19話
多少なりと計画に変更はあったが、私は無事にお菓子を手に入れることができた。後は紫龍に会うだけ。順調すぎる流れに、逆に胸の奥がざわつく。こういう時は決まって、何か予期せぬ事態が起こるものだ。
「ギルマス、そろそろ交代の時間だと思うのだが」
「もうそんな時間か……シュガー、頼んだぞ」
ギルマスはそう言って、まるで力尽きるように寝床へと倒れ込んだ。龍と一戦交えた身体は、いくら鍛えていても疲弊するだろう。今はそれでいい、寧ろ深い眠りについてくれた方がありがたい。
私は寝息を確かめ、音を殺して歩き始める。夜気は肌を刺すように冷たい。焚き火から離れるにつれ、あたりは暗く、月の光だけが頼りになった。ある程度離れたところで洞窟まで一気に走る。
洞窟の中へ入ると、やはり他の魔族の気配はない。あの広間まで進むと、そこには紫龍がいた。果物を噛み砕いている音だけが反響している。
「むひゃっ……! 人間!」
不意を突かれたのか、龍の紫の瞳がぎらりと光る。次の瞬間、丸まっていた身体が宙に浮かび上がった。全長二十メートルを超える巨体——先ほどは全体を掴めなかったが、今は月光が鱗を鈍く照らし、その硬質な輝きが一層恐ろしさを増していた。
「紫龍。私は戦いに来たのではない。もしよければ……これを食べてくれないか」
龍と会話しようとする人間など、普通はいない。だが、この龍がかつて私の臣下であったことは、頭の髪飾りを見れば明らかだった。ならば昔と同じように、魔王としての私で接すればいい。魔王だった頃の記憶が今この瞬間のためにあるのだと錯覚するほどに、私の心は高鳴っていた。
「これっ……どこで、このお菓子を?」
紫龍の殺意がふっと消え、その視線が菓子に釘付けになる。そして、巨体がゆらりと揺らぎ、気づけばそこには少女の姿があった。髪飾りで人間に擬態したのだ。
「よく魔王様が作ってくれたお菓子に似ておる……。我は、この味が好きだと、よく魔王様にわがままを言って作ってもらっていたのじゃ」
私は深く息を吸い、真っすぐに告げた。
「紫龍、よく聞いてほしい。私は——死んだらしい。そして、なぜか魔王としての記憶を持ったまま、はるか遠い別の世界で人間として生まれた。そして巡り巡って、この世界に再び戻ってきた。信じてもらえるとは思わない。それでも、かつての四天王、紫龍に再び会えて、私は嬉しい」
紫龍は黙って菓子を口に運び、そして私を見た。その瞳に映るのは、私の事を警戒しているのか、それとも魔王であると確信したのか、どちらなのかは賭けだった。私はそれでも逃げずに、これまでの出来事を洗いざらい語った。
「なるほどなのじゃ。つまり、魔王様は死んだ後、日本という魔法がない世界で人間として生まれ、そして何故かこの世界にまた戻ってきたが、魔法を一切使えないのは変わらず……そういうことじゃな?」
「ああ。私にもよく分からない。紫龍に会うまでは、ここが私の死後の世界なのか、それとも死ぬ前の世界なのかさえ判断できなかった。あの日から、どれほどの時が経ったんだ?魔族は随分と様変わりしているようだが」
「我はもう四天王ではない。だから、今の魔王がどんな性格をしているのかも知らん。ただ話を聞く限り、邪悪な存在であることは間違いなかろうな」
紫龍は、今は四天王を辞めているらしい。そのため、今の魔王の素性や意図も掴めていない。あわよくば情報を得られると思っていたが、それは望めそうにない。
「それなら、何故一人でいるんだ? 紫龍には故郷があるはずだろう。四天王だった頃もそうだったが、今は自由の身なのだから、戻ってもいいと思うが」
「一人の方が気楽なこともあるのじゃ。これは魔王様には関係ないことじゃ。……我は、魔王様の話を信じるのじゃ。このお菓子が証拠なのじゃ。このお菓子は街中探しても見つからなかったのじゃ」
「ありがとう、紫龍」
「きっと魔王様が記憶だけでも生きていると知ったらホワイトドラゴンたちも喜ぶのじゃ」
