7話
「ただいま」
扉を閉めると、部屋の奥からか細い声が返ってきた。
「おかえり」
カホは私の顔を見た途端、表情をわずかに緩めた。安堵――というより、張りつめていた何かが緩んだようにも見える。半日以上も戻らなければ、少しは不安にもなるだろう。
私は手にした古着を無言でタンスに仕舞いながら、どう話しかけたものかと考えていた。黙っていたほうが楽だが、カホは私からの言葉を待つかのようにこちらをじっと見つめている。
「カホは、外には出なかったの?」
「うん。ユーカちゃん、すぐ帰ってくるって思ってたから」
言葉の端に、どこか幼さが残っていた。そういえば、私はカホにどれくらいに帰るとか何も伝えないまま出てしまったのを思い出すと胸の奥に微かな痛みが走る。
「町並みを見ていたら遅くなっただけ。思ったよりもいろいろな店があったよ」
「そうなんだ。明日、私も出てみようかな。あの……魔族?魔物?とか、いないよね?」
「町には、それらしい姿は見かけなかった。だから、たぶん大丈夫」
「よかった。私、魔法とか使えないし、どうしようかなって」
カホは俯きながら、手をきゅっと握った。カホは絵を通してしか、この世界を知らない。得体の知れない存在に囲まれていると想像するだけで、きっと恐ろしいのだろう。
「大丈夫。町の人たちは平穏だった。誰も、何かに怯えてる様子はなかったよ」
「なんだか、勇気出てきたかも。言葉、通じないけど買い物って、できるのかな」
「まぁ……金さえ払えば、何とかなるものだよ」
笑うでもなく、突き放すでもなく、私は曖昧に答えた。
そして、私たちは夕飯を揃って食べた。食堂にショウゴやハルトの姿はなかった。そもそも合流する約束もしていないし、今頃自由にこの世界に順応しようとしているだろう。
温かいものを口にしているというだけで、少しだけ心が和いだ。けれど、心のどこかがざわついたまま、完全には拭い去れないものがあるのもまた、事実だった。
部屋の中は、息を潜めたように静まりかえっていた。カホはすでに布団に入って眠っている。私はただ、窓から見える夜の街を眺めていた。
どうして、こんなにも平和な町に、私たちは呼ばれたのだろう。瓦礫もなければ、焼け落ちた家もない。兵士たちが慌ただしく行き交う気配も、恐怖におびえる住人の顔も、見当たらなかった。魔族との戦いなんて嘘みたいに平和な空気が流れていた。
もしもここが、火急の戦地で、人手が足りず、猫の手も借りたいような状況であるなら、誰かを呼びたいという気持ちは少し理解できたかもしれない。
あの赤魔導士の書物も、どうにも気になっていた。赤魔導士と聞けば、ふつうは役職のようなものだと考えるはずだ。だが、私はなぜか、そうは思えなかった。それが誰なのかは分からないが。
そんな思考の渦に沈んでいたとき――かすかな衣擦れとともに、声がした。
「ユーカちゃん、まだ起きていたの?」
振り返ると、カホがぼんやりとした表情でこちらを見ていた。
「起こしちゃった?」
「ううん。月の光が綺麗だなって。星も、こんなに綺麗。トウキョウじゃ見られない景色だよね」
私はしばらく言葉が出なかった。確かに、夜空は美しかった。トウキョウは街灯やら家の明かりで星が疎らに見えるくらいだった。素人目でも分かるくらいその夜空は美しかった。
「そうだね」
ここが地球と別の星だとしたら、地球では見られない星もあるのだろうか。私はそう思いながら眠りについた。