78話
「吸血鬼!……よかった。何かあったんじゃないかと心配したじゃないか」
私の声はわずかに震えていた。血の臭いが立ち込める室内で、その震えだけが妙に生々しく響いている。
アメリアの血は床にじわりと広がっていたが、その血は既に乾き始めていた。私の腕の中に居るフウは未だ意識不明でピクリとも動かない。皇帝は心臓が意図的にくり抜かれていた。おそらく吸血鬼であっても助けられるかは分からない。
「この惨事は——」
吸血鬼は周囲を見回し、わずかに目を細めた。血が辺りに広がっているというのに、その仕草一つにも余裕があり、異様な落ち着きがあった。
「初めまして、かもしれないですね。私は魔王です。吸血鬼は治癒系の魔法が得意だと聞いています。ここにいる者たちを回復できますか?」
魔王の声音には、威厳よりも祈りに近い響きが混ざっていた。この場に立つ誰よりも強いはずの存在が、回復に限っては吸血鬼に頼ることしか出来ないのだ。
「死んでいなければ、治すことは出来ますが」
吸血鬼は淡々と答え、アメリアへと歩み寄ろうとした。だが、その足音が床を踏むよりも早く、ツキが素早く動く。そして吸血鬼の背後を取るようにツキが立っていた。ツキの剣を抜いた音が、静かに響いている。
「吸血鬼」
「どうされましたか?」
「私は、あなたにツキという名を教えた覚えがありません。どうして、知っているのですか……?それに——その血は」
吸血鬼の服に染みついた暗い赤、それは紛れもなく血であった。そしてその血がアメリアの血と同じ色だと気づくのに、時間はかからなかった。
吸血鬼は確かにアメリアの近くにいる。しかし、アメリアの身体には触れていないし、既にアメリアの血は固まり始めていて、あそこまではっきりと服に付くはずがない。
吸血鬼はゆっくりと振り向いた。その顔には警戒も驚きもなく、むしろ懐かしいものを見つめるような柔らかい影が落ちていた。
「その剣、まだ持っていてくださったのですね。とても嬉しい限りです」
返ってきた言葉は、異様なまでに優しかった。その優しげな声音が、この場の狂気を逆に鮮明にしている。緊張感で張り詰めた部屋であるというのに、物怖じともせず、吸血鬼は普段通り接しているのだ。
「アメリアの血が、何故、吸血鬼の服に……」
次の瞬間、吸血鬼の姿がふっと消えた。そしてすぐに魔王の背後へと現れていた。
「なっ……!」
魔王が振り向くより早く、鋭い光が走った。
「まさか、勇者であったあなたが、回復魔法まで使えるとは思っていませんでした。回復はソルフィ任せだと……。ですが、回復が使えるというのなら、楽しめそうですね。ツキが味わった痛みは、この何倍もあるのですから」
吸血鬼の魔法が魔王の身体を切り裂く。だが、致命傷になる魔石だけを意図的に外しているようにも思えた。痛みだけは確実に刻むように、そして決して簡単に死なせないように。
魔王もそれは分かっているのだろうが、傷を回復させていた。こうすることしかできなかったのだ。
「ぐっ……!」
血飛沫が床に散り、魔王の呼吸が乱れる。魔王が魔法で押し負けているのだ。
「本当は、生まれ変わった赤魔導士と、あなたがた二人で殺し合ってくれれば良かったのですが、想定外でした。まさか魔法が使えなくなっているとは」
吸血鬼の声は淡々としていた。
「分かっていたことではあるんですけどね。願いには代償が必要ですから」
「もし願いが一つ叶うとしたら……あの時、俺に問いかけたのはお前だったんだな」
「ショウゴ、吸血鬼の言葉が分かるの?」
「頭に流れて来たんだよ、アイツの言葉が。声はそこにいる魔王の声だった。でも、オーラというか、言葉にはならない何かが違った。でも今ははっきりとわかる、アイツが俺に……」
そして、ゆっくりと向きを変えた吸血鬼の視線の先には、無抵抗で手を挙げたハルトがいた。
「その願いは……聞いちゃ駄目だ。代償は心臓、つまり、死を意味する」
ハルトは叫んだ。この状況を変えようと願おうとしたショウゴへの牽制だろう。そしてハルトは吸血鬼の方を睨んだ。魔法が使えないハルトはこの場において足掻く事もできない、迫りくる死を受け入れることしか出来なかったのだ。
「俺は、死んで当然だった。ショウゴ、カホ。俺が居なければきっと巻き込まれることも無かった。ユーカ、俺が居なければ、お前が再びこの世に生を受けることは無かった」
