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虚構の楽園

作者: ダイノスケ

第一章 楽園の入り口


青空が広がる園庭。陽射しを受けた砂場や滑り台が温もりを帯び、子ども達の歓声が風に乗って響いていた。幼稚園の園庭とは思えないほど広いその場所で、5人の園児が鬼ごっこをしている。


「よーい、はじめ!」

祐介の声を合図に、みんなが一斉に駆け出す。最初の鬼は守だ。

「くっそー、待てー!」

赤いTシャツを着た守は大きな声を上げながら走り出した。目の前には三つ編みで白いワンピースを着た麻里がいる。ふらふらと滑り台の方へ逃げる麻里を追い詰めると、守は余裕たっぷりに笑いながら手を伸ばした。


「タッチ!」


守の手が麻里の背中に触れる距離に近づいた。だがそれだけでは終わらない。守はさらに加速し、追いついた勢いで麻里に抱きつく。


「麻里つかまーえた!」


「きゃはは、ちょっと!離してよ!他の人を追いかけられないじゃん!」


麻里が抗議の声を上げ守の手を振り解いた。守は気にする様子もなくケラケラと笑う。


「次は麻里が鬼!」

守が得意げに指さすと、麻里はふくれっ面で祐介に目を向けた。


「じゃあ、私は祐介君にタッチする!」

麻里はその場でくるりと方向転換し、祐介に向かって走り出した。


「げっ、俺かよ!」


滑り台の上から二人を見下ろしていた祐介は、麻里のいない方向に着地しすぐさま駆け出した。


祐介は荒い息を吐きながら足を動かしていた。後ろから麻里の足音が迫ってくるのを感じ、思わず振り返る。


「祐介君、待てー!」

麻里が笑いながら手を伸ばしてくるのが見えた。


「くそっ!」

祐介は焦りながら鉄棒の方へ駆け出した。砂場の横を全速力で抜けていき、ブランコの支柱をすれすれにかわす。


「あぶねっ!」

一瞬ブランコの鎖に引っかかりそうになったが、なんとか体勢を立て直す。その瞬間、胸の奥から込み上げる感情があった。


(楽しい。)


冷たい風が頬をかすめ、靴が砂を蹴り上げる音が耳に響く。風の音と心臓がドキドキと鳴る音が大きくなり、他の園児達の声が遠のいていく。全身が躍動しているのがわかる。


(なんでだろう。この瞬間が、こんなにも楽しいなんて。)


これまでの日々は、どこか鈍い重石が心に張り付いていて、何をしても満たされなかった。SNSを見ても、ゲームをしても、結局は罪悪感と疲れと虚無感に苛まれていた。だけど、今この瞬間だけは違う。全身が軽く、心が解き放たれるような気がした。


(今この瞬間のために生まれてきたのかもしれない。この時間がずっと続けばいいのに。)


祐介は夢中で走り続けた。嫌なことも、苦しいことも、全てを忘れられる気がした。


しかし、その「楽しい」は長く続かなかった。


「あ、もう無理だ……」

息が上がり、足が止まりそうになる。祐介は疲れた体を引きずるようにして振り返った。


(これだけ走ったら、麻里も諦めているんじゃないのか。)


その瞬間、目の前に麻里の顔が飛び込んできた。


「タッチ!」

麻里が笑顔で祐介の肩を叩いた。


「祐介君、おそーい!」

麻里の声が響き渡る。祐介は肩で息をして膝に手をついているが、麻里は少し息が上がった程度だ。汗で照らされたその無邪気な笑顔が刺さるように胸に響いた。


「……くそ、女の子に負けるなんて……」

同学年の中でも一番背が高い祐介は、なぜか足が遅い。祐介は悔しさを噛み締めながら膝に手をついて肩で息をした。その様子を見た守がすかさず口を挟む。


「おいおい、祐介おそーい!女子に追いつかれてやんの!」

ジャングルジムの上で守は麻里の真似をして大声で笑う。その態度がさらに祐介を苛立たせた。


「お前、黙ってろよ!」

祐介が顔を真っ赤にして叫ぶと、守はケラケラ笑いながら遠くへ駆けていく。


祐介は膝に手をつきながら、ゼーゼーと荒い息を吐いていた。肩越しに麻里の笑い声が遠ざかっていくのが分かる。悔しさがじわじわと胸に広がる中、彼の視界にポニーテールを揺らしながら近づいてくる梨華の姿が映った。


「祐介、大丈夫?」

彼女は明るく笑いながら祐介の肩を軽く叩いた。Tシャツの袖をまくり上げ、短パンから覗く足を軽やかに動かしている姿は、見るからに活発そうだった。


「まだ鬼ごっこは終わってないよ!」

梨華が言ったその瞬間、祐介の胸に再び火がついた。


「……そっか、まだ終わってないか。」

祐介は勢いよく顔を上げると、梨華の後ろ姿を見据えた。


「よし、次は梨華だ!」

そう叫びながら、祐介は梨華を追いかけ始めた。だが、彼女は軽快な足取りでさっと距離を取る。目の前で揺れるポニーテールは、文字通りまるで駿馬の尻尾のようだ。


「こっちだよー!」

梨華は振り返りながら、余裕たっぷりに笑顔を見せる。祐介が必死で足を動かしても、追いつくどころかむしろ距離が開いていく。


「待てって……くそっ!」

祐介は息を切らしながら全力で手を伸ばしたが、次の瞬間、足がもつれた。


「うわっ!」

砂地でバランスを崩し、前のめりに倒れる。勢いで両腕と膝に痛みが走った。


「いってぇ……」

祐介は砂まみれになりながら顔を上げる。その時、後ろから聞こえてきたのは守の大きな笑い声だった。


「おいおい、祐介!全然追いつけてないじゃん!」

守は腹を抱えて爆笑しながら、祐介の周りをぴょんぴょん跳ねるように動き回る。


「ほらほら、もう一回走れよー!できるもんならなぁ!」

守は挑発するように言いながら、わざとらしく足を軽く動かして見せる。


「……うるせえ!」

祐介は悔しさを隠しきれず、歯を食いしばった。その様子を見ていた梨華と麻里が心配そうに駆け寄る。


「祐介、大丈夫?」

梨華がしゃがみ込んで手を差し伸べる。だが、その手を振り払うように祐介は立ち上がり、守をじっと睨んだ。


「おい、あんまり調子に乗るなよ……!」

祐介は守の胸を両手で突き飛ばした。守はよろけて砂場に尻餅をついた。一瞬キョトンとした後、すぐに顔を真っ赤にして祐介に掴みかかる。


「なんだと!?やんのかよノッポ、コラ!お前みたいにデカくて能無しをなんて呼ぶか知ってるか?ウドの大木って言うんだよ!そっか、根を生やしてるからそんな足が遅いのか!」

「ぜってぇゆるさねぇからなお前!」

二人は怒りにまかせて胸ぐらを掴み合い、押し合い始めた。その場の空気がピリつき、梨華と麻里が慌てて止めに入ろうとする。


「やめて、二人とも!」

「祐介、守、ケンカはダメだよ!」


だが、その声が届く前に、小柄で坊主頭のメガネをかけた少年が二人の間に入った。


「おい、落ち着け。」


その少年を祐介は睨む。


「邪魔すんな、篤志!」


篤志と呼ばれた少年は、軽いため息をついた。そして、祐介の腕をさっと掴んだ。その瞬間、祐介の腕の力があっという間に抜け、篤志の手の動きに従って地面に倒された。


「痛っ!」

祐介が驚きの声を上げると、篤志は無表情で彼の肩を軽く押さえ、上にのしかかった。祐介は拘束から脱出を試みるが、体格でこちらが優っているはずなのに全く動けない。


「俺、合気道を10年やってんだ。無駄な抵抗はやめとけ。」


篤志は片手でメガネを上げながら静かに告げた。


「篤志君すごい…達人みたい。」

その場にいた全員が一瞬固まる。梨華が小声でぽつりと言った。


「……でも篤志君、私達まだ5歳だよね?」


篤志は肩をすくめて言う。

「そんなことより、暴力はダメだよ。」


「ぐっ…篤志も、暴力を今使ってんじゃねぇかよ!」

祐介は唇を噛み締めながら悔しそうに砂地を見つめた。


(鬼ごっこで女子に負けて、喧嘩でも負けて、そんな姿を女子に見られて、俺ってめちゃくちゃカッコ悪いじゃねぇかよ。)


