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10話

 一日というのは、思っているよりずっと早く過ぎていき、気がつけば、カホに誘われていた当日になっていた。カホは朝早くから病院に向かっており、私が行くのは昼からと決まっていた。朝は患者の処置で手一杯だそうで、遊んだり、話をする時間はそれが落ち着いてからなのだという。


 別に気が重かったわけではない。ただ、妙な胸騒ぎが、朝から消えなかった。私は高校の制服を身にまとい、適当に身支度を整え、重たい足取りで病院へと向かった。


 その日は、街の様子が明らかに違っていた。空気がざわついている。まるで見えない波が押し寄せているかのように、人々の足取りが早く、誰もが落ち着きを失っていた。城内でも、何かが起きたような気配を感じていたが、それは決して勘違いではなかったのだ。


 目の端に映った剣や槍、弓矢。いずれにせよ、平時の街に必要のないものだった。


「冒険者でも魔導士でも誰でもいい、まだ中に人がいるらしいんだ!」


 怒鳴り声が響いた。荒い呼吸と混ざって、その男の声は切迫感に満ちていた。私は、思わず声をかけていた。


「……何かあったのか?」


 大柄な男がこちらを振り返る。その額には汗が滲み、瞳の奥に焦燥が宿っている。


「病院内に、魔族が現れたらしい。あそこには、この国でも数少ない回復魔法の使い手がいる。どうにかして助けてやりたいんだが……」


 血の気が引くのを感じた。魔族。ガーネット王国は魔族領と地続きではない。だからこそ、ここにいる人々は、魔族の脅威を遠くの話として受け取っていた。その平和が、たった一瞬で崩れ去ったのだ。


 そして私もそれは例外ではなかった——カホが、病院にいる。思考が一瞬止まり、次に動いたのは身体だった。考えるよりも先に、私は走り出していた。今の私には、魔法も、武器も、何の力もない。ただ、それでも行かなければならないと、強く思った。


 病院の前には、すでに多くの人が集まり始めていた。誰もが何かに怯えたような目をしていた。建物の出入り口には、木の板が打ちつけられている。釘の打ち込みがあまりに粗雑で、緊急の処置であることが一目でわかった。

「なぜ出入り口を塞いでるんだ?これでは中にいる人が外に出られないではないか」


 私は近くにいた若い男に声をかけた。彼は振り返り、やや声を落として答えた。


「さっき、ガーネットにいる冒険者のパーティーが中に入ったんだけどよ……四人のうち、生きて戻ったのは一人だけだった」


 一瞬、耳を疑った。


「病院の中には……ブラッドウルフの群れがいるらしい。それで、魔導士が被害を広げないようにと、出入り口を封じて火を放つらしい」


 ブラッドウルフ。高い知能と魔力を持つ魔族だ。たった一匹でも脅威になりうる存在なのに、それが群れとなれば、人間族では手に負えないだろう。そもそも、人間と魔族では魔力の差、魔法の才が圧倒的に違うのだ。


 しかも、ここは病院。動けない人がいる。傷を負い、戦う術を持たない者たちが、無防備にそこにいるのだ。私は、人垣の隙間から、懸命にカホの姿を探した。誰かに助けられて、ここに戻ってきてくれていれば、運よく逃げられていたら。そんな淡い期待を抱きながら、私は周りを見渡す。けれど、どこにも、彼女の姿はなかった。


 出入り口を塞いだ魔導士たちは、野次馬たちに冷ややかな声で離れるよう命じた。感情を押し殺すような口調だった。きっとやるせない気持ちがあったのだろう。野次馬のなかには、病院に子どもを預けている者もいた。顔を歪め、大粒の涙を拭うことも忘れて、口元を押さえて立ちすくんでいた。


 ——焼くのだ。


 中にいる者ごと、魔族も、まだ生きているかもしれない患者たちも。その選択が、最善であるというのなら。冷たい決断が、この国の静かな崩壊の始まりに思えてならなかった。


「赤魔導士様なら、きっとこの状況でも助けてくれたでしょう」


 誰かの嗄声(させい)が空気を裂いた。希望というより、もはや諦めに近い祈りだった。赤魔導士——その名に聞き覚えがある。図書館で見かけた本にあった名だ。この国ではどうやら、英雄か何かの存在らしい。


「赤魔導士様がいれば……」


 皆も口々に言った。


 そのときだった。


「私にお任せください。必ずや、ブラッドウルフを倒しましょう」


 風をまとったような声が、唐突に場を支配した。一人の男が、自然とそこに立っていた。誰も気づかぬうちに、現れていたのだ。


 魔導士の制止にも屈しないまま、男は木板で封じられた扉に手をかざした。次の瞬間、木の扉が裂け、風の刃が中へと切り込んだ。——ウィンドカッターだ。風属性の魔法の一つで、そこまで珍しい魔法ではないが、精度が非常に高いのか、辺りには一切傷がついていなかった。


「無駄だろ……一人で突っ込むなんて」


 誰かが呟いた。だがその声も、ただ空しく消えた。


 数分後、その男は再び姿を現した。片腕には、小さな手を握りしめる子供。背には、こちらの世界に馴染まぬ制服を纏った少女。——カホだった。


 彼女の身体は、揺れるたびに不自然に傾き、意識がないのは一目でわかった。安堵というには早すぎるかもしれない。だが、カホが生きているということに思わず涙があふれた。


 男は、無言のまままっすぐこちらへ歩いてきて、ゆっくりとカホを下ろした。その仕草は丁寧で、まるで壊れ物でも扱うようだった。


「もしかして、お連れの方でしょうか? 間違っていたら、申し訳ない」


 彼は私の制服を見て言ったのだろう。この世界で浮きすぎるこの服が、ここではむしろ目印になっていた。


「……ああ、そうだ。ありがとう」


 精一杯、声を絞り出す。それしか、言葉が出なかった。


「……あ、いえ。それでは」


 男はそれだけを残し、再び人混みのなかへと溶けていった。

 私の腕の中に、カホの身体の温もりだけが残されていた。脈はある。体に目立つ傷はない。


「おねーちゃんが守ってくれたんだ」


 か細い声が、場の沈黙を縫うように響いた。それは助け出された子供の声だった。子供の小さな指が私の腕の中のカホを指していた。


「そうなの?」


 傍らにいた母親が、ゆっくりと私の方を見た。視線には驚きと、それ以上に深い感情の色が滲んでいた。恐らく、この母親にとっても、子供の命が助かるなどとは思っていなかったのだろう。その現実が、まだ信じきれないまま、ただこちらを見ていた。


「おねーちゃんがね、ほうきで戦ってくれたんだ! かっこよかった!」


 子供は誇らしげに言った。私は言葉を失った。そしてカホの髪を撫でた。眠るように目を閉じた彼女の顔は静かで、病院の中で戦っていたとは到底思えなかった。


 魔法も持たず、力もないのに、それでも誰かのために立ち向かうことができる人。私は……違った。ただここへ走ってきただけ。


 ()()()()、と魔導士が告げたとき。私はそれすら、仕方のないことだと受け入れようとしていた。きっと心のどこかで、「そうするしかない」と、自分を納得させようとしていた。あの冒険者が来なければ、私はただの観衆の一人になっていただろう。


 ——いくら魔王の前世があっても、今はただの女子高生で、魔王の時に力を持っていたからこそ、今の力を持たない自分には何もできないなんて勝手に決めていた。


 私は、彼女の手をそっと握った。


「ごめんなさい」


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