31話
数時間はもう歩いただろうか。時間の感覚すら曖昧になりつつあった。ダンジョンの空気は少し湿っており、岩壁から滴り落ちる水の音が響いてこだましていた。それが余計に、このどこか不安になるような空気を悪化させている。
このダンジョンはどうやら相当に深いものらしい。既に何階層にいるのか、我には分からなかった。ただ、時折転がる魔族の死体を目にすると、先行した冒険者たちが戦った痕跡だと知れる。もっとも、そこにあるのはゴブリンやスライム、スケルトンといった下等な魔族ばかりであった。本来これらの魔族は群れで行動することが多い。ここに迷い込んだ魔族とも考えられるか。
「雑魚ばっかりだな」
誰かが吐き捨てるように言ったが、その声には妙な張り詰めがあった。軽口で場を和ませようとしたのかもしれない。
「今の階層は?」
「五階層です」
「深いな。嫌な感じだ」
それ以上は誰も言葉を継がなかった。重苦しい沈黙が降り、ただ足音と水音だけが支配する。やがて人の流れが止まった。どうやら小休止を取るらしい。少し広間になった場所に腰を下ろすと、火属性の冒険者が炎を灯した。ずっと歩き続けていたからか、我は腰を下ろす。足が棒のようになってもう一歩も動けない。
「ただ歩くだけが一番きついな」
「そうですね。皆さん、食料は?」
軽い会話で場を和ませようとしているのは分かる。だが声は乾き、笑顔も引き攣っていた。我らのグループの一人が闇属性の収納魔法で食料を取り出した。マジックバッグとは収納魔法が使えぬ冒険者のために用意された魔道具である。人間には闇属性を持つ者は少ないという話だったが流石はSランクパーティーである。
我の食料についてはフウがマジックバッグから菓子やら料理を取り出してくれた。
「いただきますのじゃ」
甘味は確かに美味で、ユーカの作った菓子とは異なる柔らかさがあり、懐かしさを感じる。これもなかなか美味しいものだ。
そんな中、フウが静かに口を開いた。
「先ほどからずっと試しているのですが、転移魔法をはじめとした風属性の魔法が、一切使えないんです」
広間にいた全員が一斉に顔を上げた。
「っ、本当か!」
今回の冒険者たちを率いるリーダー格のヘスが声を荒げた。
「本当ですね……ここまでの道中、魔力を温存して剣を使っていたので気づきませんでしたが、風属性が発動できません」
「火と闇は使えるだろうから……水、土、光も試してみろ」
次々と試される初級魔法。水と土は発動した。だが、光属性の冒険者が青ざめた顔で立っている。
「嘘ッ……使えない」
その一言が落ちた瞬間、広間の空気が凍りついた。
「治癒系が……使えねえのか」
「ポーション頼みってことか。数は足りるか?」
さざ波のように、不安が広がっていく。
「転移魔法を封じるためだろうな」
「つまり、このダンジョンからは……途中で逃げられないってことだ」
誰かが低く呟く。その声は炎に妙に大きく響いた。
「引き返そうぜ。どう見たってヤバいだろ、これ」
立ち上がった冒険者が一人、広間を飛び出していった。足音が遠のいた。だが、少し経つと足音が次第に大きくなっていく。なぜか戻ってきた彼の顔は青ざめ、額には冷や汗がびっしりと浮かんでいた。
「……道がない」
「は?」
「来たはずの道が、ねえんだよ。まっすぐだったはずなのに、壁になってやがる!」
その男の発言を信じなかったSランクの冒険者たちも、軽口をたたきながら道を引き返すが、やがて同じ表情で戻ってきた。蒼白な顔、震える唇。焦燥感がひしひしと伝わってくる。出口は閉ざされた。その事実だけが、重苦しい沈黙の中に残された。