祐介は心の中で小さく呟きながら、溢れそうになった涙を堪えた。唇を噛み締めその痛みに注意を向けることで、心の痛みから目を背けていた。


その瞬間、目に激痛が走った。何か大量の粒が顔面に当たったことだけは分かった。


「祐介、お前超ダッサ!」


拘束され動けない祐介に守が砂をかけてきたのだ。


「やめないか、守。暴力はダメだ。こういう時は一旦落ち着いて、相手の気持ちを考えることが大事なんだ。」

篤志が低い声で注意する。その声には普段の穏やかなトーンとは違う鋭さがあった。

守は一瞬動きを止めたものの、口を尖らせて言い返す。


「なんだよ、篤志。別に本気でケンカしてるわけじゃないしさ、冗談だろ?」


「本気で胸ぐら掴み合ってただろ。それとも、祐介じゃなくてお前の上に乗っかった方が良かったか?」

篤志は冷たく返した。その言葉に守がふてくされるように肩をすくめ、手を引っ込めた。


だが、祐介の中では、守に対する感情がぐつぐつと煮えたぎっていた。

「.....こいつ、殺してやりたい。」


胸の奥から湧き上がるその感情に自分でも驚いた。明確な殺意が守の笑顔を見ているだけで止められない。

「役立たず。」

「お前なんか、いない方がいい。」

「何のために生きてんだ?」

「どうせお前なんか何やっても無駄なんだよ。」

「何でこんなこともできないんだ?逆に何ならできる、言ってみろ。」


頭の中に、過去に浴びせられた罵詈雑言が次々とフラッシュバックする。これまでの人生で否定され続けた記憶が、祐介の心を深くえぐった。

「俺は......なんでこんなところにいるんだ。」

祐介は目をぎゅっと閉じ、体を震わせた。


その姿を見て、麻里が「先生を呼んでくる」と言って走り去った。

数分もしないうちに、若い女性の先生が駆けつけてきた。


「どうしたの、みんな!」


守は先生を見るなり、泣きそうな顔でその足元に抱き、甘えた声で先生を見上げた。

「先生、祐介君が俺にひどいことしようとしてきたんだよ!」


先生はしゃがみ、守は先生の胸に思いっきり顔をうずめた。先生は守の頭を撫でながら優しい声で言う。


「大丈夫よ、守君。ちゃんと話を聞くからね。」


その様子を見ていた篤志が、ふっとため息をつきながら祐介を押さえつけていた体をゆっくりと引いた。

「ほら、立てよ。」

祐介は篤志の動きで拘束が解かれたことに気づき、のろのろと体を起こした。顔中砂だらけで、目の端には涙が滲んでいる。

篤志はその様子に何も言わず、ただ祐介をじっと見つめていた。


裕介の方へ先生が近づいていく。彼女は裕介の前でしゃがみ込むと、その顔を覗き込んだ。


「祐介君、大丈夫?どうしてケンカしちゃったの?」


祐介は俯きながらぽつりと答える。


「......俺ばっかり鬼にされるのが嫌だったんだ......。」

「そっか、それは嫌だったね。でも、みんなで楽しく遊ぶためには、少しずつ譲り合うのも大事だよ」


その間、先生の左足に守はしがみつき、先生の足からはみ出した顔からは勝者の笑みを覗かせていた。


祐介はしぶしぶ頷いたものの、先生の言葉はほとんど耳から通り抜けていた。沸騰する頭の中には守への憎悪しかなく、先生を一歳見ずに守を睨みつけていた。


「二人とも、次やったらペナルティで強制退場ですよ。それと守、次ベタベタ触ってきたら蹴り飛ばすからな。」


先生の言葉に、祐介と守はビクッと肩を動かした。特に、油断していた守の驚き様は尋常では無かった。表情からは余裕が消え、肩を振るわせてすっかり怯えていた。守は先生の足から離れ、祐介に頭を下げた。


「祐介君、意地悪してごめんなさい。」


満面の笑みを浮かべた先生は祐介に話しかける。


「守君、よく言えました。祐介君も、許してくれる?」


穏やかな口調だった。その表情はまるで仮面をつけているかのように無機質な笑顔だった。祐介に微笑みかけ、まっすぐ見つめている。しかし、その瞳は冷め切っていた。

祐介は背筋が凍りつくのを感じた。


「は、はい、すみません、もう二度しません。」


守への怒りの炎は、先生の笑顔ですっかり消火されてしまった。


梨華と麻里は、お互い手を繋いで少し離れたところから不安そうに見守っている。


篤志は先生の動きをじっと観察していたが、その動きを察知したのか先生は篤志の方へ顔を上げた。篤志は目をそらすように視線を逸らすと、何も言わずにその場を立ち去った。


---


カーン、カーン……と鐘の音が空に響いた。

屋外で遊んでいた子ども達が一斉に立ち止まり、耳を傾けた。


「みんな、お昼の時間ですよー!」

先生の呼びかける声が園庭に響き、祐介達の沈黙を破った。


「ご飯の時間だって!行こっ!」

「うわー、やっと食べられる!」


守は無言で駆け出し下駄箱に群がる園児達に紛れていった。そして、梨華と麻里は心配そうに振り返る気配を察し、祐介は水道の蛇口の元へ走った。


何もかも、こんな記憶すらも、流れ落ちてしまえば良いのに。


ズボンの裾やシャツについた砂をはたき落としていた。顔や腕に残った土埃も水道で洗い流したものの、指の隙間にまだざらつきが残っているような気がした。顔を濡れたハンカチで拭きながら、さっきのことを思い返す。


守を突き飛ばした手の感触、篤志に地面に組み倒された感覚。そして、守のあの笑い声。梨華と麻里の哀れみの目線。


「最悪だ……」


ほとんどの園児が教室に入ったことを確認して、祐介はトボトボとみんなの後ろをついていった。


「お腹空いたー!」

守の元気な声とともに、何人かの笑い声が下駄箱まで聞こえてきた。あのやろう、もうさっきのことを忘れてやがる。守の笑顔を見るとはらわたが煮え繰り返りそうだった。


廊下に入ると、外とは違う温かい空気が体を包み込んだ。木の床が足元で軽く軋む感覚も心地よい。梨華が先に走り、食事が準備されたテーブルを見つけて「こっちだよ!」と声を上げる。


祐介はみんなの楽しげな背中を眺めながら、そっと息を吐いた。自分もその輪に入っているような、けれどどこか遠巻きに見ているような気持ちだった。


祐介はいつものメンバーが集まっているテーブルから少し離れた席にそっと腰を下ろした。目立ちたくない。今は誰とも話したくない。梨華が誘ってくれた定位置ではなく、教室の端の席を選び腰掛けた。梨華は何か言いたそうにした後、祐介を呼ぶために挙げていた手をおろし、椅子に座った。いつも元気にピコピコと揺れていた彼女のポニーテールは、心なしかシュンとして見えた。俯いた梨華の姿を横目で見て、ズキンと胸が痛んだが、目を合わせることもなく目の前のトレーに意識を向けた。


室内には、食事の準備が整った香りが漂っている。お味噌汁の優しい匂いが鼻をくすぐり、祐介はふと自分の空っぽのお腹を意識した。

でも、口の中にまだ砂が残っている感覚がして、少し食べるのが嫌な気持ちにもなる。


定位置から外れた場所に座って気づいたが、目の前には初めて見る暗そうな男の子が一人で座っていた。

ぼさぼさの髪とよれた灰色のTシャツ、そして何より、子供とは思えないくらい虚ろな目をしていた。


(いつも教室の隅っこで一人絵を描いている…えーと、誰だっけ。確か名前は、大輔。)


大輔はフォークを手にしているのに、その手はピクリとも動かず、ご飯の容器をただ見つめている。その様子が少し、いやかなり不気味に見えた。しかし今更席を変えるのも大輔が可哀想だ。何より、みんなと離れることを選んだのは祐介の判断だ。


「いただきます、言ったら始めますよー!」

先生が手を叩き、全員が椅子に座り始める音が室内に響いた。鐘の音が消えた昼の時間が、ゆっくりと始まろうとしていた。


祐介はそっと自分のトレーに視線を戻した。プラスチックのトレーにはいつもと同じ給食が並んでいる。外はさっくり中はふわふわの焼き魚にほのかに甘い煮物、ご飯、そして味噌汁。少し前なら普通に美味しいと思えたはずの食事だ。


でも、口に運ぶたびに、砂のざらざらした感触が歯の間に残っているのを感じた。

何度水で口をすすいでも、砂はまだそこにある気がする。


「……くそっ、食えたもんじゃない」


祐介は苛立ちを抑えながらご飯を掻き込んだが、どうにも美味しいと思えない。目の前の大輔をちらりと見ると、彼もほとんど手をつけていないようだった。


「食べないの?」

祐介がぼそっと尋ねると、大輔は少しだけ顔を上げた。

やつれた顔、深いクマ、そして空っぽの瞳。人生に絶望した中年のような表情を見て一瞬呼吸を止めてしまった。


「……何も感じないんだ」

大輔は、力なく答えた。

「味もしないし、別にお腹が空いてるとも思わない。ただ、食べる意味が分からないんだよ」


「そっか…。」


祐介は返事に困り、視線を落とした。

味がしない。

それは今の祐介なら、少しだけ分かる気がした。


「美味いー!今日もここの給食は最高だ!おかわりおかわり!!」


守は馬鹿みたいにはしゃぎながら余った味噌汁や煮物を自分の器に注ぎ足していた。


守の大きな声は祐介の神経を逆撫でした。更にご飯が不味くなったように感じた。だが、その一方で少し守が羨ましくなった。


「あーやって何も考えずに生きてるやつが結局幸せそうなんだよな。」


「ふっ。」


相槌を期待していなかったが、大輔から返答があった。驚いた祐介が顔をあげると、大輔は力なく笑っていたがその瞳は先ほどと違い光が宿っていた。


「あんな風にピエロみたいに振る舞って自分を偽らないと幸せになれないなら、俺は幸せなんて要らないや。」


その笑みは、喜びとも皮肉とも取れない不思議なものだった。


「守が、偽っている?」


「祐介はあいつと一緒に居るのに分からないのか?元気なキャラを取り繕ってお調子者枠を勝ち取るのに必死じゃないか。」


(そう、なのかな。)


