死神少女-1-
死神少女1
~キリンは首のどこにネクタイを巻くのか~
あなたは自分の首がどれくらいの長さかご存じですか?普段、あんまり気にする人はいないのでしょうが、日本人はだいたい5~10センチぐらいが普通らしいです。
ちなみに、首が長いことで有名な東南アジア少数民族がいますが、実はレントゲン写真を見ると首の骨の長さは普通の人と同じで、首が長く伸びている訳ではなかったりします。ではなんで長く見えるのか?それはただ単に、首を長くする為に付けている首輪の重さで、肩が下がり、そのバランスから首が長く見えているだけらしいです。
そう、首長族はただ長く見えるだけ。
じゃぁ、僕は…?
僕のこの首の長さは一体何なんだろう?
朝、鏡に映る僕の姿は首まで。
顔がそこに映っていない。
肩から伸びる首は洗面台の鏡を越え、頭は天井近くを彷徨って、ジャンプしなくっても蛍光灯にヘディングをすることができそうな位置にある。
当然、歯を磨いたり髭を剃るためには腰をかがめないといけない訳で…。
いや、生まれてからずっと長かった訳じゃない。それがどいう訳か、高校を卒業して大学に入学したぐらいから人より少し長くなっていることに気付き、年を重ねるごとに長くなっていったのです。
そして、社会人になってからの急成長ぶりは目覚ましく、入社3年目にして鏡より飛び出すほどになり、今も少しだけれど、確実に成長を続けている。この春が終わる頃には、部屋の中に入るのにも、常に腰を屈めていなければならないかもしれない。
入社4年目の春…。
正直、春はとてもありがたい。
ワイシャツの襟から飛び出している長い首は、冬の間中ずっと冷たい風にさらされ続け、正直辛いなんて物じゃなかった。マフラーを首に巻いたって、歩いたり走ったりすれば当然ズレ落ちるし、コートに付いたフードを被ろうにも、長い首が邪魔をして被れない。また、雨や雪が降った時は更に悪くなる。傘を差そうにも、雨合羽を着ようにもこの首が邪魔で、結局ずぶ濡れになってしまう。それだけじゃない、耳当てやニット帽を使っても、頭が重くなり、僕の長い首ではバランスが悪くなってしまうのだ。
なぜ僕の首がこんなに長いのか?
確かにそれも不思議だけれど、他にも不思議なことがある。それは、この長い首が他の誰にも見えていないということだ。一度、親しい友人に首のことに関して相談をした事があったが「は?お前、何言ってるの?」と、変人扱いをされてしまった。もちろん、医者にも相談したことがある。普通の医者にも、心の医者にもどちらにも。でも、普通の医者には相手にはされず、心の医者には「あなたは平均的な身長で、普通の首の長さですよ」と僕の顔を見て言うだけなのだ。そう!僕の顔を見て!!彼らははっきりと僕の顔を見ている。見上げているのだ。
いや、僕だって自分が心の病で、自分の首が長いと信じ込んでいるだけで、本当は普通の長さじゃないかと疑いもした。しかし、走れば僕の首はその衝撃に振り子のように揺れては、街路樹や電柱を掠めていき、頭のあちらこちらに傷を残していく。そして電車に駆け込もうと思っても、この長い首が閊えドアに首が挟まれてしまうのだ。
今もそう。
挟まれ、痣ができている首をさすりながら、会社に間に合うためには絶対に乗らなければならない電車が、目の前を過ぎ去っていくのを見送る。
会社にまた遅れてしまう心の痛みと、首の痛み、両方を感じながら僕は思った。
僕の首は確かに長いのだ。
「お前はいつまで学生気分なんだっ!?」
部長の罵声がオフィスに響きわたった。
そんな大きな声を出さなくてもいいじゃないか、と思うが遅刻してきた手前、何も言うことがでない。
そういえば、営業部の奴が言っていたが、部長が大きな声で僕を叱るのは、他の連中に聞こえるように怒ることで僕の羞恥心を煽りたいのだとか。恥ずかしいと思わせることで、僕の遅刻癖を直そうと思っているらしい。
もちろん、僕は恥ずかしいと思っている。でも、この首では他の人と同じように行動できないのが事実。羞恥心を煽ることよりも、この首のことをなんとかする方法を一緒に考えてもらいたいと思う。もちろん、部長には見えていないのだが。
「見て、またアイツ遅刻してきたみたい。いったい何回目かしら?」
「ホント、遅刻の常連よね。時間を守って出社して来た回数を数えた方が早いんじゃないかしら?」
