79話
「さようなら、魔王さん」
吸血鬼の声は、別れを惜しむどころか、その瞬間を楽しむようにさえ聞こえた。そして吸血鬼が持つ漆黒の剣がゆっくりと振りかざされ、魔王の胸元へと刃が落ちようとした、その刹那。
吸血鬼の腕が、宙へと舞い上がった。
「っ……!」
切断面から血が噴き出し、床や壁に赤い血が散った。吸血鬼は驚愕したのか、目を見開き、振り返った。
「吸血鬼、あなたが何を考えているかはわかりません。ですが……ユーカ様の目の前で殺傷など、見過ごすことは出来ませんから」
ツキの声は震えていなかった。ツキが長年探していた恩師が吸血鬼であり、恩師に刃は向けられないと言っていたはずなのに、その剣に迷いはなかった。
「ははは……ツキ。お前が私を裏切るとは——」
吸血鬼は片腕を失ったにも関わらず、どこか愉悦を滲ませて笑った。吸血鬼にとって片腕を刎ねられたところで治癒してしまえばよいと思っているのだろう。
「お前はずっと、私に心酔しているものだと思っていました。……そうではなかったのですね。私に刃を向けるなど」
ツキはゆっくりと息を吐き、剣を構え直しながら言葉を紡いだ。
「確かに——私の記憶の中の恩師様は、尊敬すべき方でした。あの時の魔王様が恩師様ではないか……何度も頭をよぎりました」
ツキは一呼吸置くと、現実を見つめるように、吸血鬼の方をしっかりとした眼差しで見た。
「でもその度に、あの優しい恩師様が残虐なことをするはずがない、と否定していたのです」
「私のことを軽蔑しますか?」
ツキは首を横に振り、剣を静かに下ろす。剣先が床に触れ、乾いた音が響いた。
「軽蔑……いえ。私は、あなたがなぜそうなってしまったのか——その方が気になります」
その言葉は嘘ではなかった。ツキの瞳には怒りも憎しみもなく、ただ吸血鬼を憐みの目で見ていた。それは、吸血鬼の優しさを知っていると言わんばかりの目だった。
ツキが剣を下ろした、その一瞬の隙をついて、魔王はハルトの身体を抱え上げ、ふらつきながらも立ち上がり、私の方へと転移した。
「ユーカ、ハルトは大丈夫なのか?」
ショウゴの声が震えていた。魔王の腕に抱かれたハルトはぐったりとして、身体は、胸元から下で無惨に断ち割られ、上下に分かれていた。とても息をしているようには思えないし、生きているとは思えない状況だ。
「ほら、さっきの瓶とか……あれは?」
ショウゴが縋るように言う。声には焦りが滲み、震えさえ含んでいた。アメリアに渡していたポーションの事だろう。
「……あれは上級回復魔法相当のポーション。大きめの切り傷は治せるけど……切断されたものを治せるような効果はないよ」
私はそっと言った。すると魔王は赤魔導士の身体を見て、涙を流し始めた。誤解がようやく解けたというのに、その矢先こんなことになってしまうとは、誰が想像しただろうか。
「赤魔導士、私はあなたに謝っても謝り切れないことをしたというのに。どうして、簡単に死んでしまうのですか。頼みの綱である治癒魔法が使える吸血鬼が、敵に回っている状況ではどうしようも」
魔王はそっと床に膝をつき、私へ深く頭を下げた。
「ユーカ……赤魔導士を守れなくて、ごめんなさい。私は魔法しか取り柄が無いというのに」
弱々しく震える声は、とても勇者や魔王とは思えなかった。私を殺した勇者が、今は魔王として傍にいて、同じように仲間の死を悼んでいる。それが、あまりに悲しく、どこか痛々しく映っていた。
「私から見れば……あなたは、勇者なんだけどね」
魔王はゆっくりと言葉を続けた。
「正直に言うと……吸血鬼を倒せる気がしなかった。情けない話だが、先ほど放った魔法が全力だ。魔法の発動速度、魔力量……どれを取っても、とても敵う相手ではない」
吸血鬼がゆっくりとしゃがみ、床に落ちていた自身の腕を拾い上げると、まるで壊れた玩具を直すような手つきで、切断面へと押し当てた。
次の瞬間、治癒魔法の淡い光で包まれたかと思うと、腕は何事もなかったかのように元へ戻った。それは、瞬きよりも早いくらいのスピードだった。
「私はあなたを傷つけたくないんです。今は少し……気が立っているだけで、ツキ、あなたが私の味方であることは、変わりませんよね?」
吸血鬼の声は優しい響きを帯びていた。その優しさが、先ほど魔王を何度も切り刻んだ残酷さを秘めているものの言葉だとは、とても思えなかった。
「だって……本当に私を敵だと思っているのなら、魔石を狙うでしょう?」
吸血鬼はそう言うと、ゆっくりとツキに歩み寄り、抱きしめた。その目は光を失っていて、どこを見つめているかは分からなかった。
「あなたが死んでしまったら、ユーカ様の命令に背くことになりますから。私に課された使命は、ユーカ様のご友人を助けるために吸血鬼を連れてくることです。——私の知っている、吸血鬼を……」
「幻滅したでしょう?これが私の本性なのです。寧ろ、吸血鬼こそ偽物。あれは仮の姿でしかありません」