祐介はそれ以上何も言わず、ご飯をスプーンでつつき続けた。

守について考えることすらアホらしい。祐介は思考を放棄して、砂を噛まないようにと願いながら咀嚼に集中した。食べることにも、話すことにも、どうにも身が入らない昼食の時間だった。


少し離れた席では、いつものメンバーから祐介を除いた篤志、守、梨華、麻里の四人がご飯を食べていた。篤志が箸を器用に使い、焼き魚を一口食べた後、満足げに目を細めた。

「うまいなぁ……」

彼は小さくつぶやきながら、次々と箸を動かしていく。その表情はどこかしみじみとしていて、食事を噛み締めるように楽しんでいるようだった。


「歯があるって、こんなに幸せなことなんだな……」

ふと、篤志が漏らした言葉に祐介が顔を上げると、隣で守がケラケラと笑い出した。


「なんだよそれ!普通歯じゃなくてご飯の美味しさについて喋るだろ。けど、最近歯が抜けたから硬いもん食えないんだよね、俺は!」

守は自分の前歯を指差して、どや顔をする。


「そういう意味で言ったんじゃ無いんだけどな。」


守、梨華、麻里は篤志の言葉を理解できず目を丸くする。


「じゃあ、どういう意味で歯の話をしたの?」


「いや、いいんだ。とにかく、歯がないからって、おかず噛まずに丸呑みすんなよな。喉が詰まったり、消化しきれなくてお腹壊しても知らないぞ。」

と篤志が苦笑すると、守は「平気平気!」と肩をすくめ、勢いよく味噌汁を口に運んだ。


隣の席では、麻里が煮物をつまんで口に入れたところだった。柔らかく煮込まれた大根に箸をつけ、ほっとしたようにため息をつく。

「煮物、美味しいなぁ……。ねえ、今日のデザートって、おはぎか羊羹はないのかなぁ……。」


その一言に、守が反応した。

「おはぎと羊羹が好きとかおばあちゃんかよ!そんなお菓子が出るわけないだろ!」

麻里はむっとした表情で守を睨む。

「なんでよ。甘いものは心を癒すんだから、何歳だろうがおはぎが好きでもいいでしょ?」


「いやいや、普通の子供はゼリーとかプリンとか言うだろ!」

守が肩を震わせながら笑うと、麻里はふくれっ面をして箸を置いた。


「じゃあ、子供の守は今後おはぎ禁止ね!おはぎと羊羹が給食に出たら全部私にちょうだい!」

その一言に、篤志まで吹き出してしまい、四人は笑いながら箸を動かした。


昼食が終わり、教室には穏やかな音楽が流れていた。先生の指示で、園児達はそれぞれ自分の布団を敷き、寝る準備をしていた。薄暗くなった部屋の中、麻里は自分の布団を整え、足早にその中に潜り込んだ。


すると、後ろから守がぴょんと飛び込むように麻里の布団に入ってきた。

「寒いから一緒の布団に入ろうよ!」

守はにやにやしながら麻里にくっつこうとする。


「や、やだ!狭いじゃん!私の布団から出てってよ!」

麻里は顔を真っ赤にして、半泣きになりながら守を押しのけようとするが、守は布団にくるまり、ますます動こうとしない。


「いいじゃん、ちょっとぐらい。あったかいしさ!」

「ほんとにやだ!出てって!」


麻里の抗議の声が大きくなる中、隣で布団を敷いていた梨華が面倒そうに顔を上げた。

「じゃあ、守。私の布団で一緒に寝る?」

梨華は静かにしてほしそうな目で守を見た。


「お!ほんと?いいの?」

守は嬉しそうに飛び上がり、麻里の布団から抜け出して梨華の布団に潜り込んだ。


梨華は布団の端に体を寄せ、守に少し距離を置いたが、すぐに守の体温が右肩に伝わってきた。ちょっと熱いな、と思ったその瞬間、守が鼻を梨華の肩に押しつけて匂いを嗅いだ。


「梨華、いい匂いだなー」

その言葉に梨華は眉をひそめたが、特に何も言わず、目を閉じようとした。


しかし次の瞬間、守の右手が梨華のパジャマの裾に滑り込み、冷たい指先が彼女のお腹を撫でるように動き始めた。

「え、ちょっと……」

梨華が戸惑う間もなく、守の手はさらに上へと進んだ。


「……やめて!」

突然の嫌悪感に突き動かされ、梨華は布団から守を力いっぱい突き飛ばした。


「な、なにすんだよ!」

守が転がるように床へ出ると、その物音に先生が駆け寄ってきた。


「どうしたの?」

先生は布団の上に座り込む梨華と、慌てて自分の布団に戻り、たぬき寝入りを始める守を見比べた。


震える梨華は何も言わず、先生にしがみついた。

「大丈夫、大丈夫よ」

先生は梨華を優しく抱きしめ、その頭を撫でた。


「守君、ちゃんと寝てるの?」

先生の問いかけに守は目を閉じたまま、規則正しい寝息を立ててみせる。先生は溜息をつきながら梨華を落ち着かせ、そっと布団へと戻した。


梨華は布団の中で縮こまり、冷たくなった手をぎゅっと握りしめた。守の行動の気持ち悪さが頭から離れず、目を閉じても眠れる気がしなかった。


静まり返った教室には、園児達がそれぞれ布団の中に横たわっていた。薄暗い光が窓から差し込み、カーテンが静かに揺れている。誰もが昼食後の疲れを癒すように目を閉じていた。


麻里は隣の布団で仰向けになったまま、天井をぼんやりと見つめていた。ふと、先生に向かって手を挙げるように顔を向けた。

「ねぇ先生、今日はお昼ご飯食べずにお昼寝するの?」


その場でまだ起きていた全員が、ピタッと一瞬動きを止めた。


「……麻里ちゃん、ご飯はもう食べたでしょ?」

先生は微笑みながら麻里のそばに歩み寄り、その三つ編みを優しく撫でた。

「さっきみんなで食べたじゃない?ね?」


麻里は何も答えず、ふわっと微笑んで目を閉じた。しかし、その表情にはどこか違和感があった。まるで何かを忘れてしまったような、遠くを見つめる目つきだった。


「そろそろ隠すのも限界か。」


先生の呟きに祐介は耳を傾けていた。


祐介は布団の中からその様子をぼんやりと見ていた。隣では篤志が少し身を起こし、眉をひそめている。

「……なんか、変じゃないか?」

篤志が小声で呟く。


「そうだよな……。」

祐介も不安げに答えた。


その時、先生が教室の中央でゆっくり立ち上がった。

「さあ、みんなお昼寝の時間よ。しっかり休んで、元気いっぱいになりましょうね。」

先生の声は穏やかで優しい。しかしその背筋を伸ばした姿には、何か重たい影があるように感じられた。


先生は教室のドアに向かって歩き出し、そのまま静かにドアを開けた。ふと立ち止まると、こちらに背を向けたまま低く呟いた。


「……余計な勘ぐりはやめなさい。この幼稚園に居たいのなら。」


それは明確な警告だった。闇の中で先生の目だけが肉食動物のように爛々と光っていた。


そして、ドアがそっと閉まる音が響き、先生は姿を消した。


祐介は布団の中で身を縮めた。全身が緊張し、手足が震えているのがわかる。麻里の言葉、先生の冷たい一言。これ以上深く考えてはいけない。だが、気になってしかたない。何か底知れぬ恐ろしいものを感じた。


布団の中で祐介は声を出せないまま、目を固く閉じた。暖かいはずの布団が、急に冷たく感じられた。

第二章 楽園の崩壊


雨音が窓を叩き、空は一層暗さを増していた。お昼寝が終わった後、教室には子ども達の声が弾けるように響いていた。外で遊べない代わりに、みんな思い思いの遊びに興じている。


「お絵描きしようよ!」

梨華の元気な声が響く。麻里と祐介、篤志も賛同し、机の上に画用紙とクレヨンを並べ始めた。鮮やかな色彩が手元で踊り、子ども達の絵が次々と形を成していく。


祐介がちらりと教室の隅に目をやると、大輔が一人ぽつんと椅子に座っていた。俯き、じっと机に置かれた紙を見つめている。


「なあ、大輔も一緒にやらないか?」

祐介が声をかけると、大輔は短く首を横に振った。


「そっか……」

断られた祐介は少し寂しげだったが、それ以上は何も言わずに戻った。


机の上にクレヨンや色鉛筆が散らばる中、麻里が熱心に画用紙へ向かっていた。


彼女の手元には、少し古めかしい風景が描かれていく。分厚いフレームのブラウン管テレビ。その前にはちゃぶ台が置かれ、家族が笑顔で座っている。手前には湯気の立つ鍋。祖父母と思われる白髪の老夫婦がニコニコと微笑み、両親らしき大人達は湯飲みを片手に談笑している。