オフィスの端の方で女子社員が話しているのが聞こえる。ヒソヒソ話をしている様に装っているが、その声は僕の耳にはっきりと聞こえてくる。
「入社以来ずっとなんだって?」
「ホント?」
「うん、最初は営業部配属だったらしいんだけど、アポをとっても時間を守れないから総務に回されたんだって」
そう、結局僕は一件も契約を取れなかったんだ。
「いやだ、そうなの?でも、有名な大学出てるんじゃないの?」
「らしいけどねぇ。でも、どんなに有名な大学を出てたって、仕事ができなければ無用の長物よ」
「ホント、総務に回すんじゃなくって、古新聞とか巻いてゴミ捨て場に回してくれればよかったのに!」
「あら、上手いこと言うじゃない?」
「でしょ?無用の長物とかけてみました」
「アハハハハハ!」
無用の長物か…、なんて僕にピッタリの言葉なんだろう。
そりゃ、僕だって男なんだ。一人前に仕事ができるようになりたいと思う。一生懸命勉強して有名高校に入り、また更に勉強して有名な大学に入った。その大学に入ってから、首が長くなり始め、いろいろなことが思うようにできなくなってしまった。朝の電車もそうだが、急ぐことができなくなってしまった。走っているとバランスをすぐに崩してしまうし、さまざまなところで腰を屈めて首を引っ込めなければならないから。そして、書類を書くのが辛い。顔と手元の距離が必要以上にあいてしまうから。他にも、テレビを見たりパソコンを利用したりするのも、首の角度の問題でとても辛かった。
ただ、なぜだかキスは普通にできた。彼女の肩を抱き、ゆっくりと目をつぶって顔を近づけると、彼女の柔らかい唇を感じることができる。その瞬間がとても好きだった。その瞬間だけは、自分の首が普通の長さなんだと信じる事ができる。でも、実際には目を開けてみると、彼女の顔はとても下の方にあり、はっきりと僕を見上げ、優しく笑っているのだ。その笑顔が優しければ優しいほど、僕の心はとても乱されてしまう。
「今日も遅刻したんだ?」
思わず体が震えた。
大学以来、ずっと付き合ってきた彼女には、僕の何もかもがわかるようだった。もちろん、彼女に隠し事をする意味もない、僕は素直に認める。
「また長い首の所為かしら?」
わかっている、わかっているんだ。首が長くて思うように走れないのなら、首が長く満員電車に乗るのが辛いのなら、その分早く起きて行動すればいい。それは分かっている。でも、まだ伸び続けるこの首の所為で、髪をドライヤーで乾かすのも、髭を剃るのも日々辛くなっていくんだ。せっかく早く起きても、結局それに時間をとられてしまうんだよ。
「ならさ、いっそ丸坊主にしちゃえば?会社には遅刻を反省している姿勢を示せるし。髭も、永久脱毛しちゃいなさいよ。そしたら剃る必要もなくなるし、あたしも髭が濃い男は嫌いだしね」
彼女は優しく僕に話しかけてくれる。
残念なことに、彼女にも僕の首は普通に見えるそうだ。至って普通の男性サラリーマン。でも、彼女は僕の話を信じてくれた。大学生の時から「首が長い」という僕の話を嫌な顔をせず聞いてくれ、この首の所為で何かがある度に解決策を一緒に考えてくれた。いや、考えてくれるだけでなく、「朝早く起きる必要があるのなら」と電話をして起こしてくれた。「雨が辛いなら」と、僕が言う首の長さに合わせて雨合羽のフードの長さを延長してくれた。今もこうやって、うだうだ言い訳ばかりを考えている僕にアドバイスをしてくれる。
いつから僕はこんなに弱気になったのだろう。一流の高校に入学し、その中でも羨ましがられる様な一流大学に入学し、人生の成功者として自信に溢れ、鼻持ちならない奴だったのに。きっと彼女がいなければ、僕はとうの昔に駄目になっていただろう。彼女が居てこそ、今の自分があるんだと思った。そう思うと、自分がとっても小さく感じる。いや、いつだってそうだ。彼女の前で僕はとっても小さくなっているのだ。小さくなっているはずなのに、首が長く、彼女を見下ろしてしまっている。
「まぁもう今日は遅いから無理だけど、次の休みにでも切りに行きなさいよ、髪の毛だけでも」
僕がうつむいて黙ったままなのを、納得の返事だと思った彼女が続けた。
「それじゃぁあたしは帰るね」
彼女はそう笑いながら席を立った。彼女は立っているはずなのに、座っている僕は彼女を見下ろしている。うつむいているはずなのに、はっきりと彼女の頭が見える。
