76話
「吸血鬼はまだなのじゃ? 我々に勝機があるとすれば、奴の治癒系魔法があることじゃ」
現魔王が灯した光は、部屋全体を柔らかく照らしている。その明かりによって、ユーカが抱きかかえている冒険者──フウの胸に突き立つ白く光った矢が、いやに生々しく浮かび上がった。
心臓を貫く複数の矢。誰が見ても、あそこから生き返ることはないと悟るくらいには、瞬きもせず、時間が切り取られたかのように動かなかった。
短い期間とはいえ共にダンジョンを攻略した仲間が、なぜホワイトドラゴンと共に魔王城に現れたのか。その理由を我は知らない。
もしかすると、我が知らない何かが、ツキとフウの間であったのかもしれない。
「ユーカ様、私から離れないでください。アメリアは──ユーカ様のご友人を」
「ツキ、我はお主の実力を認めている。ユーカを守るのじゃ」
ツキが剣を抜いた。刃が光を反射し、細く震えている。無理もない。皇帝の死体を見た時、我でさえ背中が凍りつくような感覚に襲われた。
この場にいるはずのない誰かが、まだどこかからこちらを窺っているような気配が漂っている。その実態も掴めないというのに、こんなにも不快な気分になるのはいつ振りだろうか。ツキもきっと同じものを感じているのだろう。
「吸血鬼が向かったのは、ダイヤモンド帝国の城です。ユーカ様のご友人の女性を助けるために向かいました。そして……ここに倒れている皇帝。彼もまた城内にいたはずです。もしも、吸血鬼も何者かに対峙していたとしたら──」
そこでツキは言葉を切った。
ここはダイヤモンド帝国の城内にある隠し部屋。魔王城で襲撃を受け、魔王とフウが倒れた。魔王は致命傷ほどではなかったようだが、直感的に魔王城が危険だと判断し、我々をここに転移させたというの、我にも理解できた。
あの状況で魔王城に居座ることが危険だと考えるのは当然だ。だが、この部屋だって安全とは言い切れない。いつかは何者かと対峙することになるだろう。
「吸血鬼はただでさえ、戦えないのじゃろ?」
「そういえば、勇者パーティーとしても吸血鬼とは戦っていないな。四天王のくせして逃げたかと思っていたが」
ハルトがそう言いながら、魔王の近くへと歩み寄った。我らを撃破した勇者パーティーの一員が、こうして平然と隣に立っている。我は勇者の魔法で一撃だったが、おそらくその近くに居た赤魔導士という奴も相当な力をもっていたはずだ。
今はユーカと同じく魔法を失った人間の姿に成り下がっているけれど、我が守るべきはユーカの願い──四人で元の世界に帰ることだ。その願いがなければ、我はきっとハルトを守ろうなんて思わなかったし、結果的に魔王とハルトの間の溝は深まっていたかもしれない。
「感じますか? 赤魔導士。誰かの気配を──」
「今の俺は魔法が使えない。そういうのはお前に頼むぜ」
つい先ほどまで互いに刃を向けていたはずの魔王と赤魔導士が、まるで旧知の友人同士のように自然に言葉を交わしている。
──憎しみが、こんなにも簡単に風化するはずがない。
あの二人はまるで、殺意を向けるように仕組まれていたとしか思えないほどだった。仲間を信じることが出来ていれば、あんなすれ違いだって起きないはずだ。
「そうでしたね──。あなたと一緒にいると、ルーラの事を思い出します。まさか、あなたがルーラと出来ているとは思いませんでしたが。ルーラが爆死した事件、あの場に居たのは、私たち勇者パーティーと、あそこにいるホワイトドラゴン、そしてホワイトドラゴンを見守る吸血鬼でした」
ルーラ。我の記憶が正しければ、赤魔導士の隣にいた女のことだろう。ここに寝ている女を含め、パーティー内の女は二人だったから。
「あの場で火属性の魔法が使えたのは、俺とお前だけだ」
「ええ。古代魔法は術を描かなければ発動しませんし、あれは普通の魔法によるものでした」
「……何が言いたいんだよ」
「私は、いつ頃からか操られていたのではないかと思うのです。よく考えてもみてください。私があなたを疑えば疑うほど、あなたへの殺意が増幅して目の前が見えなくなっていった。それはあなたも同じではありませんか?」
精神干渉の魔法の類は我にはよくわからないが、闇属性の魔法である。効果はそこまで長くなかったはずだが、魔力量があれば、問題ではないし、況してや古代魔法とやらでは、普通の魔法と勝手が違うだろう。
「確かに、俺もそういう節はあった。あそこにいる男、ショウゴって言うんだけど、アイツと喧嘩して初めて自分が認識していたことは違ったんじゃないかって思うようになった」
「とはいえ、申し訳ありませんでした。私は自分で浄化魔法が使えるというのに、自分を疑おうとしなかった。おそらく、今回の相手は、十七年前のルーラの事件と同一人物でしょう」