「できた!」麻里は満足そうに画用紙を掲げた。


「これ、何描いてるの?」祐介が顔を覗き込みながら聞く。


「一家団欒!」麻里は得意げに答える。


祐介は眉をひそめた。


「……なんか全体的に古くない?こんなテレビ、今じゃ見ないし、ちゃぶ台なんて使ってる家もほとんどないでしょ。」


その言葉に、麻里はクレヨンを持った手を止め、少しむっとした表情で振り返った。


「でも、私の家はこんな感じだよ。」


祐介は口を開きかけたが、言葉を飲み込む。麻里の真剣な目が嘘をついていないことを物語っていた。


「懐かしいな……。」


篤志がふと呟いた。彼の目は遠くを見ているようだった。


「こんな風景、俺も昔はよく見たよ。ちゃぶ台を囲んで、鍋をつつきながら家族で話す時間って、ほんと大事だった。」


その静かな言葉に、麻里が嬉しそうに頷く。


「でしょ?あの時の雰囲気がすごく好きだったの。みんなでご飯食べて、テレビ見て、おばあちゃんがおせんべいとかくれたりして。」


篤志の顔に穏やかな微笑みが浮かぶ。


「麻里ちゃんの絵、いいよな。……俺達、大事なもん忘れちゃってるのかもな。」


一瞬、教室に静けさが訪れた。窓の外では雨が小さく音を立てている。


「でもさ。」祐介がぽつりと呟く。「そういうの、ほんとに今でもあるの?」


麻里は困ったように笑った。


「どうだろうね。でも、私の記憶にはちゃんとあるよ。」


祐介は少し複雑な表情で画用紙に描かれた風景を見つめた。昭和の香りが漂う一家団欒の絵は、どこか温かく、そして少し切なかった。


少し経ったころ、梨華がふと立ち上がり、大輔の机を覗き込んだ。


「わあ……すごい!」

その声に釣られるように、麻里も祐介も集まってきた。


大輔が描いていたのは、どこか切なさを帯びた情景の数々だった。

曇り空からのぞく一筋の晴れ間、その下に咲く一輪の花。

片付けられていない砂場のスコップ。

黄昏時の田舎の電柱と田園風景。

道端にぽつんと捨てられた片方だけの靴下。


絵はどれも見事なほど上手だったが、同時に胸を締めつけるような哀愁を漂わせていた。


「すごいね、大輔君!」

麻里が感嘆の声をあげると、梨華も目を輝かせた。

「本当!こんなにきれいに描けるなんて!」


祐介も感心して頷く。

「上手だな。こんなの俺には描けないよ。」


大輔はその言葉に明らかに動揺し、顔を赤くした。

「べ、別に……普通だし……」

俯きながらつぶやく大輔の耳は真っ赤になっていた。


「は?何がすごいだよ。」

他の子と遊んでいた守は、もてはやされる大輔を面白くないと思ったのか突っかかってきた。突然声を上げ、机に肘をついて睨みつけた。

「こんなの、ただの落書きじゃん!」


その言葉に、場の空気がぴんと張り詰める。

「そんなことない、大輔の絵は上手い。素直に認めろよ。守、お前が落書きだと馬鹿にしたこの絵以上の作品がお前に描けるのか?」

篤志が冷静に言い放った。


「はぁ?俺の絵はめちゃくちゃ上手いし、芸術の歴史を変えるし。」


篤志の眉がぴくりと動いた。

「お前に芸術の何が分かる。」


守は篤志を睨みつけた後、鼻で笑いながら口角を吊り上げた。


「そっか、篤志は大輔に嫉妬してるのか。だって篤志の絵が一番下手だもんな!」

守が笑いながら言うと、普段冷静な篤志の顔が一瞬で険しくなった。祐介達は咄嗟に顔を背けた。篤志の手には一枚の画用紙が握られている。その絵は、正直幼稚園児の中でも一際珍妙であると言わざるを得なかった。篤志はみんなのリーダー的存在で、勉強も運動もできる。しかし、芸術的なセンスは皆無だった。


あの底知れぬ先生でさえ、「篤志君は…前衛的な、独創的な絵を描くね!」と言わしめていたことがある。祐介や梨華達は篤志を応援したいが、正直なところ守の言うことにぐうの音も出ない。


「確かに、篤志の絵は現代アート過ぎて俺には理解できないわ、ごめんごめん!」


ヘラヘラと笑う守に対し、篤志は拳を握りしめ肩を震わせていた。篤志のメガネは曇り、その坊主頭から湯気が出ているように見えた。


「おいおいどうした篤志君よぉ。もしかして暴力を行使しようとしてる?お前今日言ってたよな、暴力はダメで、こういうときは、相手の気持ちを考えることが大事なんだってさぁ!?」


挑発する守に対し、篤志は堪忍袋の緒が切れた。


「歳下風情が……舐めた口を聞くなよ!」

篤志が立ち上がり、声を荒らげた。

「俺は絵画教室に15年通っていたんだぞ!妻も俺の作品を喜んで飾ってくれた!俺を慕う部下達も、みんな俺に上手ですねと言っていたんだ!俺は72歳だ!お前らみんなもっと歳上を敬え!」


篤志は急に早口で捲し立てる。声には激情と、どこか滲むような哀しみが込められていた。子どもらしい姿の中から漏れ出す大人の言葉。その異様さに、教室の中が静まり返る。


「な、なんだよそれ……お前もしかして、中身は大人なのか?」

守がたじろぎながら呟いた。


祐介が、息を呑みながら篤志を見た。

そしてぽつりと呟く。

「……篤志、お前も俺と同じだったのか。」


篤志が吐き出した言葉で周囲の「子供」達は察した。篤志の中身が老人であることを。祐介のわ中身は子供では無いと言うことを。


その瞬間、窓の外で雷が鳴り響いた。

激しい轟音が教室全体を震わせる。祐介は思わず床に手をつき、声も出せないまま立ち尽くしていた。篤志の瞳が鋭く揺れ動き、守は椅子ごと後ろに飛びのく。


雨音が一層激しさを増し、不気味な静けさが教室に満ちた。


雷鳴が遠ざかり、再び雨音だけが静かに窓を叩く教室。

篤志は肩で息をしながら座り直し、視線を床に落としていた。誰も動けず、静寂だけが満ちていた。

口火を切ったのは梨華だった。


「篤志君……いや、篤志さんって、本当はどんな人間なの?」


その言葉に篤志は顔を上げた。周りの視線が一斉に彼に集まる。

一瞬、ためらうように目を伏せた篤志だったが、やがて意を決したように話し始めた。


「俺は……昔、会社を経営していた。」

その声は子供のものとは思えないほど低く、重い。

「だが、長年の無理がたたったんだろうな。体を壊して今や末期の癌だよ。ターミナルケアで、病院のベッドに寝ているだけの毎日だった。」


教室がしんと静まり返る。梨華も麻里も、守ですら言葉を失っていた。篤志は苦い笑みを浮かべる。


「……妻は先に死んだ。息子夫婦が俺の面倒を見てくれることになったが、正直、手に負えなかったんだろうな。仮想空間に放り込むほうが楽だって、そう判断したらしい。」

唇を噛むようにして続ける。


「健康な体で走り回れるなら、歯で硬いものを噛んで味わえる喜びがあるならまだありがたいと思ってたさ。だが、こうして子供の姿になってまで、俺は何をしてるんだろうな……。」