休憩を終えた我らは、再び列を成して進むしかなかった。誰一人口を開かず、先ほどまでの賑やかなムードは一転していた。靴音だけが石畳に乾いた響きを刻み、暗闇に吸い込まれていく。涙を堪えている者もいた。先ほどまでの勇ましさは影もなかった。それは我の前に歩くアメシスト一の冒険者パーティーも例外でなかった。
時間の感覚はとうに失われ、階層が幾つ目かなど数える余裕もなくなっていた。少し眠り、少し食べ、また歩く。繰り返すうちに、まるで終わりのない世界をさまよっているかのようだった。
そして——広間だ。数階層ごとに必ず現れるその場所に辿り着いた時、誰もが心底安堵した。
「広間だ……」
「休憩だな」
安堵の吐息が漏れた。そして列の最後尾が広間へ足を踏み入れた途端、空気が一変した。目に映る景色が一変した。足元がゆっくりと崩れて我らは見知らぬ場所に落ちて行った。だが、さすがは冒険者である、皆落下時にある程度受け身を取っているため、無傷とはいかなくとも、大きな怪我はしていないようだ。
「っ……なんだ、ここは……」
広間の奥に現れたその人影を見ると、冒険者の誰もが息を呑み、言葉を失う。背に大きな翼をもった、その人影は緩やかに歩み寄ってきた。空気が歪み、視線を向けるだけで胸が締めつけられる。鳥肌が立ち、呼吸するだけで苦しくなるような、そんな状態だ。誰一人として動こうとしないのではない。動けなかったのだ。
「……どうやら、このダンジョンのボスみたいだな」
空気が張り詰め、何人かの冒険者は震えながら魔法を唱える。ここにいる者は最低でもBランク以上の冒険者。人間の中では相当魔法の才があるものが揃っているはずだった。
次の刹那、光のようなものが走った。それは剣の軌跡だった。先頭にいた冒険者が何かを叫ぶ間もなく、その身体は壁に叩きつけられ、骨の砕ける音が広間に響いた。防御魔法も無意味だった。盾を掲げた冒険者は盾を一刀両断され、おそらくかなり高ランクの魔法の詠唱を試みた冒険者は体ごと蹴り飛ばされ、途中で詠唱は中断された。
「速い」
誰かの呟きが途切れる。速い。そんなレベルではない。あまりに早すぎて目で追えない。空間ごと切り裂かれているかのようで、剣を振ったかどうかさえ分からなかった。冒険者たちは目の前の存在に恐れ、後退した。だが背後には壁しかなく、逃げ場はどこにもなかった。進む道も戻る道もない。唯一抜け出せるとしたら、我々が落ちてきた天井だろうか。風属性も光属性も使えぬ今、逃げる手段を絶たれた我々に残された選択肢は少なかった。
「……やばいだろ、あれ」
「転移魔法……使えないなんて」
声が上がる。詠唱を紡ぐ前に、術者の手足が宙を舞って詠唱どころでない悲鳴が広間に広がる。血が噴き上がり、広間の石床を染めた。滑るような赤い光沢が床に広がり、冒険者たちは皆死にたくない一心で魔法を紡ぐ。
だが、恐怖は伝染する。泣き叫ぶ声、無意味に剣を振る声、祈る声。だがその全ては、翼ある影の剣閃の下で断ち切られる。——勝てない。抗うことすら許されない。
我はこの者を知っている。この存在はかつて四天王の中で最強とうたわれた者、言い換えれば魔王を除いて魔族の頂点に立つ者。——ホワイトドラゴンだ。かつて我が知っていた強さすら凌駕しているが、魔族で人の形をとって剣で戦う者など彼しか考えられない。
ここは戦場ではない。処刑場だ。それほど圧倒的な力の差を感じる。
我は唇を噛みしめた。同じ魔族であるはずなのに震えが止まらない。胸の奥で、絶望が泥のように広がっていく。
「不可能じゃ。奴を倒せるのは勇者くらいなのじゃ……」
誰に向けるでもなく、思わず言葉が零れた。




