていたのか。それを突き止めなければ、何も始まらない)


 そう結論づけた瞬間、胸の奥に小さな熱が灯った。

 それは、昨夜から続く違和感を手繰り寄せ、形に変えていくための火種だった。


---


第4章:推理と対決


シーン1:全員を集める


 翌朝。

 廊下の窓から差し込む冬の陽光は、昨日の騒ぎが嘘のように穏やかだった。

 だが、その空気の下で、俺の胸は落ち着かなかった。


 教授に事情を話すと、意外にも真剣な表情で頷いてくれた。

 「……分かった。私から皆に声をかけよう」

 その一言で、動き出す覚悟が決まった。


 午前十時。

 旅館二階の和室には、ゼミ生全員と教授、そして助手が集まっていた。

 畳の上には正座やあぐらをかく学生たち。

 昨夜の宴会の名残のような笑みは、もう誰の顔にもなかった。


 俺は部屋の中央に立ち、深呼吸してから口を開く。

 「……昨日の佐藤陽介さんの死について、みんな“事故”だと思ってるかもしれません。

 でも、俺はそうじゃないと考えています」


 ざわめきが広がり、誰かが小さく息を呑む音が聞こえた。

 翔太は腕を組み、薄い笑みを浮かべたままこちらを見ている。

 悠真は壁際で静かに座り、目だけが鋭く俺を追っていた。


 「これは――殺人の可能性がある」


 その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気は一変した。

 暖房の効いた室内なのに、ひやりとした冷気が足元から這い上がってくるようだった。


 俺は全員の視線を受け止めながら、次の言葉を選んだ。

 「これから、昨日の出来事を順番に整理します。

 そして最後に、犯人が誰なのか……はっきりさせます」


 ――いよいよ、推理の時間だ。



---


シーン2:証拠の積み上げ(小さな違和感)


 部屋の視線が一斉に俺に集まっていた。

 息をひとつ整えて、まずは昨日の夜の光景を頭の中で再生する。


 「最初に――宴会中の出来事です」

 俺は視線をテーブルの上に置かれた湯呑へと落とす。

 「翔太さんは、陽介さんのグラスを“別のもの”と入れ替えました。曇っていたから、という理由でしたが……あの動作は非常に自然で、酒を注ぎ直す動きに見せかけられる」


 部屋がわずかにざわつく。翔太は眉を動かさず、腕を組んだままだ。

 「普通なら気にも留めません。でも、あの後の陽介さんは、酒に弱いはずなのに妙に杯を重ね、そして急に足元が覚束なくなった。

 ……グラスの中に、睡眠薬のようなものが入っていた可能性があります」


 誰かが小さく息を呑んだのが聞こえた。


 「次に――夜の靴音です」

 俺はゆっくりと部屋を見渡す。

 「宴会がお開きになった後、俺はロビーで一定のリズムを刻む足音を聞きました。まるで、意図的に歩幅を揃えているような……癖のある音です。そしてその歩き方は、ある人物の癖と一致します」