声がかすれ、目を伏せた。遠くを見るような目をしていた篤志の表情に、梨華は自然と声をかけた。


「それが……あなたなんだね。」


篤志は顔を上げた。梨華の目は真っ直ぐだった。篤志がその視線を受け止めると、梨華は小さく息を吸い、今度は自分が話し始めた。


「じゃあ……私も話すよ。」

祐介達が驚いた顔で梨華を見たが、梨華は意を決した表情だった。


「私はね、28歳の主婦なの。」


教室がまたざわめきかけたが、梨華の表情に押されるように、誰も声を出せなかった。


「娘がいるの。5歳の子。でも最近、あの子の気持ちが分からなくなってきて……どうやって接すればいいのか、自信がなくなった。」

梨華の声とポニーテールは震えていたが、どこか温かさも含んでいた。


「それで、たまたまこの幼稚園を見つけて参加したの。子供の視点を体験すれば、あの子のことをもっと分かってあげられるんじゃないかって思ったから。」


祐介や麻里が驚いた顔をしている中、篤志は静かにうなずいた。

「なるほど……自分の子供のためか。」


「ええ。」


梨華は少し微笑んだ。


「だから、篤志さんの気持ち、少し分かる気がする。健康的な体を味わえているだけでもありがたいって、そう思ってたんですよね?」


篤志は目を細めたまま無言で頷いた。梨華の真剣な眼差しが、彼の心に触れたのかもしれない。


雨が窓を叩き続ける中、祐介は重く口を開いた。


「俺さ……ブラック企業で働いてたんだ。」


誰も声を出さず、祐介の次の言葉を待っていた。

「毎日終電で帰って、上司には怒鳴られて、ノルマは終わらない。……気づいたら、仕事に行くのが怖くなって、朝起きるのすら嫌になった。」


彼は拳を握りしめて続ける。


「そんな時に、この幼稚園、【楽園】を知ったんだ。ここなら、子供の姿で、全部忘れて逃げられるって。……だから、俺、ここに来たんだよ。」


その言葉が教室に響いた瞬間、空気が揺れたようだった。梨華も篤志も黙り込む。だが、ふいに麻里が頭を抱えた。


「麻里ちゃん?」梨華が慌てて声をかける。


「わたし……」麻里の声は震えていた。「わたし、娘夫婦と一緒に住んでいて……それで……」

眉間に皺を寄せ、何かを思い出そうとするが、途中で途切れる。


「それで……どうしても思い出せない……!」


教室がざわめく中、ガラリとドアが開いた。


「ついにみんな気づいてしまったみたいね。」


先生だった。優しげな表情を貼り付けたまま、教室に足を踏み入れる。


「麻里ちゃん、思い出せないみたいだから、私が代わりに教えてあげるわ。」


教室中が凍りついた。先生は微笑みながら麻里に向き直る。


「あなたは、84歳の認知症を患った女性よ。」


「……え?」


麻里の声が小さく震えた。


「娘夫婦と暮らしているのは本当。でも、現実ではね、あなたの認知症が進んでいて、介護をする時に暴れることも多かったのよ。」


先生の声は柔らかいが、その内容は冷酷だった。


「だから、この仮想空間で子供として過ごしてもらったほうが、現実世界の介護も楽になるし、何より認知機能を鍛えられるの。」


麻里の顔が青ざめていく。


「嘘だ……。」


守がかすれた声で呟いた。


「麻里が……おばあちゃんだったのかよ!?」


守の目が麻里に向けられる。震える手が彼の胸を叩いていた。


「俺は……結構、本気で好きになってたのに……!」

声が裏返り、顔を隠すように両手で覆う。


麻里は唇を噛み、涙を浮かべた目でうつむいた。


「わたし……そんな……。」


教室の全員が硬直する中、祐介はただ黙って座り込んでいた。彼の耳には、雨音しか聞こえなかった。


「これが、俺達の現実なのか……?」


—-


「ははは、ざまぁないな。」

大輔が嘲笑を浮かべながら、無情な声を投げかける。

「結局ここにいるのは、社会の落ちこぼれと現実から逃げた連中ばかりなんだよ。…俺も含めてな。」


その言葉は、仮想空間の全員に突き刺さった。


誰かが苦笑しながら呟いた。

「皮肉なもんだな。本当の子供がいない幼稚園なんて。俺は子供向け商品の開発にあたり、子供の気持ちになろうとしてここに来たんだが、肝心の子供の声が聞けなきゃ意味がない。」


気がついたら、子供が一人光の粒となって消え始めた。シュンッと鋭い音が鳴り、教室の中に子供一人分の空間が生まれた。おそらくログアウトしたのだろう。


「もう、終わりにしましょう。」

麻里がぽつりと呟く。その声に誘われるように、誰もが仮想空間からの退室を決断した。


「梨華ちゃん、少しの間だけだったけど、一緒に遊べて楽しかったわ。また別のサーバーでデジタル幼稚園にログインするかもしれないから、その時はよろしくね。」


「麻里ちゃん、私こそ楽しかったわ。」


麻里は梨華に声をかけると、一瞬でその姿が消えた。


「お前ら、人生は一瞬だ。あまり無駄に過ごすんじゃ無いぞ。健康にも気をつけろ。じゃないと、ワシみたいになるからな。」


そう言って篤志はメニューウインドウを開き、ログアウトボタンを押した。


梨華はログアウトする直前、祐介に声をかけた。

「祐介君、現実に帰ったら、少しでも自由を見つけられるといいね。」

しかし、祐介はうつろな目で首を振った。


「無理だよ。戻ってもまた地獄の毎日だ。だったら、ここにいた方がいい。」

彼の声は諦めに満ちていた。


それ以上かける言葉が見つからない梨華は静かにログアウトのボタンを押した。仮想空間のカラフルな光景が白く薄れていく。


祐介、大輔、守を残して、彼らは、現実の体へと戻っていった。


—-


ログアウトした梨華は、小さな部屋のベッドに横たわっていた。ヘッドセットを外し、しばらく天井を見つめる。


「子供の気持ちか……。」

自分が仮想空間で得た感覚や会話が、頭の中を巡る。自分が忘れかけていた「無邪気さ」や「純粋な楽しみ」を思い出したのだ。


窓の外を見ると空は赤みがかっていた。梨華は寝室から出て、実の娘である美咲に声をかけた。

「ねえ、美咲。今日は寝る前にどんな本を読みたい?」


「えっママ、今日は本読んでくれるの?」

美咲が飛び跳ねポニーテールが激しく上下する。子犬が尻尾を振っているようで、梨華は自然と口角を緩めながら美咲を抱きしめた。


「うん、ごめんね、最近読み聞かせできなくて。」


「ううん、いいの!ママいつも大変だから。だからね、本を読んでくれるの嬉しい!これ読んで欲しい!」


差し出された絵本を手に取った梨華は苦笑いしながら愛娘の頬を撫でる。


「うーん、まずは晩御飯を作ってからね。」


「ヤダ!いまが良い!ご飯我慢できる!読んで!」


「そう、分かったわ。パパもお仕事からもうすぐ帰ってくるみたいだから、悪いけど今日はパパにご飯お願いしようかしら。」


「やった!パパの卵焼きママより美味しい。」


「こらっ、そんなこと言うなら本読みませんよー。」


「えー!ごめんなさい、ヤダ、ママ読んで!」


「「きゃはははは」」


親子は目を合わせた後、声を出して笑った。美咲とこんなに話したのはいつぶりだろう。


梨華は初めて、娘と同じ目線で向き合い、抱きしめながら心から笑った。

「これからはちゃんと向き合うよ。」

そう心に誓い、彼女は現実での新しい一歩を踏み出した。


—--


篤志はログアウト後、ベッドの上に横たわったまま微笑んでいた。彼の身体は痩せ細り、呼吸も弱々しい。しかし、その表情には満足感があった。


「ああ、よかったな……。久しぶりに、体を動かせて……。」

誰もいない部屋で独り言を呟く。仮想空間での「健康な身体」を通じて、自分がどれほどのことを成し遂げ、どれほどの人生を生きてきたかを思い返していた。


「もうすぐそっちに行くからな。最後に、いい土産話が出来た…。惚れ直すぞ、きっと…。」


今は亡き妻を想いながら、その夜、篤志は静かに息を引き取った。彼の顔には穏やかな微笑みが残っていた。


—-


ログアウト後の麻里は、自分がどこにいるのかもわからなくなっていた。

「あれ、私は誰だっけ……?」


介護士がやってきてヘッドセットを外してくれたが、麻里は虚ろな目でその手元を見つめるだけだった。仮想空間での短い「若返りの時間」すらも、記憶の片隅に埋もれてしまう。


「もう一度……あそこに……。」

麻里はまた仮想空間に戻りたいと訴えた。彼女にとって、そこは失った青春を繰り返す唯一の場所だった。


「はいはい、麻里さん。ご飯とお風呂終わったらねー。」


介護士は麻里が握っていたヘッドセットを取り上げてベッドの隣にある机に置いた。


ヘッドセットの中の画面には「楽園」というアプリのアイコンがしばらく映し出されていたが、5分も経てばその液晶には暗闇が広がっていた。


—-


仮想空間の片隅、社畜として働き詰めだった祐介は、がらんとした砂場に一人腰を下ろしていた。彼の服は泥だらけ、手には小さなプラスチックのスコップが握られている。


「これが……自由か……。こんなところでしか自由がないなんて、結局不自由なままか。」

自嘲気味の笑顔を浮かべた後、祐介はスコップで砂をすくい上げ、ゆっくりと山を作っていた。


現実の世界で、彼の生活はまるで終わりの見えない迷路だった。朝から晩まで働き詰めで、上司に叱責され、取引先に頭を下げ、帰宅する頃にはもう日付が変わっている。それでも再び朝が来る。


だが、この仮想空間では違う。誰も彼を叱らない。誰も彼に責任を押し付けない。


祐介は砂場で静かに遊びながら、ぽつりと呟いた。

「僕、偉いでしょ……ちゃんとお山作れたよ……。」


その声には子供のような無邪気さがあったが、どこか哀しさも滲んでいた。


やがて、祐介は砂山の上にスコップを突き刺し、その上で寝転んだ。

「もう、全部嫌だ。ここでずっと遊んでいられたらいいのに……。けど、遊んでいるのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。」

