2話
「……ここは……?」
最初に声を発したのは、鈴木将吾だった。その声は石造りの空間に鈍く反響し、空気を微かに震わせた。
私達は先ほどまで教室にいたはずだった。朝の始業を待つだけの退屈な時間、誰もが自分なりの時間を過ごしていた。
それが、ほんの刹那の光と共に断ち切られたのだ。
「……なんだ、ここ。城か?」
田中晴人が低く呟き、重くなった足を引きずるように一歩を踏み出す。その視線の先に広がるのは、高天井、煌びやかな彫刻の数々、そして歳月の重みを抱いた赤褐色の絨毯だった。現代の日本では考えられないような建物に迷い込んだような異様な空間が、冷えた空気と共に眼前に広がっていた。
「これは夢……?」
しかし頬を刺す冷気、足元から伝わる石の硬さ、そして血の気の引くような不穏な静寂が、ここが夢ではないことを無言で突きつけてくる。
「他に、人影はありませんね」
沈黙を破ったのは高橋夏帆だった。声には不自然な落ち着きがあったが、その手は微かに震えていた。彼女の言うとおり、四人以外の気配は感じられない。転移に巻き込まれたのは、どうやら私たちだけのようだ。
転移――その言葉が頭に浮かんだ瞬間、内側で何かが軋むように疼いた。
時空を歪め、周りの机や荷物などを除いた人間だけをこちらに引き寄せるなど、自然現象であるはずがない。これは――何者かの、明確な意思によるもの。そんな確信だけが、皮膚の裏側を這うように冷たく這いまわる。それはまるで私が死に、佐藤優香として地球に転移した時を彷彿とさせる。
軋むような音もなく、扉が開いた。
向こう側から現れた女は、深紅の髪を垂らし、真っ赤なバラのような色の瞳を持ち、整った顔に微笑を浮かべていた。その身を包む麗しいドレスと身に着けられた宝飾は見る者の神経を鈍らせるほどの威圧感を孕んでいた。彼女はそうしてゆっくりと近づく。
「……目覚められましたか」
その声音は静かだった。
「……このたびは、突然の召喚、大変申し訳ありません。こちらの不手際により、貴方方をこの地――ガーネット王国へお招きしてしまいました」
――ガーネット王国。私の前世の世界にも同じ名前の国があった。東方に位置する、小国だったはずだ。そして何より彼女の話す言葉は私の記憶を深く抉った。
目の前の女が話しているのは、この世界の共通語――かつて私が生きた世界の言語だったのだ。魔王として約300年近く慣れ親しんだ言語は不思議と安心させてくれた。相手がたとえ人間族であったとしても。
「安心なさってください。元の世界への帰還手段は、我が王国が責任を持ってお探しいたします」
女は頭を垂れた。こうして私は意図せずとも前世の世界に戻ることになったのだった。
「……何か話してるけど、日本語じゃないな」
「英語でもないわね」
高橋は震えを隠そうとするように、無意識に自らの腕を抱きしめながら言った。ただでさえ知らない土地に飛ばされて、この三人にとっては知らない言語で語りかけられているのだ。
「それにしても……瞬時に、場所が変わるなんて、ゲームやファンタジーによくある魔法みたいだったけどな」
田中は二人が困惑しているのを見て励まそうとしたのか、無理に話題を変えた。
「瞬間移動……か、確かにRPGとかではよく聞くが」
会話がそれ以上続くことは無く、二人は言葉を失った。これが夢なら、目覚めたいと強く願った。だが頬を打つ風の冷たさはあまりに鋭く、現実であることを否応なく突きつけていた。私以外の三人にとっては見知らぬ世界。言葉も通じず、常識も通用しない異国の地に、投げ出されたのだから。
「……もしかして、言葉が通じていないのでしょうか?この方達にとっては、ここは異世界。その言語体系が違っていても不思議じゃない」
私たちの発せられる言葉を聞いて、女は首を傾げた。言葉が通じないというのはかなり不便なものだ。とはいえ、私がここで急に会話を成立させてしまえば、ただの人間である三人は不信感を抱くだろう。
「絵描きに頼んで、状況を絵で伝えてみましょうか?」
「ええ。妙案です。それが一番誤解が少なく伝わるでしょう」
女は後ろに控えていた側近らしき人物と話すと、数分と経たぬうちに、一人の男が現れた。粗く削られた木板と、炭のような筆記具を手にしている。彼は黙々と板に描き始めた。絵には、角の生えた黒い影と、人間の姿をした者たちが対峙していた。
「この世界には、魔族と人間族が存在し、両者は長きにわたり争いを続けております」
女の側近らしき一人が、地図を広げながら説明を始めた。羊皮紙に描かれたそれは、単一の大陸を十三の領域に区切って示している。
「今、皆様がいるのは、大陸の最東に位置するガーネット王国と呼ばれる地です」
皆で地図を覗き込んでいると、高橋が小さく呟く。
「……まるでパンゲア大陸みたい。地球の地形とは似ても似つかないけれど」
「この一際大きい場所は魔族の住む魔族領です」
彼らは地図の北端を指差した。その指先には、赤黒いインクで縁取られた不気味な領域。絵描きはそこに、禍々しい角と鋭い爪を持つ悪魔の姿を描き加える。
「正確な形などは分からないのですが、魔族領は非常に広く、ここでしか取れない貴重な素材などもあります」
地図上で魔族の領域は、ガーネット王国を遥かに凌ぐ広さを誇っていた。実際私が魔王をしていた時代とさほど地図は変わっていないように見える。変わっていないのだとしたら、魔族の住む魔族領は人間族の領地の何十倍もの広大な敷地を持っているというのは事実である。
「時折、この魔族領から魔族が人間の住む地に侵攻し甚大な被害を与えています。ガーネット王国は幸い魔族領と接していないので、歴史的に見てもそのようなことは殆ど無いのですが」
人間族と魔族は敵対していた。正確には、人間側が勝手に団結して魔族を敵としていたという見方が正しいような気もするのだが、いずれにせよ、両者の溝は深かった。私が魔王として魔族を統制していた頃はなるべく人間族と干渉しないように様々な策を講じていたわけだが、魔族と人間族の争いはその時代の魔王の意向が大きい。魔王が人間を滅ぼそうなんて考えれば一日でこの地は焼け野原にできるくらいには。
「そしてこの世界には、六属性の魔法が存在します。火・土・風・水――そして光と闇。人間族には、主に始めの四属性の適性が見られます」
絵描きは順にそれぞれの魔法を象徴する絵を描いていく。
「……これって、ゲームでよく見るやつか?」
「属性ってこと?」
三人は戸惑いつつも徐々に順応していくように絵を見ている。戸惑うのは仕方がないが、とりあえず現実を飲み込もうとしている姿勢が伝わる。私にとっては常識であっても、この三人にとっては未知の話だ。それはまるで、私が地球で赤子に転生した時のようだった。