9話
私たちは、それぞれ自由に時間を過ごし、この生活にじわじわと馴染み始めていた。時間だけは容赦なく過ぎて気付けば転移から一週間が過ぎていた。
決まり事といえば、カホの提案で、週に一度は四人で夕食を囲むことが決まった。ささやかだが、それ以外に、私たちを結びつけるものなどなかった。仕事も、やるべきことも何もない。魔法が当たり前の世界で魔法が使えないのだから、何かをしようにもできないのが現状だった。
「今日で……転移してから八日目、か」
独り言のように、誰に聞かせるでもなく呟いた言葉だった。暇を持て余して一人ベッドで横になる。ここ数日カホはよく外に出るようになり、話し相手もいない状況だ。ただゴロゴロしているだけではなく、私はこの一週間で多くの人間族に関する知見を学んだ。たとえば、この世界の暦が、地球と同じく365日を1年とする太陽暦であったこと。日付や時間の概念が同じというのは少しありがたいのかもしれない。魔族では日付や時間があいまいだった故、人間族がこうして日付や時間を用いていることに驚いた。
夕食の時間になり、食堂へと向かうと、既に三人が座っていた。
「……なんだかんだで、時間が経つのって早いよね」
初めてこの世界に放り出されたとき、私たちはよそよそしかった気がする。会話すらまともに成立しなかった。だが今では、ぎこちなさは幾分か和らぎ、互いの距離も少しずつ縮まっているように思える。こ私は、こんな風に誰かと喋れていただろうか?
「ショウゴくんやハルトくんは何してるの?」
「街をぶらぶら~って感じ。でもこの町は平和そのもの、って感じがしたな。初日に絵を見せられて、ちょっと心配だったけど、町に出ても、魔族の気配はまるでなかったし」
「うん。わかる。ショウゴの言うとおり」
それがこの街の異様さだった。あまりにも皆が警戒していな過ぎる。魔族の侵攻がささやかれているというのに。
「カホやユーカはこの一週間なにしてたんだよ?」
「私は……特になにも」
私がそんな曖昧な返答をすると、カホは口を開いた。
「そういえば、私、街の病院……みたいな場所で、ちょっとだけ手伝ってるの。看護師とか医者とか、そういうのはこの世界にはないみたいなんだけど」
「へぇすごいな」
「私、小さいころ、熱ばっかり出してて、何度も病院にお世話になったんだ。それで、いつか私も、子どもを助けられる医者になれたらいいなって思ってたんだ」
その目には、確かに光が宿っていた。希望という名のものだった。日本に帰ることすらできるか分からないのに、諦めていない目だった。将来の夢――その言葉が、心のどこかをひりつかせる。
「将来の夢か……俺は、サッカー選手。本当は、高校もサッカーの強豪校に行きたかったんだけどな」
ショウゴの言葉には、にじむような後悔が滲んでいた。サッカー部に所属しているとは言っていたが、どうやらお飾りではないらしい。
「これ、夢を話す流れ? 俺は特に立派な夢とかは無いかな。小さい時は戦隊モノに憧れたけどさ」
ハルトは、照れ隠しするように笑った。
「戦隊モノに憧れるのは皆通る道だろ。それ言ったら、俺もヒーローになりたいとか思ってたし」
ショウゴが冗談めかして笑いながら、こちらへと顔を向けた。
「佐藤……ユーカはどうなんだよ?」
唐突に名を呼ばれて、私は少しだけ戸惑いながら答える。
「私も特段夢は無いかな。いつも会社員って、適当に答えてたし」
「現実見るなよ、夢なんだからさ」
ショウゴはすかさず私の発言にツッコミを入れた。けれどその言葉も、どこか空虚に響いていた。自嘲のような、あるいは皮肉のような、そんな感じ。
夢という言葉に、自分はいつも無意識のうちに目を背けていたのかもしれない。現実的な答えで取り繕い、本当の願いを自分自身からも隠していたのかもしれない。
「……まぁ、この世界から戻れないと、どの夢も無理なんだけどな」
ぽつりと、ショウゴが呟いた。その言葉には、ただ事実だけが残されていた。夢の話をしていた空気が、急激に冷え込んでいくのが分かった。
「ショウゴ、あまり暗いこと言うなよな」
ハルトが眉をひそめながら言ったが、その声にも疲れが混じっていた。
「仕方がないだろ。一週間経っても音沙汰無しだ。すぐに戻れると思ってたんだけどな……」
誰もがわかっていた。希望は時間と共に目減りしていく。日が昇っては沈み、空の色が何度も繰り返すたびに、そのうち帰れるはずだ、という楽観は風化し、やがて諦念に形を変えていく。
「今頃、日本はどうなってるんだろうね。俺らは突然ここに来たわけだし、神隠しとか言われてたりしてさ」
ハルトが呟いた。笑っているような口ぶりだったが、その声音にはどこか現実味を帯びた不安が滲んでいた。
「同じように時間が過ぎているのかな?浦島太郎みたいに、ここでの一週間が向こうでは何十年とかだったら……どうしよう」
カホの声は少し震えていた。何気ない言葉のように見えて、その奥には、ふとした瞬間に浮かび上がる漠然とした恐怖があった。その懸念には一理ある。この世界が、いくら地球と似た太陽暦を用いていたとしても、それが同じ「時間」を意味するとは限らない。
私は言葉を飲み込んだまま、何も返せなかった。自分の中にも、同じ疑念が渦を巻いていたからだ。私が魔王として君臨していた時の前なのか後なのか、これも私にとっては重要な指標だった。もし後だとしたら、ある程度この世界と地球の時間の流れは予測できるだろう。私が地球で十六年生きてきたのだから、それと比較すればいい話だ。
「まぁ、その時はその時だよな。帰れるだけでいいんだから」
私たちが部屋に戻ったのは、夜が深く重く沈んだ頃だった。扉を閉める音が、大きく響いた気がしたのは、辺りがあまりに静まり返っていたせいだろう。
カホが、少し間を置いてから、私の背中に小さく呼びかけた。
「ユーカちゃん、あの……黙っててごめんね。病院で手伝いしているってこと」
彼女の声には、微かな罪悪感が滲んでいた。
「別に。待ってる間は自由に過ごしていいんだから。カホの自由でしょ」
私は本当に、気にしていなかったのだろうか。それとも、前世の魔王としての記憶を持っていることを黙っている自分に罪悪感を抱いたのか、少し冷たく突き放しているような言葉を掛けてしまった。
カホは一瞬俯いたが、意を決したように言葉を続けた。
「もしよかったら、今度病院に来ない? みんな、回復魔法でも良くならない子たちばっかりなんだけど、それでも、生きることを諦めてないっていうか、すごく勇気をもらえるんだ」
その言葉には、希望のようなものが確かに含まれていた。
「……言葉が通じないのに、よくわかるね」
皮肉にも似た返答が口をついて出た。自分でも、思っていた以上に刺のある声音だったことに気づいて、少し後悔した。しかし、カホは気を悪くした様子もなく、むしろ、笑って答えた。
「言いたいことは、言葉じゃなくても伝わるから。それにだんだん耳が慣れてきたっていうか、簡単な言葉なら、少し覚えてきたし」
その様子が、少し眩しかった。眩しすぎて、まっすぐ見ることができなかった。誰かに必要とされ、誰かと繋がる彼女の姿とは比べ物にならないほど、今の自分は何もできていない。
「……ふーん。気が向いたら、行くね」
「今日はもう遅いし、明日朝からっていうのも大変だと思うから、明後日どう?話は私が伝えておくから!」
それはカホなりの私への提案だったのだろう。私はコクリと頷いた。