七日目
ここは郡山駅前の小さなホテル。昨日とは打って変わり今日の気温は例年通りの温度に戻り、夏模様を呈している。朝食を済ませた吉岡と橋本がコーヒー片手に向かい合って座っていた。テーブルの上には旅のしおりが置かれている。
「今日は岩手県の花巻市まで行くんだけど、目的は昼ご飯なんだ」
吉岡がそう話しかける。
「何?!それは本当か?先に言ってくれよな。今さっきホテルの朝食ビュッフェでたらふく食べたところだぜ」
そう応える橋本を見ながら、“朝食をガッツリ食べるのはいつもの事でどれだけ食べようが昼食に響いたことはないだろ....”と心の中で言いながら笑顔で返す。
「大丈夫だよ。俺はお前の胃袋のポテンシャルを知っているし、目的の店に着くまでまだ三時間半は掛かるから」
「それを聞いて安心したぜ。三時間半もあればお腹はペコペコになってるよ」
それを聞いた吉岡は心の中で反応する。“マジかよ?!胃袋のポテンシャルは想像以上だったな....”
ホテルのロビーにある立派な柱時計は午前八時過ぎを指している。旅のしおりによれば、彼らは八時半出発の東北新幹線に乗る事になっていた。
「そろそろ駅に向かおうか」
そう言って吉岡と橋本は立ち上がりホテルの出口に向かって歩き出す。
東北新幹線“やまびこ”で郡山駅から約五十分。彼らは東北新幹線“はやぶさ“に乗り換えるために仙台駅のホームにいた。
「乗り換えまで十五分くらいあるだろ?すぐ戻ってくるからちょっと待っててくれ」
そう言って橋本は小走りで何処かへ向かって行った。
「お待たせ。じゃあ新幹線に乗り込もうか」
ものの五分で戻ってきた橋本の手には仙台名物”牛タン弁当“が握られていた... それを見た吉岡は心の中で叫んだ。”嘘だろ?!さっき朝食を食べたところだし、今日は昼ご飯がメインだとさっき伝えたよな?!恐るべし橋本の胃袋...“
牛タンの香ばしい香りと共に一行は東北新幹線で一ノ関駅へと向かい、そこでJR線に乗り換えて午前十一時半に目的地の花巻駅に到着したのである。
「タクヤ、この駅から歩いて十分位の所に目的の店があるんだがお腹は空いてるか?」
「あぁ、もう昼ご飯を食べる準備は出来てるぜ」
”勘弁してくれ...お前がさっき食べていた牛タン弁当はどこに消えたんだ?!俺は夢でも見ていたのだろうか...“と吉岡は心の中で呟いていた。
程なくして、彼らは”元祖わんこそば”と書かれた店の暖簾をくぐっていた。
「いらっしゃい!二名様だね。空いてる席へどうぞ」
威勢の良い声が出迎えてくれた。
「お客さんはわんこそばを食べるのは初めてかい?じゃあ、簡単に食べ方を説明しましょう。まず、手元の小さいお椀に私が一口大の蕎麦を入れたらそれを食べて下さい。食べ終わると同時に私が追加の蕎麦をお椀に入れるのでまたそれを食べる。これを繰り返して、満腹になったらお椀の蕎麦を残さないように完食してから手元の蓋を閉める。サッと蓋をしないと、追加の蕎麦を入れちゃうからね」
慣れた口調で実に分かりやすく説明してくれた。
「大人の場合、皆さんは大体どれくらいの量を食べるんですか?」
吉岡の質問に店員さんが答える。
「わんこそば十五杯でざる蕎麦一人前くらいになるんだけど、成人男性で大体六十杯前後が平均かな。この店では過去に三百十三杯食べたお相撲さんが一番多い記録だよ」
「そうなんですね。じゃあ、早速わんこそばを頂きます!」
吉岡と橋本のわんこそばチャレンジが始まった。お椀に最初の蕎麦が入ったかと思えば直ぐに無くなったその時!