「あ、そうそう」
彼女の後頭部を眺めながら、首の長いことの違和感を感じていると、突然彼女が振り返った。
「明日、楽しみにしてるから!」
満面の笑みでそうとだけ言うと、すぐに部屋を後にしていった。
明日…、そうだ、明日こそ遅刻しないようにしなければ。もちろん、髪の毛を切ることも、永久脱毛することも今日はもう叶わない。でも、間に合うように早く起きさえすればなんとかなるはずだ。彼女の期待に応えるためにも、僕は早々に眠りに着いた。
彼女のいつも以上の笑顔を夢に見ながら…。
次の日、毎朝恒例の部長の罵声がオフィスに響き渡ることはなかった。その代わりに、深いため息と諦めの空気がオフィス全体に圧し掛かっていた。
遅刻はしなかった。僕は30分も余裕を持って会社に到着していた。部長も僕のその姿を見て大変満足していた。女子社員のヒソヒソ話も、朝は聞こえてこなかった。
そう、事件が起こったのは朝ではなく昼過ぎだった。
急遽、本社から社長が査察に来たのだ。
突然の事に誰もが動じていた。お茶を出すべき女子社員も慌てて化粧と服の皺を気にし始め、何もすることができないでいた。
僕はチャンスだと思った。
今までの汚名を返上できるチャンスだと思った。いや、これで社長の覚えが良ければ、もう一度営業部なり、企画部なりに抜擢されるかも知れない。急いで給湯室に向い、急いでお茶を入れて社長の下に持って行った。
そして…。
そして……、またこの首が邪魔をした。
社長が待つ応接室へ入ろうとした瞬間、僕は腰をかがめるのを失敗し、思いっきり頭をぶつけてしまった。またとないチャンスだと思い、全力で走った僕の勢いはとても強く、その衝撃で僕の頭は後方へと吹き飛び、持っていたお盆は見事に空中に舞った。そして、お盆に載ったお茶は、社長の顔目掛けて降り注いでいった。僕の絶望と共に。
落胆した僕に誰も優しい声をかけてはくれなかった。叱責の声も女子社員のヒソヒソ話さえない。
僕はただ黙って、定時になると同時に会社を後にするしかなかった。
どうして僕の首は長いんだろうか。
考えても分かるはずもなく、僕はただ街の中をさまよった。すれ違う人はみんな僕の首に気付かずに歩いて行く。この異様に伸びた首に、誰も気付かずに歩いて行く。
逆にどうしてみんなは首が短いんだろう。いや、僕一人だけが首が長いのだから、僕の方がおかしいのか。
もし、大学時代に僕の首が伸びなかったら、どんな人生を送っていたのだろうか。一流の企業にトップの成績で入社し、企画部へと大抜擢され、誰もが羨む業績を上げる。そして、管理職に就いて誰よりも年収を得る。みんなが羨むような人生。そう、部長の様に…。
でも、この首の所為でそれは手に入らない。いや、手に入らないだけじゃない、マイナスだ。一流の企業に入っても無用の長物扱い。うだつも年収も上がらない、屈辱の人生。
それもすべてこの首の所為。
このまま首の長さが元に戻らず、人と同じ様に生きられないのなら…、もう死のう。
僕が絶望の淵に立った瞬間だった。
「あら、あなたの首はずいぶんと立派なのね」
突然、下の方から少女の声が聞こえ、僕は飛び上がった。まったく気配を感じなかったのだ。慌てて見下ろしてみると、そこには黒い髪の少女が立っていた。夜の街に不釣り合いなほど、無垢な笑顔で僕を見上げている。
「そんな首を長くして、あなたは一体何を待っているの?」
僕は耳を疑った。
長い…首だって…?
この子には、僕の首が見えているのか…?
「ええぇ、見えているわよ?」
少女は当たり前のように応えてくる。
「というか、あなたには見えないの?街中歩いている人、みんな長いわよ?」
僕は少女が言っていることが理解できなかった。そんな僕を余所に、少女は「ほら、携帯で誰かと話している男も、ティッシュ配っている女もみんな長いでしょ?ああぁ、あのおじさんなんてすっごい長さっ!」と街行く人を指差しては笑っている。そして、一通り周りを見渡してから、再び僕の顔を見上げ、
「あなたも若いのに随分と伸びてるわね?あなたはいったい何を待っているのかしら?」
そう言ってくるのだ。
「首を長ぁ~くして待っているじゃない?まぁ、あなただけじゃないんだけどね。みんな何かを待っている、首を長くしてね」
みんな、長いのか…?