 言葉を切ると、数人が無意識に隣を見る。翔太は依然として無表情だが、その指先が膝の上で小さく動いた。


 「そして――三つ目。崖の手すりです」

 俺は昨日の朝の現場を思い出しながら続ける。

 「そこには、土埃が不自然に削れた跡がありました。高さは人間が普通に触れる位置ではなく、誰かが立ち上がって身を乗り出したときに触れる場所。

 そこに立っていた者が、崖下へと何かを落としたか……あるいは、人を押し出した可能性があります」


 畳の上を緊張が這い回る。

 俺はあえて名前を出さず、言葉を飲み込んだ。

 この小さな違和感たちが、やがて一つの線で結ばれる――その瞬間を、全員に意識させるために。






---


シーン3:決定打


 沈黙が部屋を支配していた。

 誰もが次の一言を待っている――そんな張り詰めた空気の中、悠真がぽつりと口を開いた。


 「……そういえばさ」

 彼は何でもない世間話のような口調で続ける。

 「昨日の夜、翔太さんの袖に泥が付いてたよな。温泉帰りに見かけたとき」


 その瞬間、俺の頭の中で断片が一気に線になった。

 ――宴会中のグラスの入れ替え。

 ――ロビーで聞いた一定のリズムの靴音。

 ――崖の手すりに残った土埃の欠け。

 そして今、悠真の言葉が、そのすべてを一本の糸で繋ぎ合わせた。


 袖についた泥。それは崖の縁に立ったとき、あるいは手すりに触れたときに付着したものだ。

 靴音の主と、現場に残された痕跡――両者を結びつける決定的なピース。


 俺は静かに翔太を見た。

 「袖の泥……それは、あの崖に行った証拠になる」

 言葉は淡々と、しかし一切の迷いなく放たれた。


 部屋の空気がさらに重く沈み、誰かの息を飲む音が響いた。

 翔太の口元が、わずかに引き結ばれる。




---


シーン4:動機の提示


 翔太は黙ったまま、視線だけをこちらに向けていた。

 俺は机の上に、あの日見かけた赤いUSBをそっと置く。


 「……翔太、このUSB。君の部屋で偶然見つけた」

 その赤色は、ロビーで初めて目にしたときと同じ、光を反射する鮮やかさを放っている。


 「中には、教授の未発表研究データが入っていた。まだ論文にもなっていない、数年分の成果だ」

 部屋の空気がざわつく。教授の眉がぴくりと動いた。


 「君はこのデータを盗み、自分の研究として論文を作成していた。

  ……そして、それを偶然知ってしまったのが、佐藤陽介だった」


 翔太の目がわずかに揺れる。

 俺は構わず続けた。


 「陽介は、旅行が終わったら教授に報告するつもりだった。

  夕食前、ロビーで誰かと口論していたという証言――あれは君と陽介だろう。

  陽介は“やめろ”と警告したはずだ。だが君は、それを黙らせる道を選んだ」


 静寂が広がる中、外の風が障子を微かに揺らす。

 「宴会でグラスを入れ替え、睡眠薬で足元を奪い、外に連れ出して……」

 俺は視線を翔太から逸らさず、言葉を押し出す。

 「崖の縁に立たせ、足を滑らせる形で“事故”に見せかけた」


 翔太は深く息を吐き、俯いた。

 それは否定のためではなく――自らの敗北を認めた者の仕草だった。




---


シーン5:犯人の崩壊


 翔太は椅子の背にもたれ、腕を組んだまま低く吐き捨てた。

 「偶然だろ。あんたの推測に過ぎない。証拠はあるのか?」


 声色にはまだ余裕があった。だが、その目の奥には微かに焦りが滲んでいる。

 俺はポケットから一枚の写真を取り出した。

 それは、警察が現場で撮った佐藤陽介の腕時計の写真だった。


 「これが、最後の一手だ」


 翔太の眉がわずかに動く。

 「警察の推定によると、転落は午後10時30分ごろだ。

  だが、この時計は10時20分で止まっていた」


 部屋の空気が凍りつく。

 「崖から落ちた衝撃で止まったのなら、実際の転落時刻は警察の推定より10分早かったことになる」


 翔太は口を開きかけ、何も言えずに閉じた。

 俺はさらに詰め寄る。

 「その10分――君は何をしていた?」


 静寂。誰も息を呑む音すら立てない。

 「答えは一つ。君は現場を偽装していた。

  転落後に足跡や土埃の欠けを作り、“酔って足を滑らせた”ように見せかけた」


 その瞬間、翔太の表情が崩れた。

 自嘲の笑みが浮かび、視線が床に落ちる。

 「……あいつが全部知ってたんだ。俺のことも、USBのことも。

  だから……もう、黙らせるしかなかった」


 吐き出すような声は、やがて言葉にならなくなり、肩だけが震えていた。



---


シーン6:犯人の告白


 翔太は深くうつむき、両手で顔を覆った。

 しばらくの沈黙のあと、かすれた声が漏れる。


 「……俺には、もう時間がなかったんだ」


 指の隙間から覗く瞳は、赤く充血していた。

 「この論文が通れば、教授の推薦で海外留学が決まって、未来が手に入るはずだった。

  俺の人生は、ようやく軌道に乗る……そう信じてた」


 場の空気が重く沈む。

 「でも、陽介は……あいつは、俺のやってることが間違いだって、はっきり言った。

  教授に報告するって。……正しいよ、あいつは正しい」


 翔太はそこで、力なく笑った。

 「でもな……正しいだけじゃ、何も掴めないんだ」


 その言葉は、自分自身への弁明というより、諦めの吐息のようだった。


 教授は何も言わず、苦しげに目を閉じた。

 その横顔は、教え子の堕落を目の当たりにした無念さで歪んでいる。


 悠真は視線を床に落とし、唇をきつく結んだ。

 やりきれない表情を浮かべたまま、一言も発しない。

 その沈黙が、どんな非難よりも重く、部屋を支配していた。



---


シーン7:締め


 玄関前にパトカーが停まり、冷たい冬の空気がロビーに流れ込む。

 警察官が翔太の両腕を取ると、彼は抵抗することなく外へ歩き出した。

 うなだれた背中が、夜の闇に飲み込まれていく。


 教授の手には、赤いUSBが握られていた。

 静かに見つめながら、何かを言いかけてやめる。

 その小さな記憶媒体は、重たい信頼と裏切りの象徴のように見えた。


 荷造りを終えた俺は、ロビーで悠真に声をかけられる。

 「……お前、最初から全部分かってたんじゃないのか?」

 「いや、偶然と記憶が繋がっただけさ」

 軽く肩をすくめて答えると、悠真はふっと笑った。

 「お前、絶対ただ者じゃないだろ」


 バスのエンジンが唸りを上げ、俺たちは旅館を後にする。

 窓の外に流れる景色をぼんやりと眺めていると、ふと視界の端に、小さな異変が映った。


 旅館の裏手。

 雪の積もった庭に、足跡がひとつ。

 その向きは、外から中へ――。


 俺はその場で言葉を飲み込み、視線を前に戻した。

 バスは山道を抜け、ゆっくりと温泉街を離れていく。

 胸の奥に残る、わずかなざらつきだけを置き土産に。


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