勇者パーティーに、何らかの恨みでも抱いているのだろうか。だが——フウは関係ないはずだ。巻き込まれる理由などどこにもない。
魔王と元赤魔導士が交わす会話を黙って聞いていると、不意にツキが我に囁いた。
「ここに死体を落とすことで、我々を錯乱させようとしているのなら——、吸血鬼もまとめてここに落としていると思うのです。相手は我々をどこからか見ている。そうでなければ、あの冒険者を正確に狙い撃つことは不可能でしょうし」
吸血鬼が既に襲撃を受け、我々と合流できない状態に陥っているとしたら、今の状況に対して辻褄は合う。だが、もし本当にそうならば、敵は吸血鬼の死体もここに投げ捨てるはずだ、という考えは確かに正しいようにも聞こえる。
吸血鬼が居ないという事実は、我らにとって致命的だった。治癒系の魔法まともにを扱える者がいない。傷を負えば、それで終わる。
我らが今こうして生きているのも、吸血鬼があの時救助に入ってくれたおかげであり、どんな魔族にも代わりが務まらないほど、圧倒的な魔法のおかげだった。
それが居ない。ただその一点がどれだけのことか。吸血鬼が死んだと分かれば、もう希望など残らない。その事実を突きつけられた瞬間、我々はきっと崩れる。敵はそれを理解していないはずがない。
ここで皇帝の死体を真っ先に見せつけ、心の奥底に眠る弱さを暴くように揺さぶってきたのだ。
「そういえば、あの冒険者、何者だよ。てっきり俺はお前の手先か、ユーカの昔の仲間だと思ってたぜ。でも、ユーカはそういう話もしていなかったし」
「まさか、気付いていないんですか——?不覚ですが、初めてあなたが言った事に同感しました。彼女は本当に元魔王なのですか?」
「いや、間違いなく魔王なんだよ。記憶もあるみたいだし、紫龍やホワイトドラゴンと交流しているのが何よりの証拠だ」
「彼はそこまで脅威になると思っていなかったので、放置していましたが——。彼は元四天王の一人、悪魔ですよ。私の心眼魔法で見たので間違いありません。そうでなければ、普通の冒険者がこんなところに居るわけないでしょう?」
その瞬間、我の体は硬直した。ツキはフウの正体が悪魔であることを知っていたようで、ツキはそっぽを向いた。
魔王と元赤魔導士の会話は幸い小声で、ユーカには届いていないようだ。だが、そのことがむしろ恐ろしかった。ユーカはこのことを知っているのだろうか?矢が刺さっている位置は間違いなく魔石。魔石を砕かれた魔族が生きているはずがない。
ユーカは悪魔の所在を知らないと言っていた。あのダンジョンを攻略したときも、フウ側から悪魔に関する話など一切なかったはずだ。
フウは、ずっと我を支えてくれた。冒険証を作れたのも、ツキと邂逅できたのも、あの妙に整った立ち回りがあったからだ。そうあまりにも我々に都合が良すぎたのだ。
普通の冒険者があそこまでするだろうか?ポーションの量も、あの時ツキと交えていた力も、どれもBランク冒険者の立ち回りではなかった。
違和感は最初から存在していたのだ。それを、都合よく見ないふりをしていただけであった。だが、奴が悪魔だったと、それを知ったうえで、ユーカは知らないふりをしていたのだろうか。
それとも、悪魔だと気づかずに、お世話になった人として、接しているのか。今のユーカが酷く小さく見える。伝えた方が良いのだろうか、フウが悪魔だって、教えた方が——。言葉にならない焦燥が、我の頭を巡らせた。
「彼の事はどうか、教えないであげてください。彼が言っていました。ユーカ様とは人間として接したいと」
「あの二人の間に何があったかは知らぬが、きっと何か思うことがあるのじゃろう」
我は、ツキの傍を離れ、魔王の近くに寄った。
「何をコソコソ喋っているのじゃ?」
「紫龍、あなたは彼女のお友達を守るのではありませんでしたか?」
「そうじゃが、あそこにはツキもおるし大丈夫じゃろうと。それより、我が聞きたいことは一つなのじゃ。お主の前世は勇者なのじゃ?」
「ええ、そうです。あなたの主を殺したというのは、あなたにとってはあまりよい気分ではありませんよね」
魔王はあっさりと肯定した。魔王の正体は勇者の成れの果てであるという話があったが、どうやら本当らしい。勇者が魔王を殺す。それは当たり前の話として分かっていたつもりだ。だが、殺した当人が、こうして平気な顔で告げるのを聞くのは、思いのほか堪えた。
「そうじゃな。じゃが、魔王が勇者の生まれ変わりであるというのが本当なのか知りたかったのじゃ」
我は、自分の声がかすかに震えているのを自覚した。我が長年、恨んでいた暴虐な魔王も、元は勇者であったというのか。人間からしてみれば勇者は希望そのものだろう、そんな役回りをしていたやつが、人間に残虐行為を働いていたというのか?