僕は驚きながら、街行く人を見回してみる。しかし、僕の目にはどの首も普通の長さにしか見えなかった。この少女は何を言っているんだ?訳も分からなくなって、もう一度見下ろしてみると、そこにはすでに少女はいなくなっていた。ただ、耳に彼女の声だけが残っている。
狐に包ままれた気分で呆然としていると、携帯電話が鳴り始めた。彼女だ。
「ちょっと何処にいるのよ?あたしはもうお店に着いているんだけど?」
僕の思考はもはやショート寸前だった。
あの少女のことも、彼女が言っていることも理解できなかったのだ。
「うそっ!?忘れているのっ!?今日はあたし達の記念日でしょっ!!」
そうだった!今日は…、今日は…!
昨日、彼女あれほど笑顔だったのか分かった。
なんで忘れていたんだ!なんで、なんで!
僕は邪魔に揺れる首を一切庇うことなくひたすら走った。色々な物に頭をぶつけたが気にしなかった。ただ、彼女が待つお店へと走った。彼女を待たせてはいけない。
「首が長いかどうかなんて知らないけど、記念日を忘れる事とそれは全く関係ないんだから!」
遅れてきた僕を、彼女は許してはくれなかった。
いや、お説教をしてくれるのだから、完全に見限った訳ではないのだろうけど、今までの分も含めて彼女は僕に普段言えないことを言い続けた。
どれも僕には言い返せなかった。
あれだけ僕を支えてくれたのに、あれだけ僕にアドバイスをしてくれたのに、僕はその恩を仇で返してしまったのだ。申し訳ない気持ちで一杯になってしまう。でも僕は、ただ彼女を前に小さくなるしかなかった。ただ彼女に謝るしかなかった。
「だいたい、何の為に大学を卒業したのよ?何の為の一流大学なのよ?いい企業に入ったってそこで活躍できなけりゃ意味がないじゃない!」
それでも彼女は僕を見下ろしながら説教を続けてくる。
「フードだってそうっ!人が一生懸命直したって直にボロボロにしてくるっ!本当に首が長いか知らないけど、もっと大切にしたらどうなの!?」
何かを言われる度に僕は小さくなり、彼女はどんどん高いところから僕を見下ろしていく。
そう、どんどんと、どんどんと高くなっていく。その顔はもはや天井の近くまで…。
え!?天井っ!?
僕は慌てて見上げたっ!
そう!見上げたのだっ!!
彼女の顔は長い僕の首を飛び越え、天井の照明器具の裏に隠れ、それでもその首は十二分に余り、ろくろ首よろしくとぐろを巻いている。
その首は確かに僕より長かった。
「何ボォっとしてるのよっ!?」
呆然としている僕に、遥か彼方の頭上から声をかけてくる。その声はとても大きく、店中に響き渡る。いや、さっきからずっと彼女の声が店全体に響いているのだ。堪り兼ねた店員が僕らを注意しに来るのが見えた。見えて、僕は更に驚いた。
店員も首が長いのだ。
「いかがしました?」
驚く僕の顔を見下ろしながら店員が聞いてくる。返事が出来ないでいると、彼女へ声を小さくするように言って去っていく
いや、店員だけじゃない。
あらゆる席、あらゆるテーブルから首が伸びていた。
長さの大小はあれど、そこら中のテーブルから首が伸びている。
窓の外を見ても、人の顔なんて一切見えない。そこには伸びた首がユラリユラリと揺れている。手を繋いであるく恋人も、同僚と肩を組みながら飲み歩く男たちも、路上でギターを奏でる若者たちも、みんながみんな首が長い。
そう、みんな首が長いのだ。
いつも僕を笑った女子社員も、僕とは違い営業に残った同期の連中も、お茶をかぶった社長も、部長なんてオフィスをぐるりと3週は出来るんじゃないかというぐらい長かった。
「ほら、言ったでしょ?みんな首が長いって」
再びあの少女が僕に話しかけてくる。
「みんなね、待っているのよ」
何を?みんな何を待っているって言うの?
「女子社員はいい男が見つかって寿退社できるのを、営業はノルマに追われる日々から開放されるのを、社長はビジネスチャンスを待っている」
部長も待っているのか。
「ええ、待っているわ。部長はあなたと全く同じよ」
同じだって?
「そうよ。あなた、自分がなんで首が長いか分からないの?自分が何を待っているのか分からないの?思い出して御覧なさい、どういう気持ちで大学に入学したのかを?」
大学…?