吸血鬼はそう言うと、ツキを突き飛ばした。ツキはその衝撃で、尻もちをついた。ただ、それでも、吸血鬼の顔を正面から見ていた。
本気で吸血鬼を拒絶しているわけではなかった。ツキの心はまだ、どこかで吸血鬼を恩師様と呼びたいのだろう。ようやく見つけた恩師様と話したいのだろう。
「ユーカ様をあの部屋に閉じ込めたのは……傷つけない為ですね。あの部屋は内側からは開かない仕組みでした。本当は紫龍も巻き込むつもりはなかったのでしょう」
吸血鬼は答えない。ただ、僅かに目をそらした。まるでその言葉を肯定するかのようだった。
「……ユーカ様は私に必要だと言ったでしょう」
吸血鬼が口を開いたかと思うと、小さな声でぽつりと言った。
「それなら、ユーカ様の願い——平和を実現するために、これ以上、誰の命も奪わないでください。私の思い出の中にいる恩師様に……吸血鬼に戻ってください」
それは、ただの魔族同士のやり取りでもなかった。ましてや、元四天王同士の旧交でもない。
心を許している間柄だからこそ言える言葉で、それでいて心に突き刺さるほどの強い願いだった。
ツキの声の奥には、吸血鬼を失いたくないという叫びが確かに宿っていた。ただ一人、吸血鬼の本当の姿を受け入れようとしていた。
吸血鬼は、そんなツキを振り払うように、ゆっくりと笑みを浮かべた。その笑みは、どこか壊れた硝子のように脆く、ひび割れた感情がその奥に沈んでいるのが見て取れた。
かつてアメリアが言っていた。私の前の魔王は、私と同じゾンビだったと。
角と翼を持つ吸血鬼は偽の姿であり、本来の姿ではないのだろう。黒い角も、黒い翼も、あれらは全て擬態魔法で作られた物なのだ。そう思って見ると、翼はツキの物に似ているような気がするのはどうしてだろう。
ツキが吸血鬼を恩師様であると見抜けなかったのは、恩師様は違う姿だったから?
「吸血鬼、私からもお願い」
私は声を振り絞った。吸血鬼の視線が、ゆっくりとこちらに向く。
「これ以上、誰の命も奪わないで。あなたには……私と違って、人を助けることができる力がある。それでたくさんの魔族を救ってきたじゃない」
「その言葉は……セネトさんの」
セネト。それはおそらく私の忘れてしまった過去、勇者だった私の名前。
「吸血鬼がどんな人生を歩み、何を思ってここまで来たのか……分かってあげられなくてごめん。あなたにも、勇者だった時代があったんでしょう?」
その瞬間。吸血鬼は私の目の前にいた。
こんなにも素早い転移魔法は見たことが無い、それくらいほんの僅かな時間で、私の目の前に現れた吸血鬼の血走った絶望のような瞳が、至近距離から私を射抜く。
「勇者だった時代?そんなもの……思い出したくもない」
声が震えていた。それは怒りなんかよりももっと深い場所から湧き上がった感情だ。
「勇者の待遇は良かったはずです。資金も、住居も、衣服も……望めば全部手に入る。少なくとも私たち勇者パーティーのように、魔石を紛失しなければの話ですが、人間を恨むような出来事なんて」
魔王は言った。魔王は勇者として人間を守りたいと言った。確かにかつての仲間を助けるために少しは道を外れてしまったかもしれない、それでも、魔王は勇者の過去があるからこそ、人間を捨て置けなかったのだ。
「セネトの記憶を忘れたユーカ様が悪いんですよ。あなたなら、この世界を……作り替えてくれると思っていたのに。」
「分からない……分からないよ!」
気付けば叫んでいた。胸の奥に溜め込んでいた苦しみ、怒り、憎しみ、そして恐怖。すべてが声になって溢れ出した。
私が守りたかった世界。誰も傷つけたくないという願い。傷つけられた者すら救いたいという理想。それと吸血鬼の行動がどう結びつくというのだろう。この短時間に、悪魔、皇帝、アメリアと殺した者の理想と私の理想が近いはずがない。
「どうして……どうして思い出せないの。私が思い出せば、きっと何か糸口があるのに。どうして私は魔法が使えないの。力さえ持っていれば——」
言葉が途切れた。
私は今まで、魔法が使えたからこそ戦えていたのだ。仲間を守れていたのだ。魔王として君臨できていたのだ。
それが今はどうだろう。目の前で仲間が傷つき、倒れ、苦しんでいるのに、私は手を伸ばすことすらできない。
力があれば救えたかもしれない命。今の私には、目の前の吸血鬼すら止めることはできない。
私はずっと力があったから理想を語ることが出来ていたんだ。
この世界に転移してきた時、私が魔法を使えないと分かったとき、私は何もしようとしなかった。魔法が使えない人間が何かできるとは思っていなかったから。でも、カホが襲われて、そんな弱い自分を変えたいと思った。
魔法が使えないのなら、せめて魔王だったころの知識と仲間を頼ろうと思った。それが今の私にできることだったから。
『それがお前の願いか?』
どこからともなく、低い声が響いた。
私の願い……?胸の奥で、忘れていた何かがきしりと軋んだ。