「遺言はそれだけですか?」
「吸血鬼、やめて!私は勇者パーティーのこと……恨んでなんていない!」
私の言葉なら聞いてくれるかもしれないと、吸血鬼に叫んだ。しかし吸血鬼は振り返らない。肩越しの横顔に、わずかな微笑すら浮かべていた。
「あなたは本当に優しいですね。誰も傷つけたくない……傷つけた相手すら、優しさで包もうとする。でも、それじゃダメなんです」
言葉と同時に、吸血鬼は、ハルトに対して魔法を放った。
「せめて、一思いに殺してあげますよ。私はあなたに感謝しなくてはいけない立場ですから」
その一閃は、目にも見えぬ速さでハルトの身体を刎ねた。近くに居た魔王は、顔面蒼白になっていた。そんな魔王に対して吸血鬼はあざ笑うように言った。
「あなたの弱点、それは防御魔法が使えないことです」
「気付いていたんですね。私には防御魔法が使えないこと」
そして魔王と吸血鬼は再び向き合うと、魔法を打ちあった。魔王の身体から床に広がった血溜まりは、やがて音を立てて滴り落ち、部屋の暗さと混ざり合い、赤黒い湖のように広がった。
魔王は同時に自分の傷を癒やしているが、一方の吸血鬼には全く傷がついていなかった。それどころか、吸血鬼は笑みさえ浮かべ、異空間から剣を取り出した。禍々しいオーラを放つ漆黒の剣は、一層この場を重い空気にした。
「あの剣は——恩師様の……」
ツキは、絶望が喉にからんだような声でぽつりと言った。目を見開いたまま、吸血鬼の手に握られた剣を凝視している。
「私の名前を知っている理由……それも、恩師様なら納得できます。ですが——恩師様は、こんな惨いことをする方ではなかったはずです」
ツキの手は震えていた。怒りとも悲しみとも言えず、ただ理解することを頭が拒んでいるようだった。
「私には……もう吸血鬼が誰だか分からない。私の知っている吸血鬼は、あんなことしなかったよ」
私も行き場のない思いを口にした。
「私が最初から勇者だった頃の記憶を……思い出していたら。もっと何か……変わっていたのかもしれないのに」
「無理ですよ、ユーカ様」
吸血鬼は、魔王と戦いながら言った。
「あなたが勇者の時代の記憶を取り戻すことは——永遠にありません。それとも、何ですか?記憶を取り戻したいですか?」
「どうして、そう言い切れるの?」
「さあ?でも、矢で撃ち殺して、あの場面を再現したのですが、思い出すことはありませんでしたよね」
「矢で……撃ち殺し……?」
私の声はかすれ、震え、言葉にならなかった。フウに刺さった矢、これが何を意味しているのだろう。
「昔……セネトという勇者だった人間が居ました。そのセネトが唯一愛した男、ダイという冒険者がいました」
その名が放たれた瞬間、ツキが小さく息を呑んだ。どこかで聞いたことがあるのだろうか。
「ダイの本名は、フウと言いました。彼はセネトの目の前で、矢に討たれて死にました」
「フウ……? これは……偶然なの?」
私は気付いたらフウを見つめていた。セネトがいつの勇者かは知らない。でもこの文脈から、私の勇者時代に関わっている可能性がある。しかし、いずれも、三百年以上前の話で、人間だとしたら、とっくに死んでいるはずだ。
その沈黙を破ったのは、ツキだった。
「偶然じゃありません。本人からは止められていたのですが」
ツキはそう言うと、私に近づいた。
「ユーカ様……フウさんの正体は——悪魔くんです」
初めて、フウに会った時、どこかに見覚えのある懐かしさが宿っていた。でもそれを言葉にすることは出来なくて、他人の空似だとか、そんな風に考えていた。
ずっと私の近くにいたんだ。今もこうしてどうしてだか、フウを抱きしめたいという気持ちがあった。それも全部、私が忘れていた勇者時代の話、それを思い出せれば……。
「これは私の想像です。おそらく悪魔くんもまた、人間の前世を持った魔族なんだと思います。
そして、その名を名乗っているということは……前世はフウじゃないでしょうか?」
「それなら……そうと、教えてくれれば良かったのに」
失われた記憶と、目の前の惨劇が、互いの輪郭を曖昧にしていく。フウの命は風前の灯火で、吸血鬼なら治せるだとか思っていたけれど、今の吸血鬼が治してくれるとは思えなかった。
その隙に魔王が吸血鬼から距離を取ると、吸血鬼は即座に魔法を放った。放たれた幾千もの魔法が空間を歪ませ、魔王へと襲いかかる。