「うぅ...」
橋本が口を押さえて俯く。吉岡の脳裏に嫌な予感が浮かぶ。
“二日前には落とし穴の毒針、昨日は吹き矢の毒。しまった!完全に油断していた!真鍋警部があれ程気をつけるようにと言ってくれていたのに!犯人は毒を使うんだった!”
「おい!タクヤ!大丈夫か!死なないでくれー!」
「うぅ...」
「うまい!なんて美味しい蕎麦なんだ!本当に死にそうだぜ!」
そう言うと橋本は軽快なリズムでどんどん食べていく。一方の吉岡は... “心配して損した...逆にこっちが恥ずかしい...“と心でつぶやいた後に気を取り直して橋本を追うように食べ始めた。
二人共お椀を片手にどんどん食べていく。現在吉岡が二十杯。橋本が二十二杯とほぼ同じペースである。
吉岡のペースが落ちて来たかと思ったその時、お椀に蓋をしてわんこそばに終止符を打った。吉岡の記録は六十五杯。十分に蕎麦を堪能して満足気である。
一方の橋本。何かオーラすら感じる姿で飲むように蕎麦を食している。どれくらい時間が経っただろうか、橋本の手が蓋に掛かる。ここで橋本のチャレンジも終了したのである。いつの間にかお店の全従業員が橋本の周りに集まり拍手を送っている。
そして店主らしい職人が話し始める。
「いやー、見事な食べっぷりでした!少し感動すら覚えました... 新記録達成です!合計四百二十七杯!」
橋本が笑顔で拍手に応える。
「とても美味しい蕎麦でした。今度来る時は途中で牛タン弁当は食べずに来ますね」
“えっ?牛タン弁当?!食べてから来たの?恐るべき新チャンピオンが誕生した...”
店主は目を丸くしながら心の中でそう呟いていた...
こうして二人のわんこそば体験は幕を閉じ、今晩の宿のある盛岡市まで行く事にした。岩手県の県庁所在地の盛岡市はここからJR線で三十分程の距離にある。
盛岡駅前に到着し吉岡が提案する。
「お腹も一杯だし、少し早いけど今日はこの旅館でゆっくりしようぜ!温泉もあるみたいだし」
チェックインを済ませて早速二人は温泉に入ってリラックスしたのである。部屋に戻った時、不意に吉岡の携帯が鳴る。画面には“真鍋警部”の文字が浮かんでいる。
「もしもし、吉岡です」
「こちら真鍋です。そちらは特に変わった様子はないですか?」
「はい。今日は早めに宿に戻ってゆっくりしています」
「それは何よりです。ところで一つ判明したことがありましてね。ちょっとお伺いしたいんですが、落とし穴と吹き矢に使われていた毒なんですが、かなり珍しいモノのようでした。どうやら今年に入ってからアメリカの学会で発表されたばかりの物質らしいんですよ。特徴は即効性が非常に高いという事らしいんだけど、君達はあの優秀なT大学の学生なので何か知っているかと思いまして」
「毒物ですか...僕は工学部、橋本は経済学部なんで化学物質系はちょっと知見がありませんね。最初に亡くなった赤木なら理学部だったので何かピンと来たかもしれませんが...すいません、お力になれず」
「いえいえ。それと、犯人は確実にあなた達を狙っている様ですが、誰かと揉め事があるとか恨みを買う様な出来事があったとかはないですか?」
「うーん、全く心当たりがありませんね」
「そうですか。では、また何か気が付いたり思い出した事があれば連絡を下さい」
「分かりました」
そう言って電話を終えた吉岡の表情は冴えないままだった。
「ヒロト、どうかしたか?」
「いや、昨日も話したけど、どうやって犯人は俺達の行動が分かるのか不思議でしょうがないよ。あと、真鍋警部が言っていた毒の件も気になるし」
「あぁ、さっき電話口で話してたアメリカの学会で公表されたばかりとかいうヤツか...確かに気になるな」
「これらの謎が解ければ大きな手掛かりになりそうな気がするんだけど...」
二人はその後も色々と話し合ったがまたしても糸口を掴むことが出来ずにこの日も終わりを告げたのである。