17話
洞窟は、あまりにも静かだった。魔族の気配は一切せず、ただ濃密な闇と冷気だけが、じっとりと皮膚に張りついてくるような、気味の悪さだ。足音が反響するたび、この静かさが更に浮き彫りになっている。
だが、そんな空間も長くは続かなかった。数十メートルも歩けば、次第に閉塞感は薄れていき、百メートルほど進んだ先で、空間は突如として広がった。天井は遥か頭上にそびえ、息を呑むほど広大な空洞が、そこには広がっていた。
その奥に、龍がいた。
紫の鱗に包まれた巨体が、岩のように横たわっている。わずかに腹部が上下しており、寝息を立てている。寝ているというのに威圧感を感じずにはいられないほど、張り詰めた空気が流れていた。
「一匹か。珍しいな」
誰かの声が洞窟内に響いた。
魔族というのは、基本的に群れて暮らす。それは龍であっても、スライムであっても変わらない。だからこそ、こうして一体だけで現れること自体、ありえない話なのだ。スライムのように知能の低い個体であれば、群れからはぐれたという説明もつく。だが、龍は違う。言葉を話すどころか、時には人間と同等に聡明だとされる存在だ。
――四天王。
その言葉が、ふと頭をよぎった。私の記憶の奥底から、嫌でも浮かび上がってくる。魔王に仕える、選ばれた四体の強者。魔族の中でも指折りの力を持ち、人間から恐れられた存在だ。四天王は基本的に各地の見回りや魔族間での争いの仲裁などを行っている。基本的には一人行動が多いため、私の臣下という話は抜きにしても、今の魔王に仕えている可能性が高い。
「四天王か……?」
誰かがそう呟いた瞬間、冒険者たちの空気が一変した。張り詰めた緊張が、剥き出しの刃のように場を支配する。流石はBランク以上の冒険者といった所か、切り替えの早さと分析が早い。
「ふわあああああ……」
眠っていたはずの紫龍が、ゆっくりと目を開いた。濁りのない紫の瞳が、こちらを鋭く射抜く。
その瞬間、私は見た。龍の頭に着けられた、あの髪飾りを。
あれは、かつて私が紫龍に与えたもの――魔道具だ。人間の街を見たいと言った紫龍に私が人間族の町で購入して渡したものだ。
本来、魔族は魔道具を使わない。魔道具とは人間族が発展させてきた技術であり、マジックバッグに代表されるように、魔法の適性が無くても、使えるように加工されたものだ。それ故、魔族にとっては異質な代物である。
紫龍が身に着けている髪飾りはヒトに擬態することができる擬態魔法を疑似的に使える物である。本来の擬態魔法というものは闇属性の魔法の一種で、身分を隠したい時ややむを得ない事情で顔を隠したいなどという時に使える。私が人間族の街に出向いたときも、この魔法を使って人間族に成りすましていた。
「行くぞ!」
冒険者の誰かが叫び、魔法が次々に放たれた。だが――通じなかった。紫龍は、微動だにせず、ただじっと私たちを見ている。
紫龍は、赤や青、黒といった他の龍を凌駕する、頂点に君臨する種で、鱗は魔法を弾き、水属性の魔法を得意としている。
「あの鱗、硬すぎるだろ……」
「魔法が効かないっ!」
冒険者たちは動揺を隠せないまま、口々に叫んでいた。だが、紫龍は相変わらず、何もしてこなかった。冒険者たちが次第に魔力切れで疲弊していく。これが狙いなのだろうか。髪飾りを着けている時点で、この紫龍が私のかつての臣下であり、この世界は私が魔王として死んだ後の世界であることを確定させた。出来ることならば、紫龍に自分の現状を伝えたいが、この状況ではどうすることもできない。
もし紫龍と全力で戦うこととなれば、正直ここの冒険者の実力では勝つことは厳しいだろう。人間族と戦わないという理念が未だに紫龍の中に眠っているのだとしたら、紫龍はここできっと適当な水属性の魔法を乱射して追い出すはずだ。
そう思った矢先、紫龍は神話級の水属性魔法を私達に当てないようにズラして放った。魔法にはいくつか等級があり、そのうちの最上位に位置づけられている。人間ではほとんど扱えないような代物だ。
「ギルマス、一度撤退というのも策かと思います。ここはダンジョンと違ってただの洞窟、一本道ですので、引き返すのは簡単ですし」
「そうだな、魔力も尽きてきた頃だ。正直龍相手で接近戦は不可能、一度外に出て態勢を整えるのも手か」
ギルマスの声と共に私達は洞窟の外へと出て行った。紫龍は追ってくることもせず、私達の背中を見ているだけだった。
「どうやら追ってこないようだな。あの火力、間違いなく四天王クラスに相当するはずだが」
「とりあえず、今は魔力の回復が先決ですね」
フウはそういうとポーションを取り出した。
「そういえば、今日はやけに体が軽かったな。動きやすかったっていうか、バフ系の魔法って魔力の消費が激しいから、Sランクレベルじゃないと使い物にならないって聞いたことあるんだが」
ある冒険者がそういうと、他の冒険者もそう感じたのか口々に言った。
「あなたがやってくれたんですか?後ろに居ましたし」
フウはそう言って私にポーションを渡した。私は何もやっていない。そもそも魔法が使えないため、棒立ちが正しい。紫龍がかつての臣下であると判明した後は、どのように紫龍と接触するかを悩んでいた為、それが魔法を使っていると思われたのだろうか。
そもそも魔法を掛けた誰かが名乗り出てもいいと思うのだが、言えない事情でもあるのだろうか?