明らかに吸血鬼のほうが優位に見えるのは、どうしてだろう。魔王と互角に戦うというだけで凄いというのに。
「本当に四天王の一派だったんですか?」
魔王の呟きは、驚愕というより恐怖に近かった。吸血鬼は、魔王を睨みつけたまま低く言い放つ。
「私は……あなた方、勇者パーティーを許すことが出来ない。彼女を殺すなんて、私が許さない」
「魔王のこと好きだったんですね。ねちっこい男は嫌われますよ」
魔王は皮肉を言った。しかし、あまり余裕が無いのか、息を切らしている。吸血鬼はそんな皮肉に対して嘲りすら浮かべず、首を傾げた。
「魔王が好き……?何を勘違いしているのですか?私の魂が、彼女を欲しているだけです。彼女は私にも優しかったから」
そして魔王の肉が裂ける音と、魔王の苦鳴が重なった。床に落ちた血をもう見慣れてしまったはずなのに、今はやけに鮮明に見える。
「なぜ……魔石を狙わない」
魔王は息を吐きながら問う。吸血鬼は刃を下ろしたまま、淡々と答えた。
「すぐに死んだら、つまらないでしょう?」
その声音の冷たさに、ツキの背筋が震えた。吸血鬼はゆっくりと首を傾げ、ツキの方へ振り返る。
「ツキ。この勇者に対して苛立ちの一つはあるでしょう?主を殺されたのですから——」
その一言は、ツキの胸の奥にまだ形にならない何かを、無理やり掘り起こすようだった。吐き出せない怒り、ぶつけようのない苦しみ。勇者が魔王を殺すのは、勇者の任務を全うしただけ。それを逆恨みする等、今までと同じ過ちを繰り返すだけだ。
人間と魔族が相容れない原因をこれ以上深くしないために、私たちは戦わないと決めたはずなのに。
「いえ。私はそのようなことはありません。ただ、教えてほしいのです。あなたは吸血鬼なのですか?それとも……私にこの剣を授けてくださった方なのですか?」
ツキの声は堂々としていた。しかし、言葉の奥にわずかな迷いが揺れているのが分かった。目の前の存在が一体何者なのか、それを問うという行為そのものが、ツキの心を深くえぐっているように見えた。
どちらの答えでも、きっと救われないことは分かっているのだろう。それに応えるように、吸血鬼は、薄く笑った。
「そうですね。皆様に分かりやすく説明すると、私はユーカ様の前任の魔王……そうですね、巷では史上最悪だとか、歴史上類を見ないなどと言われていますけれど」
その瞬間、空気がわずかに凍りついた。確かにそれなら今まで魔王と互角、それ以上で戦っているのにも納得がいく。ツキだけでなく、場にいる全員の時が止まったように、目を丸くしていた。
私は吸血鬼の方へ視線を向けた。
「ユーカ様の勇者時代に倒したのではなかったのですか?」
吸血鬼——いや、かつての魔王はゆっくり首を横に振った。
「いえ、ユーカ様は勇者時代、私を許してくださったのですよ。この魔族を変えることができるのは、魔王だけだとね。……実際のところ、私は魔族に嫌われすぎていて、全体を変えることなど不可能だったのですが」
吸血鬼の姿に偽っていた理由も、ツキに剣を与えたという理由も、まだ何ひとつ明かされてはいない。ただひとつ、確かに理解できるのは、私の知っている吸血鬼が仮初の姿であるということだけだった。
「ガーネットを襲撃したのもあなたですか?」
魔王の問いに、吸血鬼は薄く微笑んだ。その表情には情がなく、強者特有の冷ややかな余裕だけが漂っていた。
「頷いたら、どうするんですか? あなたは確かに現在の魔王かもしれませんが、根底には勇者としての魂が眠っている。……私を殺したいですか?」
挑発とも、試すようとも言える声音で問いかけた。吸血鬼はこの状況全てを楽しんでいるようでもあった。
「その答えで分かりました。あなたが敵であるということを」
「魔族なのだから敵で当然でしょう。……まぁ、あなたがそうであるように、私にも勇者としての気持ちや誇りが眠っていたら良かった話なのですが」
私は魔王と吸血鬼のやり取りで感じた違和感を口にしていた。
「本気で人間を滅ぼすなら、もっと早くできたはず。それをどうしてしなかったの?」
吸血鬼は目を伏せたわけでも、そらしたわけでもない。ただ、視線の奥の何かが揺れた。そして、吸血鬼は静かに口を開いた。
「それを説明するには、少し時間がかかります。ですが、その前にそろそろこの邪魔者を駆除しようかと」
そう言って、魔王に近寄った。




