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45話

 これは、俺が悪魔として四天王になるずっと前の話だ。


 目を開けたとき、そこは魔族領の森だった。肌を刺すような冷たい風と、荒れ果てた草木の中に身を隠すように倒れていた。俺の身体には何も纏うものがなく、持ち物すら一つもなかったらしい。


 そして何より、俺は自分が誰なのか分からなかった。名前も、過去も、何もかもが霧に閉ざされていた。口を開こうとしても、声は掠れ、言葉にならない。


「君は……」

「なんだ?その男、冒険者か?」


 耳に届いた声と共に、俺を囲んだのは人間だった。だが、その視線には敵意よりも困惑の色が濃かった。こんな場所で全裸の男が倒れていたら、こんな反応になるのも普通だ。その中で、ひときわ印象的な眼差しを向けてきたのが、セネトだった。


「記憶喪失か。何故ここにいるのかも分からないと……鑑定魔法でも使えたら冒険者ランクも推測できるんだけどな」


 彼女は小さく首を傾げ、俺を観察する。俺の褐色の肌と黒い髪。角も翼もなく、人間と変わらぬ姿。だからだろう。誰も俺を魔族とは考えなかったし、俺自身もずっと人間だと思っていた。


 魔族とは忌むべき存在である。人間と魔族には埋まることのない溝があって、両者は長い間、互いに殺し合ってきた。もし俺が魔族のような見た目をしていたらこんなことにはならなかっただろう。


「名前が無いと不便だろう?……ダイって名前はどうだ?ダイスからきているんだ」


 彼女は迷いもなく言った。軽い冗談めかした響きなのに、その一言が胸の奥に深く突き刺さった。


「ダイ……」


 掠れた声で繰り返すと、彼女は安心させるように笑った。


「私はセネト。ペリドット王国のBランク冒険者だ」


 笑顔は柔らかく、眩しかった。記憶を失い、何もわからない俺にとって、その笑顔だけが唯一の拠り所のように思えた。


 それから数日。ペリドット王国の北方ギルドにたどり着いた冒険者たちは、俺を仲間として迎え入れた。セネトは固定パーティーを組んでおらず、人数合わせのために自分のランクよりも一つ上のAランクパーティーに身を置いていたという。


「魔族領にいたってことは、冒険者なんだろうな。とりあえず冒険者証を再発行すれば、適性も魔力量もわかるはずだ」


 そう言われ、俺はよく理解できないまま木の板のようなものに手を当てた。目覚めて間もない俺には、これがどんな意味を持つものなのか分からなかった。


「この板は魔法の適性と魔力量を測定する機械だ。基本的にここで測定された魔法の才から冒険者ランクが決まる。ふむ……風属性、魔力量四十一か。私と同じBランク冒険者だな」


 セネトが冒険者証を差し出し、微笑んだ。俺の胸の奥に温かいものが広がる。出会って間もないというのに、セネトの笑顔を見るだけで安心していた自分がいた。


「魔法っていうのは、イメージが大切だと聞いたことがある。風属性だと……びゅーって感じ?」


 セネトは真面目な顔で言うが、その説明はあまりに大雑把すぎて思わず苦笑した。


「相変わらずセネトって教え方下手だよなぁ。うちのパーティーには風属性の奴が居ねえから、魔導書を読んだ方がいいぞ。大体のイメージと詠唱が載っているからな」


 別の冒険者が呆れたように笑い、俺は曖昧に頷いた。


「なるほど……」

「それにしても、倒れていた時はどうなるかと思ったが、元気で何よりだ」


 何気なく向けられた言葉だったが、俺は記憶喪失がいかに恐ろしいかという現実から目を背けていただけだ。自分が魔族領で倒れていたというところから冒険者ではないかという理屈は理解した。魔族領に入るには冒険者証が必要になるからだ。そして冒険者は魔族領に入るとき必ず複数人でなければならないのだ。つまり、俺以外のパーティーメンバーがいるはずなのに近くにはいなかった。俺は記憶を失っている為そのメンバーすら分からない。俺は時間が経つにつれて、この空間に慣れていくのが怖かった。セネトが居て、他の冒険者とも楽しくやって。俺だけがそんなことをしてよいのかと思ったこともあった。


「あの、お聞きしたいのですが、何の依頼で魔族領に居たんですか?」


 俺はセネトが臨時で入ったAランクパーティーのメンバーの一人に聞いた。どうやら冒険者パーティーというのはプラスマイナス一ランクまでの冒険者同士でしか組めないという。例えばAランクのパーティーならSランク冒険者からBランク冒険者までで構成するということだ。


「少し前に魔王が討伐されたのではないかという噂が流れてな。だが、どこの国も魔王の魔石を持っていない。だから、魔族の動きの変化を見て本当に討伐されたのか確認しに行っていたんだ。同時期に多くの冒険者がその依頼で魔族領に入っていたと思うから、君もその一人かと思ってな」