彼の目から一筋の涙がこぼれる。それが砂に吸い込まれていく様子を見ながら、祐介は深くため息をついた。


現実に戻る選択をしなかった祐介は、仮想空間に留まった。かつて上司に怒鳴られ、同僚と競争し、顧客に詰められた記憶が脳裏をよぎるたびに、彼は深く砂に埋もれていくような感覚に襲われる。


このまま何日も現実から逃げていたらクビになるだろう。仮想空間で食欲は満たせるが、現実の体は栄養を補給できない。つまり、このまま放置していると祐介はゆっくりと衰弱死していくことになる。


「けど、もうそれでいいか。どうでもいいや。生きてても辛い。けど死ぬのも怖いし辛い。だったらこのまま緩やかにここで死のう。」


既に夜の帳が下りているが、舞台のスポットライトのように不自然に照らされた砂場で祐介は遊び続ける。忘れようとしても、数日前までの現実がフラッシュバックしてくる。


数日前、現実世界の祐介は薄暗い部屋の中、古びた椅子に腰掛けていた。テーブルの上にはコンビニで買った空の弁当容器と、飲みかけの各ビールが乱雑に散らばっている。手に持ったスマートデバイスの画面が青白い光を放ち、彼の疲れ切った顔を照らしていた。

「死ぬのも、簡単じゃないよな.....。」


祐介は俯きながら静かに呟いた。

これまで何度も死のうと考えた。誰もいない夜の河原でロープを手にし、首を品る準備をしたこともある。けれど、首にロープを巻き付けた瞬間、息が詰まる恐怖が勝ち、手が震えて止めてしまった。

ある日、彼は夜の川辺に立っていた。黒い水面をじっと見つめる。冷たい水に身を投げれば、すべてが終わる。それなのに、足がどうしても動かなかった。水の中で息が止まる苦しさを想像するだけで体が硬直し、一歩を踏み出すことができなかった。

最後に登ったビルの屋上では、夜風が吹く中、足元の景色を見下ろしながら泣き崩れた。足がすくみ、飛び降りる勇気なんてかけらもなかった。


「結局、死ぬこともできないんだ。中途半端だな俺は。情けないな......。」

祐介はそう思いながら、それでも生きている自分を憎んだ。

「けど......。」

本当は生きたいのだと、心の片隅で気づいていた。自分でもその感情が矛盾しているのは分かっていた。生きたい。でも生きるのは苦しい。それならいっそ、何も考えずに消えてしまえればいいのに、と。

そんな彼が目にしたのが、「デジタル幼稚園」の広告だった。

「人生に疲れたあなたへ。ここは第二の楽園。」

軽いタッチの文字が画面に映り、明るい幼稚園の風景が流れる。笑い声、カラフルな建物、楽しげな子供達。そこに苦しみはなさそうだった。

祐介はスマートデバイスをじっと見つめ、迷いながらも仮想空間へとアクセスした。


「もう疲れた。そろそろ、苦しい現実から逃げてもいいよな。」


彼はそう呟きながらゴーグルを装着した。

瞬間、目の前の景色は一変した。そこには青い空と緑の草原、そして無邪気な笑顔を浮かべる幼稚園児達が待っていた。

「ここなら......。」

彼は初めて、何かに救われたような気がした。ただ、彼のその「救い」は、いびつな形であったことに気づくのは、まだ先の話だった。


仮想空間の中で砂遊びに集中している祐介は完全に幼児化していた。仮想空間だから、肉体の疲労も感じない。スコップとバケツを使い、ただ砂場で何かを作り続ける。それが何なのか、自分でもわからない。ただ、彼はそれ以外にすることが思いつかなかった。


祐介は自分に向かって話しかけるように呟いた。

「ここでは、俺は、いや…僕は失敗しない。誰も僕を責めない……。」


しかし、どれだけ砂を掘り返しても、彼の心に残る空洞は埋まることはなかった。砂場のトンネルから覗く深淵が祐介のポッカリと穴が空いた祐介の心を映し出しているかのようだった。


—-


祐介と同様に、大輔もログアウトボタンを押すことができなかった。


「ここでいいや……。」

現実世界で直面する責任や期待に押し潰されそうな彼は、仮想空間の「安全な子供時代」に永住する道を選んだ。


大学受験や就職にも失敗した大輔は27歳で親のスネをかじって生きている。いわゆるニートというやつだ。


「ログアウトボタンを押して現実に戻っても、俺はとっくに現実からログアウトしてんだよ。ゲームオーバーしてんだよ、バカが。あいつらも結局俺を置いて消えやがって。」


だが、かつての仲間がいなくなった仮想空間は、色褪せたおもちゃ箱のように寂れていた。大輔は一人で積み木を積み、虚空に向かって独り言を呟き続けた。


単純作業を繰り返していたら、意識が朦朧として嫌な現実の記憶が流れ込んでくる。深夜に眠気と戦いながら観る映画のように、意識とは裏腹に走馬灯が脳内を駆け巡る。


狭い部屋の中、勉強机の上に無造作に積まれた参考書が薄暗い蛍光灯の下で影を落としていた。その中の一冊には「大学受験参考問題集」と書かれているが、表紙は薄汚れ、ほとんど触られていないことを物語っていた。


大輔はベッドの上で膝を抱えて縮こまっていた。スマートデバイスから流れる薄っぺらな音楽だけが、静寂を破っている。


「大学もダメ、就職もダメ……俺って、なんなんだろうな……。」


口をついて出たその言葉に、自分自身が少し引いた。弱音を吐くのも久しぶりだったが、それを聞く相手もいないのだと改めて感じたからだ。


家族との会話はもう何年もまともにしていない。母親は最近、大輔を見てもため息をつくだけだし、父親に至っては、顔を合わせるたびに「お前はいつまで家にいるんだ」と冷たく言い放つ。一歳下の弟は2年前結婚して、可愛い姪っ子を実家に連れてくるようになった。しかし、姪っ子の純真無垢な顔を見るたびに強烈な負の感情が大輔に襲いかかってくる。お前は良いよな、ただ生きてるだけで可愛がられて。焦燥、孤独、劣等、嫉妬。


「こんなところ、もう嫌だ……。」


だが、ここ以外に大輔の居場所は無い。家庭にも、社会にも、居場所なんて無い。


家の中にいるだけで、重苦しい空気がまとわりつくようだった。外に出れば、同世代の人間が自分よりも先に進んでいるのを嫌でも目にする。大学生活を楽しむ姿、スーツを着て働く姿は、どれも自分には遠い世界だ。息が詰まるような毎日にうんざりしながらも、活路を見出すために具体的に何をしたら良いかも分からない。今更行動し始めても遅いんじゃ無いか。真っ暗なトンネルの中で落とし穴にハマったような気分だった。


バイトをしても長続きせず、親に寄生し続けて27歳を過ぎた時、それが目に入った。


大輔はスマートデバイスを手に取り、そこに映る「デジタル幼稚園」の広告をじっと見つめた。


「ここなら……何か見つかるかもしれない。変われるかもしれない。」


そのキャッチコピーには「孤独なあなたに、温かい手を差し伸べます」と書かれていた。幼稚園児になれる仮想空間、他人と“遊ぶ”ことで自分を癒やせる世界。大輔にとって、その広告はまるで救いの手に見えた。


「別に……本当に楽しくなくてもいいんだよ。ここから逃げ出せるなら。」


自分に言い聞かせるように呟くと、大輔はゴーグルを装着した。家の中の鬱屈した現実が視界から消え、仮想空間のカラフルな世界が広がる。


そこには柔らかな声を持つAI幼稚園児達が笑顔で手を振っていて、周囲には青い空と色とりどりの花畑が広がっていた。


「ここなら……俺でも何か……。」


大輔はそっとその世界に足を踏み入れた。現実から逃げることを選んだその瞬間、彼はまたひとつ孤独を埋める方法を手に入れたと思った。


だが、その楽園もまた、彼にとっては幻影に過ぎないことを、彼はまだ知らなかった。


—-


積み木遊びに飽きた大輔は壁に背を預けながら、ぼんやりと宙を見つめていた。

「結局、また一人だ……。どこに行っても、俺はこうなんだ……。当たり前だよ、この積み木と違って、俺は何も積み上げて来ていない。空っぽなんだよ。」


大輔の頬を涙が伝い、積み木に小さなシミを3つ作った。


「ここなら異世界チート転生できると勘違いしてたのか?リセットできるとでも思ったのか?どれだけSSRの体になったとしても、中身がゴミのままだと宝の持ち腐れなんだよ。みんなから可愛がられる幼稚園児になっても、本質はみんなから嫌われる偏屈な皮肉屋であることには変わらないんだよ…。」


作りかけの積み木に体重を預け、作品を壊しながら地面に倒れた。床と体との間にある三角の積み木の角が大輔の腹部に鋭い痛みを与えた。だが、今はその痛みだけが、生を実感させてくれる唯一の刺激だった。