その名が出た瞬間、胸の奥が鈍く疼く。ホワイトドラゴン——私の臣下の一人であり、四天王の中でもっとも戦闘に長けた存在だった。もともとホワイトドラゴンという種は、非常に忠義に厚く、ドラゴンの中で最も魔法に優れた種であるという話だった。だが、私の臣下であるホワイトドラゴンは独特な戦闘スタイルを持っており、おそらく対峙すればすぐに分かるはずだ。
「あの後、ホワイトドラゴンと吸血鬼は、混乱していた魔族を統率するために奔走してくれたのじゃ。我は次の魔王が決まる前に四天王を辞したが、この二人は何事も無ければ、今の魔王に仕えているはずじゃ」
吸血鬼——魔導書を集めることを何よりの趣味としていたやつだ。おそらく四天王の中で最も古い時代から生きており、私の前の魔王にも仕えていたらしい。回復魔法を得意とし、その力はおそらく魔族領でもトップクラスであろう。私が回復魔法を使えなかった事から、回復は吸血鬼に任せていた節もある。
「……悪魔は?」
四天王は、紫龍、吸血鬼、ホワイトドラゴン、そして悪魔で構成されていたはずだ。
「悪魔は消息不明なのじゃ。魔王様が勇者に討たれたとき、悪魔は勇者を追って……人間族の領地へ行ったきり、帰ってこなかったのじゃ」
「勇者相手では、さすがに分が悪いか」
「そうじゃな」
かつての仲間たちの安否が、断片的にでも分かったことは大きい。だが、悪魔の安否が分からないというのは知りたくなかった事実である。おそらく勇者を追い、勇者と対峙して死んだのだろう。そもそも、吸血鬼以外は一度勇者に敗れている。間一髪のところで吸血鬼が救出、回復させていただけだ。
「それで……魔王様は、これからどうするつもりなのじゃ?」
「先ほど話した転移のとき、カホという女が一緒にいた。だが、彼女は魔族に襲われて今も意識不明だ。おそらく魔法によるものだが、私の知っている魔法ではなかった。回復魔法でも状態は変わらず……といった具合だ。もしかしたら吸血鬼ならば治せるのではないかと思ってな」
「なるほどなのじゃ。確かに人間族の回復魔法では限界がある。神話級の回復魔法であれば問題なかろう」
「ああ、そういうことだ」
「だが、また魔族が人間族の街に現れれば、魔王様の周りで誰かが傷つくかもしれぬ。今の魔王様は魔法が使えない。それなら、我が共に行動し、守るしかないのじゃ」
紫龍の瞳は、揺るぎのない光でこちらを見据えていた。紫龍が行動を共にしてくれるのなら確かにありがたい。だが、所詮は魔族だ。人間の街で正体が露見すれば、命の危険すらある。
「ありがたい話だが……紫龍には何のメリットもない。それどころか負担が大きいだろう。私はもう主ではない、元魔王に過ぎないのだ」
「我にとっての魔王様——それだけで十分なのじゃ。それにいつまでもこんな湿った岩穴に籠っているのも飽きたのじゃ。魔王様と一緒に居れば、またあのお菓子が食べられるのじゃ」
「……そうか。私はやはり、いい臣下を持った。それと、人前で魔王様なんて言われてしまえば、私も疑われかねない。どうか、私のことはユーカと呼んでくれ」
「ユーカ?呼び捨てなんて烏滸がましいのじゃ」
「今はただの人間だ。それでよい。紫龍も何か名前を付けなくてはな」
街中で紫龍と呼ぶことは難しい。かといって、この世界の人間族のありきたりな名前など私が知る由もない。
「アメリアとかどうだ?私のいた世界ではヨーロッパとかで一般的な名前だった」
「ヨーロッパ?はよくわからないけど、アメリアか良い名前じゃ」
私と紫龍はそのまま洞窟を抜ける。辺りは薄っすらと明るくなっていた。
「私は討伐隊と合流する。アメリアは人間族の街、アメシスト王国のギルドにでもいてほしい。町には侵入出来るか?」
「大丈夫なのじゃ。塀をちょちょいと登ればいけるのじゃ」
「分かった。それじゃあ、アメシスト王国中央ギルドで落ち合おう」
紫龍……アメリアと別れると私は焚火の前に座った。どうやら二人は寝ている様だ。フウはよっぽど疲れていたのだろう。百八十度回転しており、布が乱れていた。
「もう朝か」
ギルマスが眠そうに目をこすりながら焚火の前に立つ。その声で起きたのか、フウもこちらに歩いてきた。
「おはようございます」
「おはよう」