八月の終わり
空想は、どんどんエスカレートしていった。
もし、彼女がこの部屋にいたら。もし、俺が彼女の髪に、自由に触れることができたなら。もし、あのうなじに、唇を寄せることができたなら――。
そんな妄想に耽っていると、現実の佐藤美月が、どんどん遠い存在になっていくのを感じた。俺が愛でているのは、もはや彼女自身ではない。俺が盗んだヘアゴムと、それによって増幅された、俺自身の欲望の塊だった。
夏休みも、終わりに近づいていた。
ある日の放課後。美術室で一人、石膏デッサンをしていると、不意にドアが開いた。
「あの、斉藤くん、いる?」
その声に、俺は心臓が凍りつくのを感じた。佐藤美月だった。
なんで、ここに。なんで、俺の名前を。
俺は、ぎこちなく振り返った。彼女は、少し困ったような、申し訳なさそうな顔で、入り口に立っていた。今日の彼女は、ポニーテールではなく、髪を下ろしていた。いつもと違うその姿に、俺はなぜかひどく動揺した。
「ご、ごめん、急に。驚かせちゃった?」
「さ、佐藤さん…」
「あ、名前、知っててくれたんだ。よかった」
彼女は少しだけ微笑んだ。その笑顔は、太陽のようだと凡庸な表現をしていたかつての自分を殴りつけてやりたくなるほど、自然で、魅力的だった。
「あのね、美術部の人に、ちょっと頼みたいことがあって」
「…頼みたいこと?」
「うん。文化祭で、クラスの出し物の看板を描いてくれる人を探してるんだけど、みんな塾とかで忙しいみたいで…。斉藤くん、絵が上手だって、同じクラスの山田さんから聞いて」
山田さんは、俺と同じ美術部の部員だった。余計なことを。俺は心の中で毒づいた。
「…俺が?」
「もし、迷惑じゃなかったら、お願いできないかなって。もちろん、ちゃんとお礼はするから」
彼女は、必死に俺に頼み込んでいた。その目は真剣で、俺が図書室で盗み見ていたような、ただ綺麗なだけの存在ではなかった。クラスのために、一生懸命になっている、一人の女子高生だった。
ポケットに入れた右手が、汗でじっとりと濡れた。
彼女は、俺が盗みを働いた相手だ。俺が、いやらしい妄想の対象にしていた相手だ。そんな俺が、彼女の頼みを、無垢な笑顔を受け取る資格なんて、あるはずがない。
「…ごめん。俺、そういうの、苦手だから」
俺は、自分でも驚くほど冷たい声で、そう言った。
彼女の顔からは、困惑と、そして、かすかな失望の色が浮かぶ。
「そっか…。ごめんね、無理言って」
「……」
「邪魔しちゃってごめんね」
彼女はそう言うと、静かに頭を下げて、美術室から出て行った。
ドアが閉まる音を聞きながら、俺はその場に立ち尽くしていた。
断って、正解だったはずだ。これ以上、彼女に関わってはいけない。俺の罪が、彼女を汚してしまう。
なのに、胸には、ナイフで抉られたような、鋭い痛みが走っていた。彼女を傷つけてしまった。がっかりさせてしまった。俺は、彼女と繋がる唯一のチャンスを、自らの手で断ち切ってしまったのだ。
ヘアゴムは、交わるはずのない俺と彼女を繋ぐものではなかった。俺を、彼女から永遠に引き離す、呪いのアイテムだった。
その夜、俺は眠れなかった。引き出しの中のヘアゴム。スケッチブックに描かれた無数の後ろ姿。そのすべてが、俺の罪を告発しているようだった。
佐藤美月は、俺が思っていたような、ただの記号じゃなかった。彼女は、笑って、困って、一生懸命になる、生身の人間だった。俺は、そんな彼女の人格を無視して、ただ自分の欲望の捌け口として、彼女の一部を盗んだのだ。
吐き気がした。
俺は、ベッドから起き上がると、スケッチブックをびりびりと破り捨てた。
そして、机の引き出しからヘアゴムを掴み取った。
もう、こんなものは要らない。
俺は、家を飛び出した。夜の生ぬるい風が、火照った頬を撫でる。どこへ行くという当てもなかったが、足は自然と、近所の川へと向かっていた。
小さな橋の上で、俺は立ち止まった。川面が、街灯の光を反射して、黒く鈍く光っている。
俺は、握りしめていたヘアゴムを、じっと見つめた。彼女の匂いは、もうほとんど消えかかっていて、ただの、古びたゴムだった。
俺は、大きく息を吸い込むと、腕を振りかぶり、それを力いっぱい川に向かって投げ捨てた。
ぽちゃん、という小さな音がして、ヘアゴムは闇の中に消えていった。
それを見届けても、俺の罪が消えるわけじゃない。胸の痛みも、自己嫌悪も、一生なくならないだろう。
でも、何かが終わった、という気はした。
狂おしいほどに焦がれた、あのポニーテール。俺の歪んだ夏。そのすべてが、あの小さな水音と共に、過去になった。
橋の欄干に寄りかかり、俺は空を見上げた。八月の終わりを告げる、少しだけ涼しい風が吹いていた。
明日、学校で佐藤さんに会ったら、なんて顔をすればいいんだろう。気まずくて、きっとまともに顔も見られないだろう。
でも、それでいいのかもしれない。
俺は、ただの斉藤健太に戻るのだ。彼女の背中を盗み見ることもなく、いやらしい妄想に耽ることもない、ただの同じ学年の一人。それが、俺が払うべき罰なのだ。
長くて、そしてひどく歪んだ俺の夏が、ようやく終わろうとしていた。