「へっ…この痛みも、所詮仮想空間で作られた仮初の痛みなのに、実在しない痛みに縋るしか無い俺ってなんなんだろうな。」


その声は虚ろで、生きることへの執着すら薄れているようだった。


一方、砂遊びに退屈し始めて、教室に戻った祐介は俯いたまま自分の手を握りしめていた。

「俺はどれだけ頑張っても、ダメなんだ。失敗ばかりで……もう、何もかも嫌になったよ……。」


大輔は祐介の独り言を聞き床からのっそりと上半身を持ち上げた。


(虚な目をした、俺みたいなやつが他にも居るじゃねえか。)


「祐介、お前は現実に帰らないのか?」


「向こうに帰る場所なんてないよ。強いて言うなら、ここが俺の帰る場所だ。ついでに言うと、土に還る場所になるかもな。」


その時、二人の耳に不意に優しい声が聞こえた。

「一人じゃないよ。」


二人が顔を上げると、目の前にはAI幼稚園児の「ひな」と「さくら」が立っていた。ひなはツインテールに着けたピンク色のリボンを揺らしながら、ニコニコと微笑んでいる。


「ここでは、誰も一人にならないんだよ。」


大輔は疑念の目を向けながら聞いた。

「……お前達、何なんだ?どうして俺らに構うんだよ。」


さくらが無邪気な声で答える。

「私達は、みんなを笑顔にするためにいるんだよ!一人で寂しいときは、ちゃんとそばにいるからね!」


その言葉に、大輔はしばらく黙り込んだ。やがて、うっすらと笑みを浮かべて呟く。

「……笑顔か……そんなの、いつ以来だったかな……。」


祐介も同じように微笑みながら、小さく頷いた。

「いや、大輔。お前お絵描きの時間結構笑顔になってたぞ。」


唖然とした大輔は、口角を緩める。


「そっか。そうだったかもしれない。そうだな……。なぁ祐介、お前がお絵描きを誘ってくれた時、実は俺、めちゃくちゃ嬉しかったんだ。ありがとう。俺も、少しだけ前を向いてみるよ……。」


二人はAI幼稚園児に手を引かれ、食堂の方へ向かって歩き出した。


実はその頃、守は別の部屋でAI幼稚園児「みく」と二人きりになっていた。


みくは明るい声で話しかけていた。

「ねえ、守君!何して遊ぶ?」


だが、守の目は不気味にぎらついていた。彼はその小さな手を取ろうとしながら、低い声で囁いた。

「麻里が居なくても、AI幼稚園児達が居るじゃないか。こいつらは俺好みの見た目のまま一生歳を取らない。最高じゃねえか。現実の女なんてクソだ。」


守はブツブツと呟き、そして勢い良く顔を上げた。守は、獣のような鋭い目つきと吊り上がった不気味な笑顔をみくに向けていた。


「……みくちゃん。君は、どうしてそんなに可愛いんだい……?もっと近くで、君のことを知りたいよ……。」


守は様々な仮想空間で痴漢行為を行い指名手配されていた異常性欲者であった。幼稚園児の疑似体験ができるなら、スカートめくりをしてもお咎めがないだろう。子供のいたずらの範疇で許してもらえるだろう。そう考えた守はデジタル幼稚園「楽園」にやって来たのだ。


(文字通りここは俺の楽園だ、そう思っていたのに、麻里のやろうクソババアだったじゃねえか。だがまあいい、AI幼稚園児ならどれだけ体を触っても合法だろ?だって人間じゃねぇんだから!)


よだれが出そうになるのを抑え、守は更に一歩みくに近づいた。


みくは首をかしげた。あどけないクリクリとした瞳が守を見ている。

「もっと近くって?」


「ゲヘヘ、これくらい近くだよ。」


守の手がみくの肩に触れたようとしたその瞬間


グシャアッ!


空のティッシュ箱を両足ジャンプで踏み潰したような、乾いた破砕音が部屋で響いた。

空気の壁のような、透明なバリアがみくと守の指先との間に出現した。守の勢い良く突き出された指はバリアに当たり、指先が血を出しながらあらぬ方向に折れ曲がったのだ。

「アッ、あぁぁぁぁぁぁ!?」


状況が上手く理解できていない守の、悲痛な叫び声がこだまする。


そして、警報音と共に部屋全体が真っ赤に点滅し始めた。


「危険行為を感知しました。」

AIの機械的な声が響き渡る。みくの表情は一変し、目が冷たく光り始めた。


「守君、そこで何をしているの?」


守が振り返ると、そこには先生が立っていた。鋭い眼光が守を射抜き、普段の優しい雰囲気は微塵もなかった。守は一瞬動きを止めたが、次の瞬間には子どもらしい無邪気な顔を作り、怯えたフリをして先生に駆け寄ろうとした。


「先生、僕、怖いよ.....!」

そのまま抱きつこうと手を伸ばしたが、先生の反応は予想を超えていた。

バシュッ!

先生の足はサッカー選手がシュートを決めるかのように、鋭く振り抜かれ、守の腹部に突き刺さった。体がくの字に折れ曲がった守はそのまま部屋の壁と言う名のゴールネットに激しく叩きつけられた。

「ぐあぁぁぁぁっ!」


床でのたうち回る守を見下ろしながら、先生が冷たく吐き捨てる。


「言ったよな。次ベタベタ触ってきたら蹴り飛ばすって。」


「あぐっあ、ぁぁぁ!痛いイタイイタイ!」


「そりゃ痛いだろうさ、お前の痛覚を現実の5倍にしてるんだから。今までお前が傷つけてきた女の子達の心の痛みを少しは味わえド変態。」


先生が冷酷に言い放った後、部屋のアラート音が無機質な女性の声に変わった。


「ユーザー『守』の脳波を解析中……不適切な意図を検出しました。緊急排除プロトコルを起動します。」


守は慌てて叫び出した。

「ち、違う!俺はまだ何もしてない!これは誤解だ!」


だが、AIは一切の猶予を与えなかった。守の周囲に光の壁が現れ、その輪が徐々に狭まっていく。


「即時ログアウトを実行します。再ログインは禁止されます。」


「はぁっ!?何だよそれ聞い」


守の姿は一瞬の間に消え失せ、彼がいた場所には静寂だけが残った。


みくは先生と手を繋ぎ、守がさっきまで居た空間に向けて言い放った。

「キモっ。何が『守る』よ。まず法律を守れ45歳独身フリーター。」


「みくちゃん、強制ログアウトしたあのバカにはもう聞こえてないわよ。」


「先生、私もそんなこと分かってる。ったく、最近のAIにも自我と人権があるっつーの。それか下心目的なら仮想空間の風俗に金払って行けよ。ここはそんな場所じゃないんだから。」


そしてみくは壁を見つめた。その視線の先、壁の向こうには、祐介と大輔の教室がある。


「あーゆー人達を助けるのがあたしらの役割だよ。」


「そうね、みくちゃん。よく出来ました。」


先生はみくの手を強く握り返した。


—-


守は仮想空間から突然弾き出されるようにして、自宅の椅子に倒れ込んだ。薄暗い部屋の中、目を開けると現実の冷たい空気が肌に触れ、全身を覆う汗の感覚が蘇る。


「あーぁぁあ!痛いー!イタイいたいitai ..。」


2分ほどうずくまっていただろうか。痛みが仮想空間で作り出された偽物であると気づき、守の呼吸が整い始めた。


「……何だよ、何だったんだよ、あれ……。」


頭を押さえながら起き上がった守は、仮想空間での出来事を思い返し、苛立ちと焦りを感じていた。AI幼稚園児に拒絶され、仮想空間から締め出されるなんて思いもしなかった。


しかし、その苛立ちはすぐに別のものに変わる。部屋の端に置いていたスマートデバイスが点滅を始め、不穏な音が鳴り響いた。画面を確認すると、そこには「法的調査中」という警告文が表示されている。


「えっ……これって、どういう……?」


守がデバイスを手に取ると、突然、ドアが激しく叩かれた。


「警察だ!開けろ!」


守の体が凍りつく。心臓が暴れるように鼓動し、逃げ場を探して視線を彷徨わせるが、狭い部屋には隠れる場所などなかった。


「待てよ、なんで警察が……!?」


叩く音はさらに激しくなり、声が低く命令的になる。

「強制的に開けるぞ!」


ドアが破られる音とともに、数人の警官が部屋に押し入った。守は混乱しながら後ずさるが、警官達は迷いなく彼を取り押さえる。


「待ってくれ!俺は何もしてない!」

守が必死に抵抗するが、警官の一人が冷たい声で告げる。


「あなたは仮想空間内での性的犯罪行為の現行犯として逮捕されます。」


守の顔が真っ青になる。

「な、なんでそんなことが分かるんだよ!仮想空間だぞ!現実じゃないだろ!」


警官は容赦なく説明を続ける。

「仮想空間内の行動はすべて記録されています。IPアドレス、声紋データ、歩行パターンなどから個人を特定する技術が適用され、あなたの行為は動かぬ証拠として保存されています。」