 魔王。その名を聞くたび、胸の奥がざわつく。理由は分からない。魔王を討伐できるのは勇者くらいだと言われているが、勇者が魔王を討伐したら魔石を回収しているはずだ。


「これは俺の予想だが、魔族内部で争いがあったんだろう。千年近く君臨した魔王の最後は、あっけないものだったな」

「勇者が討伐したということは本当にないんですか?」

「少し前にダイヤモンド帝国が勇者パーティーを作ったらしいんだが、肝心の勇者が逃げ出したんだよ。当時は大分批判があったものだ。その勇者が今もどこかで冒険者をやっているならありえない話ではないけどな」


 勇者が逃げた?その言葉は妙に胸に引っかかった。



 それからの日々、俺は『ダイ』としてペリドット王国でセネト達と冒険を重ねた。何故だかセネトとは妙に意気投合し、彼女は時折、姉のように俺を気遣った。俺にとってのセネトは恩人だ。名前を与え、居場所を与えてくれたのだから。


 時間は必要なかった。気付けば俺は次第に彼女を慕い、彼女の笑顔を支えにして生きていくようになっていた。ずっとこのままセネトと一緒に冒険を続けたいとまで思っていた。


 俺はそんなセネトの期待を裏切らないように魔法やこの世界のこと、歴史を学んだ。何故だかそれらは最初から刻まれていたように頭の中に入り込んでいった。


 だが、その穏やかな日々は長くは続かなかった。ある日、ギルドの空気を一変させる知らせが届いた。


「緊急伝令だ。ダイヤモンド帝国から北方に三百キロ付近にドラゴン出現。Sランク依頼書だってよ」


 場がざわつく。低い唸りのような声があちこちで漏れる。


「魔王が討伐されたっていうのは嘘じゃなさそうだな」

「ああ。ドラゴンまでが暴れ始めたか——」


 冒険者たちは口々に言った。魔族の動きの変化で魔王が討伐されたかどうかは分かる、どうやらそれは本当らしい。


 その言葉を聞いたセネトの瞳は揺れていた。怖れか、興奮か、それともその両方か。俺にはセネトが何を考えているか分からなかった。セネトはBランク冒険者。Bランク冒険者はどんなに頑張ってもAランクの依頼を受けるのがやっとである。それはギルドの規定にも書かれていることだ。


 そして今回の依頼はSランク。討伐対象はドラゴンだ。魔族の中では高等な種にして高い魔法の才を持った者。そこら辺の冒険者が束になったところで無残にやられるだけだ。


「前に話したかもしれないが、私には大切な人がいた。ひとりぼっちだった私の人生を色づけた人だ。いつも遊んでくれて、色々なことを教えてくれた」

「確か名前は——」

「この世界を一緒に見て回ろうって、何十年経っても、生まれ変わっても、絶対に一緒にいようって約束をしたんだ。どれだけ姿かたちが変わっても、私が見間違えるわけがないだろう」


 セネトは顔を赤らめた。


「ダイ、ここで待っていてほしい。ドラゴンの件を片付けたら、また一緒に冒険しよう」


 そしてセネトは俺の目の前で姿を変えた。何色にも形容しがたい綺麗な髪色の女性がそこにはいた。


「ありがとう。また、私に出会ってくれて」


 水属性しか使えないはずの彼女は、その場で転移した。眩い光、それは光属性の転移魔法だった。周りの冒険者たちもその光に気付いたのか、こちらを見た。


「あの姿、勇者じゃねえか?」

「ダイヤモンド帝国から逃げたとかいうやつか?」

「生きてたのかよ」


 セネトは擬態魔法を使って別の人間になっていたらしい。その擬態を解いた姿はまるで勇者そっくりだというのだから、おそらく勇者なのだろう。だが、そんなセネトに対して、冒険者たちは散々な言葉を吐いた。


「どうして、そんなことが言えるんですか?」


 俺は何故だかそれが無性にムカついて、気付けば冒険者たちに向かって大声で怒鳴りつけていた。


「勇者だとか、そんなこと関係ありますか?勇者だからなんですか、勇者だって一人の人間です。逃げたくなることや嫌になることもあるでしょう。勇者に生まれたらずっと勇者でないといけないなんてことは無いと思います」

「確かにお前の言うとおりだな。勇者も一人の人間だ」


 Aランクパーティーの一人が俺の肩に手を置いた。


「今は彼女に託すしかない。ドラゴンというのは一体でもSランク冒険者数人で倒すようなレベルだ。無事だと良いが」


 今初めてセネトが勇者であるということを知ったというのに、俺は何だかセネトが負ける気がしなかった。そして心からセネトの帰りを待つのだった。あの時のセネトの真剣な目、そしてあの言葉。セネトが離れるのが怖い。セネトを失いたくない。


「大丈夫、大丈夫……」

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