1話
どんよりとした意識に包まれながら、重い瞼をわずかに開いた。手足はまだ思うように動かず、自分の身体であるはずなのに、体全体を掌握できない。まるで何かに縛られているようだった。
どのような状況にあろうとも、まずは周囲を把握し、自身を客観視し、感情を捨て冷静に状況を分析すること。戦場において最も重要なことだとか誰かが言っていた気がするが、そんなことも出来なければ、微かに見える世界は暗く、断片的なものに過ぎなかった。
身体の痛みは皆無に近い。寧ろ何故こんなに意のままにならないのかが不思議で仕方が無かった。
そんな思考を巡らせるうち、強烈な睡魔が再び意識を覆い尽くした。どれほどの時間が過ぎ去ったのだろうか。ようやくはっきりと目を開いたとき、己が置かれた状況に戦慄した。
見知らぬ白い天井。見覚えのない家具。聞いたことのない言語。このような場所を私は知らなかった。
なぜ長き眠りについていたのか。朧げな記憶を辿るが、どれも決定的な物は無く、断片ばかりだった。知らぬ言葉が飛び交っていて記憶が混濁しているのだろうか。頼れるのは己の記憶のみであるというのに、何とも不甲斐ない。
「魔王を討伐したぞ――!」
意識が途絶える直前に見た景色だ。何故かそこから先の未来もその前の記憶もはっきりしていない。ただ、人間たちは私を見下ろし、光輝く短剣を握っていた。その刃には血液がべっとりとこびりついていた。
魔王――。
なぜ今まで忘れていたのだろう。私は魔王だった。あの時、私は勇者にあまりにもあっけなく敗れ去ったのだ。剣が振り下ろされる寸前の記憶はほとんどない。
だが、剣を握る人間の身体に致命的な傷は見られなかった。つまり、私は瞬時にして討たれたということは自明であろう。
それにもかかわらず、現在の意識は鮮明で、そしてこの知らぬ空間にいる。人間が魔王を手厚く介抱するなど到底考えられないし、臣下ならば、私の知る言語で話しかけるはずだ。
「今日も優香ちゃんは本当に可愛いでちゅね」
「もう、勇太はずっと優香を抱いて離さないんだから」
「佳織だって優香のほっぺぷにぷにしすぎだぞ」
耳を疑った。知らぬ言葉が発されて行く度に、不可解にもそれらは頭の中に浸透していく。人間族が魔族に好意を向けるはずがない。にもかかわらず、眼前の二人の人間は異様なほどの笑みを浮かべ、過度なまでに私との距離を縮めてくる。
そして彼らは私を囲むようにして鏡を出した。そこに映っていたのは、私ではなく、見知らぬ人間の赤子だった。
「誰だ?」
私は言葉を発しているつもりだが、通じてはいないようだった。先ほどの人間族が話している言葉といい、私は発した言葉に対しての反応といい、何かがおかしい、この世界に言語は一つしかないはずだ。その言語が通じないわけがない。
時間が経ち、私は現状を理解し始めた。いや、この現実を受け入れることにした。――私は、魔王として死を迎えた後、なぜか魔王としての記憶だけを保持したまま、人間の赤子として生まれ変わっていたのだった。
初めに気になったのは、魔法の適性がどうなっているのかという疑問だ。かつて私は全属性を操る魔王であった。しかし、今のこの身体にその力が宿っているかは定かでない。
魔法とは完全に生まれ持った才能に左右される。大半の者は一属性のみで複数の属性を持つ者は稀有である。人間の場合、全属性を持つ者を勇者として扱い、人々を魔族から助けるとかそんな話だ。
「魔法……魔法適性……測定……」
言葉を発しても二人の反応は鈍い。やはり、この世界の言語は私の知っている言語と異なるということだろう。私は適性を測定できるという水晶玉を求めて這い出し、ゆっくりと歩み始めた。
本来ならば、このような魔道具に頼らなくとも、鑑定魔法で鑑定すれば良いだけの話なのだが、人間の場合、魔法を発動する際に詠唱が必要だと聞いたことがある。私は魔王だ、詠唱などしたことが無い。故に、詠唱を知らない。
「歩いた……」
赤子の身体は世界を巨大に感じさせ、馴染みのない物が散乱している。ここはどうやら庶民の家らしい。部屋は二つだけで、地下も二階もない。
私は透明な板から外に視線を移す。私の思い描いた大地、森の代わりに目に入ったのは無数の灰色の建造物の群れだった。
なぜ今まで考えなかったのだろうか……よく考えれば、家具の材質、この透明な板、言語。この世界は、かつて私が知っていた魔法と魔族の世界とは異質で何もかもが異なっている。私の知る世界以外にもし世界があるとしたら……。
「ここは……どこだ」
私はこの景色を見て初めて自覚させられたのだった。私は人間の赤子に転生しただけでなく、未知なる世界に転生したということを。
十六年が過ぎ、私はこの地球の、日本、トウキョウの一角で暮らしている。佐藤優香として。この世界に魔法は無い。それだけでなく、魔族も魔王も存在しない。かつての私の世界とはまったく異なる世界だ。しかしながら私がいた世界とは比べ物にならないほど発達した世界だった。
朝七時過ぎ。学校へ向かう時間だ。多くの者が高校に進学するこの世界で、私もまた平凡な高校生として生活している。両親は私を溺愛し、何でも与えてくれた。そうして教養も身につけ、両親の愛に応えるように、魔王の記憶を押し殺して普通の女子高生として振舞ってきたつもりだ。
教室に入り、席につく。隣の席には鈴木将吾、そして少し席が離れたところにあくびをしながら眠たげにしている田中晴人、黒板に書かれた日付を書き直している学級委員の高橋夏帆がいた。互いに最低限の挨拶は交わすが、それ以上の深い関わりはない。
今日も、こうして平穏な一日が訪れるはずだった。
しかし――
「うわっ、なんだこれは!」
教室は謎の光に包まれ、私たち四人は見知らぬ異空間へと飛ばされたのだった。