ポケットの中の温もり
アスファルトが陽炎を揺らす。ミンミン、ミンミン、と耳の奥で反響する蝉の声が、思考そのものを溶かしてしまいそうなほど執拗に降り注ぐ。八月。世界から色彩と理性が奪われ、ただ白けた光と、まとわりつく熱だけが存在する季節。俺、斉藤健太の高校1年の夏休みは、そんな退屈と倦怠感の海の中で、ただ溺れるように過ぎていくはずだった。
図書室の冷房だけが、俺にとっての唯一の避難所だった。夏期講習なんてものは性に合わず、かといって灼熱の自宅の部屋で無為に時間を過ごすのも苦痛だった。だから、俺は毎日律儀に、開館と同時に図書室へ通い、一番奥の窓際の席を陣取るのが日課になっていた。
彼女、佐藤美月を初めて意識して目で追うようになったのも、その図書室だった。
彼女は、俺とはクラスが違う。テニス部で、快活で、誰にでも笑顔を向ける、太陽みたいな女の子。そんなありきたりな表現しか思いつかない自分が歯がゆい。俺のような、美術部の隅っこで、誰に話しかけるでもなく、ただスケッチブックを広げているような人間とは、住む世界が違う。
彼女は夏期講習組らしく、授業の合間に図書室に予習をしに来ているようだった。俺の席からは、通路を挟んで斜め向かいの彼女の背中がよく見えた。そして、俺の視線はいつも、その背中の一点に吸い寄せられていた。
白いうなじの上で、生き物のように揺れる、ポニーテール。
艶のある黒髪が、紺色のシンプルなヘアゴムで一つに束ねられている。彼女が問題を解くためにこてんと首を傾げるたび、さらりと髪の束が揺れる。参考書に視線を落とし、集中しているときの、汗でうっすらと湿ったうなじ。時折、その繊細な場所に、後れ毛が数本、はりついている。
俺はその光景から、目が離せなくなった。蝉の声も、本のインクの匂いも、遠のいていく。俺の世界は、彼女のポニーテールとその周辺の、半径10センチほどの空間に収縮してしまう。
思春期、という言葉で片付けるには、その執着はあまりに生々しかった。俺のスケッチブックは、いつの間にか風景画や静物画の代わりに、様々な角度から描かれた彼女の後ろ姿で埋め尽くされていった。
揺れる髪の動き、光の反射、うなじの滑らかな曲線。鉛筆を走らせながら、俺は想像する。あの髪に触れたら、どんな感触がするだろう。指を絡めたら、彼女のシャンプーの匂いが、指先に移るのだろうか。
そんなことを考えていると、腹の底の方が、じんと熱くなった。それは、甘酸っぱい恋心とは少し違う、もっとどろりとした、名前のない感情だった。誰にも言えない、知られてはいけない欲望。その秘密の熱が、俺の退屈な夏を、奇妙な緊張感で満たしていった。
ある日の午後。その日も俺は、いつもの席で、彼女のポニーテールを盗み見ていた。不意に、彼女が立ち上がって席を離れた。飲み物でも買いに行ったのだろうか。
彼女が去った机の上に、何かが残されているのに気づいた。
紺色の、ヘアゴムだった。
いつも彼女の髪を束ねている、見慣れたそれだ。
俺の心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
蝉の声が、やけに大きく聞こえる。図書室には俺と、数人の生徒しかいない。誰も、俺のことなど気にも留めていない。
喉が渇く。掌にじっとりと汗が滲む。
あれは、ついさっきまで彼女の髪に、彼女の体温に触れていたものだ。彼女の一部と言ってもいい。あれが欲しい。
衝動が抑えられなくなっていた。
頭の中で、警報が鳴り響く。やめろ。馬鹿なことは考えるな。ただの忘れ物だ。彼女が戻ってきたら、「忘れてたよ」と渡してやればいい。うまくいけば、それがきっかけで話せるかもしれない。それが、正しい選択だ。健全な男子高校生の、あるべき姿だ。
だが、俺の足は、意思に反して、ゆっくりと立ち上がっていた。まるで操り人形のように、一歩、また一歩と、彼女の机に近づいていく。
机に近づくと、ふわりと甘い香りがした。シャンプーの香りだろうか。彼女自身の匂いだろうか。その香りが、俺のなけなしの理性を麻痺させた。
指先が、震えていた。
俺は、周囲を素早く見回した。誰も見ていない。司書はカウンターの向こうでうたた寝をしている。
俺は、机の上のヘアゴムを、鷲掴みにするように手に取った。
ごくりと唾を飲み込み、そのままポケットにねじ込む。そして、何事もなかったかのように自分の席に戻った。心臓は、破裂しそうなほど激しく脈打っていた。
ポケットの中の、ヘアゴムの感触。まだ、微かに彼女の温もりが残っているような気がした。