「我は、ユーカの前の魔王を殺すために四天王になった。まぁ、残念ながら我が四天王となったときには、魔王は死んでしまったが」
「魔王を殺すだなんて、魔族にしては珍しいこと考えていますね。魔王が六属性扱えて、魔力量も桁違いであることは知っているでしょう?」
「我の同胞をそやつは殺したのじゃ、まだ年端も行かぬ龍も大勢おった」
我は、どこにも当たれなかった、怒りとも悲しみともつかぬ、押し殺した感情をむき出しにした。
ユーカはどこまでも優しいから、我はユーカが魔王の頃、この話をユーカにしてこなかった。今でさえ、ユーカに打ち明けたことを少し後悔していた。ユーカに言っても、どうしようもないのだから。
「じゃから、我はユーカみたいな魔王がとても好きじゃった。魔族領の隅々まで気配って、種族間での争いごとも消えた。弱きものも、みな平等に接してくれた。そんなやつ、初めてじゃったから」
失われた安寧を悼むように、ひどく優しく、そしてどこまでも悲しかった。ユーカの治めた魔族領。その温かな景色は、もう見ることが出来ない。それならば、せめて今の魔王が統治するときには、同じようなことをしてほしかった。
「それは——悪いことをしましたね。これは一、勇者としての戯言ですが、人間には魔族を殺さないと手に入れられない物を必要としているのです。魔族と人間、両者は相容れることのない存在なのは理解していただきたい」
「魔石は人間にとって必要な物だった……と」
我は驚いた。冒険者が魔石を取る理由は人間にとって魔石が必要だったから。冒険者が危険を冒してまでも魔族を殺すのには、そんな理由があったのか。
それでは、一生、ユーカが願っていた人間も魔族も争わない世界なんて訪れることはない。
「それじゃあ、お主らは、人間が多少死んでも良いから、魔族と争える世界の方が良かったとでもいうのか」
「人間は死んでほしくない。それは綺麗ごとだ。魔石を手に入れるために魔族を殺すのだから、犠牲くらいは承知している」
ハルトはそう言った。
「魔石が手に入らないとなると、既存の魔石の奪い合いで人間同士が争うことになります。結局何をしても争いは避けることが出来ないのですよ」
「ただ、ユーカがもっと人間側のことを知っていたら、それも何とか出来るんじゃないかって思ってしまうんだよ」
この先に待つものは、決して明るいものではない。でも、ユーカが居たら、それも何とかなるんじゃないかって思ってしまう。それは我も一緒だ。魔法が使えぬというのに、ユーカが居たからここまでこれたとも思う。
「正体不明の奴に関しては、私がなるべく相手します」
「頼んだのじゃ。我は水属性の魔法しか使えぬ。お主の魔法の方が敵を探すのは得意じゃろ」
我はショウゴと呼ばれていた男のもとへ戻ろうと歩を進めた。
その時だった。
「……っ」
振り返った瞬間には、もう遅かった。
「ゲホッ」
音はまるで無かった。ただ、何かが砕け散る生々しい感覚だけがあった。我は前へよろめいた。
胸を押さえる手に、生温い血が溜まった。鉄の匂いが鼻を刺す。流れ出す血が、指の隙間をじわりと抜けていく。
これは、先ほどの魔王からの魔法を浴びた時とは根本的に違う。死が迫ってくるような感触だ。
我は視界に映ったユーカを見て思った。今度はユーカを失う前でよかった。今度こそ、お主を守ることができたかもしれぬ。
十七年間、ずっと魔王様が死んだときのことを思い出しては、あの時、何かできたのではないかと自分を責めた。それをようやく返せたのかもしれない。
「ユーカ……、また会えて……とても嬉しかったのじゃ」
脚から力が抜け、視界が傾く。
遠くで、ユーカの声が聞こえる。その声が我を呼ぶたび、胸がひどく苦しくなる。
視界が闇に滲む。ユーカの姿が近づいてくる。最後に見た景色が、それでよかった。我が、仕えた魔王様に看取られるなら、本望だ。
「敵がどこかに居るはず、魔王、あなたなら探せるでしょ」
「先ほどから探しています。ですが——」
「気配すら感じませんね。アメリアが倒れるまで、アメリアが刺されたことすら気付きませんでした」
意識が深い闇の底へと落ちていく。
我の視界は完全に閉じた。
「アメリア!」