その言葉に、守は完全に崩れ落ちた。


「何でだよ。俺は人生で何にも良いことが無くて。ずっといじめられっ子で、親からも暴力を受けて、誰からも愛されなかった。だから、俺だけ楽園を作りたかった。俺はずっと奪われる側だった。だから今度は奪う側に回って何が悪い!?俺が俺は……ただ、遊びたかっただけなんだ……!」


「お前の楽園で笑っているのはお前だけじゃないのか?自分が不幸だからと言って他人を不幸にしていい理由にはならない。お前が自由に振る舞った結果、人を傷つけたのなら、その責任はお前が取らなくてはいけない。」


警官達は守の言葉に耳を貸さず、彼の腕に手錠をかける。守は抵抗する気力もなく、引きずられるようにして部屋を後にした。


外の空気はひどく冷たく感じられた。守の人生は、仮想空間での過ちによって完全に崩壊してしまったのだった。


彼の物語はそこで途絶えた。仮想空間という楽園は、甘い夢だけではなく、現実の苦い罠も孕んでいた。


—-


食堂で食事を終えた大輔と祐介も、守の排除の知らせを感じ取ったようだった。


祐介は静かに呟いた。

「やっぱり、この世界も……楽園じゃないんだな……。」


大輔は祐介の手を握りしめながら、ふっと笑った。

「それでもさ……俺達、まだここにいられるじゃん。」


「「あたし達もいるよ」」


AI幼稚園児のひなとさくらも話に混ざり、二人に手を重ねる。


「お前ら、AIなのに手はあったかいんだな。」


「何それ、偏見ひどくない?」


さくらはほっぺを膨らませて不信感を露わにする。


「大輔、ここら仮想空間だから俺らの五感は開発者が好きなだけいじり放題だと思うぞ。だからAIの手が冷たくても温かいと錯覚させられるんじゃないかな。」


「そうか、じゃあ現実にひなとさくらがいたらめちゃくちゃ冷たい機械の手だな。」


「そんなことないよ、現実でも人型アンドロイドは熱暖房完備して人肌の体温を再現できるし!」


「そうよ、あんまりひどいこと言ってたら二人ともさっきの変態野郎みたいに永久追放だからね!」


「それは、困るな笑」


「ははっ、はははは!」


二人の凍りついていた心は、少しずつ、少しずつ、溶けていくのを感じていた。


—-


数ヶ月後、場面は現実世界に移る。ある公園で、記者が遊ぶ子供達にインタビューしている最中だった。


「ねえ、仮想空間で遊ぶのって楽しい?最近は世界中の子供と仮想空間で大人の体になってサッカーとか空を飛んで鬼ごっことか出来るってニュースで取り上げられてるけど、君達は体験してる?」


記者の質問に、サッカーボールを蹴っていた少年は器用にボールを足元に収めながら答える。


「おっさん知らないの?」


「おっさ…俺はまだ27歳だぞ!」


「じゃあおっさんじゃん!笑」


「このクソガk…ふぅー落ち着け。後で頭グリグリの刑は確定として、どうして仮想空間で遊ばないの?」


少年は記者の質問を鼻で笑った。


「あんなところ行っても子供のフリした変な大人ばっかりだぞ?いったことあるけど、話通じないし、子供になりたがってる大人ばっかで子供が全然居ないんだよ。だから俺絶対嫌だね。」


その言葉に、周囲の子供達が笑い声を上げる。


「そっか、これだけテクノロジーが発達した現代でも変わらないことはあるんだな。」


「おっさんが何言ってるのか分からないけど、やっぱ直接遊んだ方が楽しいよね!」


「うん!だって鬼ごっこもできないし!仮想空間で遊んでも現実で足は早くならないし、サッカーは上達しねぇもん。じゃあね、俺達もう行くよ!」


「あーあ、早く大人になりてぇなぁー!」


そう言って、子供達は再びボールを追いかけ始めた。


記者はその様子を見ながら、仮想空間の中に集う「子供」達のことを思い浮かべていた。かつての自分も含め、あの場所で必死に遊んでいた彼らとは対照的に、現実の子供達はこんなにも生き生きとしている。


「けどさ、君達も大人になった時、彼らの気持ちがわかると思うな。」


子供達の笑い声が、夕陽に染まる公園に響き渡る。


記者のつぶやきは、薄暗くなった公園の喧騒にかき消されていった。


そのとき、ポケットに入れていたスマートデバイスが震え、ホログラムの通知が浮かび上がる。反射的に画面をタップすると、立体映像が空中に広がった。そこには祐介の笑顔が映し出されている。


「おーい、大輔!取材はうまくいった?」


祐介の明るい声に、大輔はため息交じりに答える。

「ああ、バッチリだよ。デジタル幼稚園に関する取材、今日で10件目だ。俺の書いた記事読んだか、社会人3ヶ月にしては上出来だろ?」


祐介はにやりと笑った。

「まあまあじゃん。業界でも鋭くて皮肉の効いた記事が人気って噂されてるぞ。でもこれで終わりじゃない、次のミッションがある。」


大輔は眉をひそめる。

「次って……なんだよ?」


祐介がニヤニヤしながら言った。

「最近話題の新しいビジネス、『仮想空間を使った人見知り克服プログラム』の市場調査だ。自閉症の子共や認知症患者の症状改善とか、若い人の疑似恋愛場所、高齢者が若者の姿に戻ってまた恋愛したいとか、仮想空間にはたくさんの可能性があって、今すごい注目されてるんだよ。明日は大仕事だ、寝坊するなよ。」


「えぇー!?追加の取材って明日かよ!?ったくうちの社長は人遣い荒すぎだろ!」

大輔が半ば本気で文句を言うと、祐介は軽く肩をすくめて見せる。


「そんなこと言うなよ。仕事があるってのは良い事だ。」


「仕事が嫌で現実から逃げたくせに笑」


「うるせぇな、社会人経験無しの27歳を雇った社長の度量に感謝しろよ笑 それにほら、現実が嫌になったらまた二人で“楽園”に逃げればいいじゃん!」


その言葉に、大輔は一瞬だけ真顔になったが、すぐに笑い声を上げた。

「はは、そうだな。逃げ場があるってのも案外悪くない。」


「今日の仕事が終わったら言えよ、みくとさくらが待っているから、楽園に集合な。大輔が最近描き終えたっていう絵、みく達が早く見たいって言ってたぞ。」


「5歳の子供を夜更かしさせらんねぇな。了解、すぐ行くわ。」


画面越しに見える祐介の顔がほころぶ。仮想空間の記憶が蘇るような気がした。


ビデオ通話が切れると、大輔はもう一度青と赤が混じり始めた空を見上げた。未来への不安と希望が入り混じった気持ちを抱えながら、彼は次の仕事の準備を始めるのだった。


逃げると言うことは情けないことか?いや違う。武士のように逃げずに戦って死んだら何の意味もない。辛かったら逃げれば良い。生きていれば、必ず人は変われる。変わるチャンスがやってかる。だって俺達がそうだったんだから。


俺達は「楽園」という名の地獄の底で出会った、おかげで前に進めるようになった。楽園に訪れず自室の隅で泣いていたら、今も引きこもりのままだっただろう。人生何があるか分からない。


仮想空間という楽園がある、だから現実という地獄に立ち向かえる。若い世代がまだその価値に気づいていなくても良い。もし必要になった時のために存在していれば良い。


けど、いつか、仮想空間の逃げ道が必要ないくらい、現実世界が幸せで溢れたらいいのにな。


だって世界はこんなにも美しいんだから。俯いてる時間なんてもったいないさ。かつての俺みたいに、運命に絶望して消化試合だと受け入れてる人を減らすためにも、俺は俺のできることをやろう。


大輔は取材道具の入ったカバンを抱え直し、ベンチから立ち上がった。


Fin.


友達と何気なく話していた時のことです。

「老人って、結局中身は子供だよな。もし仮想空間で子供の姿をしたら、孤独な子供や若者たちの心の隙間を埋められるかも」――そんな会話がきっかけで、この物語の着想が生まれました。


当初は、現実から逃げた者はツケを払う――そんなバッドエンドを描くつもりでした。しかし、執筆を進める中で、「現実に立ち向かった者から順に報われていく」、そんな希望を伝えたい気持ちが強くなり、最終的にこのような結末になりました。


現実の苦しさ、過去への後悔、そして逃避への誘惑。そういったテーマを通じて、読者の皆さんに何か感じ取ってもらえたなら、それだけで幸せです。


本作『(作品名)』は、著者ダイノスケにとって人生で最初の作品です。公開にあたっては、正直とても緊張しました。それでも、自分の中の想いを物語にできたことを、心から嬉しく思っています。


拙い部分も多かったかもしれませんが、最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。

ぜひ、ご感想やご意見をお聞かせいただけたら嬉しいです。今後の励みになります。


この物語を元に【楽園だった場所】という曲を作ってYoutubeにアップロードしているので、もし気になった方は聴いていただけると嬉しいです!


――著者 ダイノスケ

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