僕は…、そう、一流企業に入るために一流大学に行ったんだ。
そうだ、その為に死ぬほど勉強した。友達も、部活も、恋だって無視して勉強した。何もかも全部、勉強に費やしてきたんだ。なぜなら、一流の大学に入って、一流の企業に入るために。もちろん、本当に正しいのか疑問に思った。でも、その疑問を口にする度に、先生が、親がこう言ってきたんだ。「お前のためだ。お前が大人になって楽をする為に必要なんだ。一流の大学を出れば楽に一流の企業に入れる。楽できるんだ」と。だから、それを信じて勉強し続けた。なのに…、結局楽なんてできなかった。大学に行ったら行ったで、そこには沢山のライバルがいて更に努力する必要があった。そして、念願の一流の企業に入ったって、全然楽にならなかった。
僕は、先生や親たちが言う「楽できる」時を待っているんだ。
「あんた馬鹿?」
少女が呆れ声で言ってきた。
「本気で楽できると思っているの?ううん、楽はできるわよ、あなたの親がね。でも本人が楽できる訳ないじゃない?あなたの部長を見てごらんなさいよ、あんなに首が伸びて。部長もね、あなたと同じ大学を出て、トップの成績でこの会社に来たのよ。だけどどうかしら?あなたみたいな部下を持って、しかもそいつが社長にお茶をぶっ掛けるだから楽なんて程遠いわよね」
だから部長はあんなに首が長いのか。
「そう、部長も楽できる日を待っている。でも、部長ほどの年になったって楽できわけじゃないの。いいえ、仮に定年退職したって楽なんてできないわよ。この不景気、退職金だって僅かだし、その殆んどを家族に持っていかれる。年金だってほんのちょびっと。結局、再び駅の清掃とか駐車場の警備員とかで働かないといけないのよ。そう、どんなに待ったって無駄。楽な日なんて来ないわ」
楽な日なんて来ない。
じゃぁ僕は、なんの為に待ち続けているんだ?なんの為に、こんな長い首をしているんだ。
「だから無駄なの。どんなに待ったって無駄なんだって」
少女が僕の首に腕を絡めてくる。
「あなたがどんなに待ったって楽できる日なんてこないわ」
そんな…。
「でもね…、一つだけ楽になる方法があるわ…」
なに?それはなに?
僕の首を優しく愛撫しながら少女は続ける。
「簡単よ、自殺するの」
え?
「死んじゃうの。そうすればもうあなたは何も待たなくていい。何も努力しなくていいの」
で、でも…。
「あら…?あなたそんな首のまま生き続けるの?どんなに待っても来ないんだから、その首は決して短くならないわ。それだけじゃない、その首の所為であなたの人生はうまくいかない。もう分かっているでしょ?うまくいかなければいかないほど、あなたは楽になれる日を待ち続ける。そうすれば、またあなたの首は伸びて、もっと人生が悪くなる。堂々巡り。ほら、見て?今もあなたの首は伸び続けているのよ」
少女に促されて下を見てみると、そこには首しかなかった。いや、きっとこの首の先に体があるに違いない。でもその体は、雲の遥か下の方に隠れ、僕の眼には見えなかった。確かに、こんな首ではまともに生活するのは無理だ。
「あなただってさっき、死のうって思ったじゃない」
そうだ、そうだった。
思えば、この首になって何一ついいことなんてなかったじゃないか。いや、こんな首になる前から、いいことなんて何もなかった。ひたすら先生や親が言うように勉強してきただけで、振り返ってみてもただ勉強した公式やら方程式やらが思い出されるだけだ。首が伸びたあとだって、露出した首に雪が積もって凍死しそうになったり、電車のドアに挟まれたり、看板に頭をぶつけたりして、それが原因で遅刻や失敗を繰り返す。上司には小言を言われ、同僚には陰口をたたかれ、その度に落ち込んで自殺を考えた。そして、そして…。
「なぁ~に、泣きそうな顔してるのよ」
彼女だ。
「え?」
少女が驚いて見上げてくる。
いつも彼女が僕を励ましてくれた。いつも話を聞いてくれた。誰も信じなかったのに、信じてくれた。
「それは…」
でも、彼女も首が長かった。
彼女も何かを待っているんだ。
彼女はいったい何を待っている?
僕は少女を見た。
少女は困った顔をしたかと思うと、少し笑って肩を落とした。
「彼女はね…」
「わぁ~!ありがとう!」
彼女は新しいその指輪にご満悦のようだった。
「でもいいの?」
すこし心配そうに僕の顔を見上げてくる。そう、僕の首は依然として長いままで、彼女の素敵な笑顔も少し遠く感じられる。
でも、今はそれでよかった。
あれから僕は会社を辞めた。お給料も待遇も悪いが、すこし始業開始時間が遅い自分のリズムに合った会社に転職した。もちろん、それでも人より早く起きないと会社には間に合いそうにない。でも…。
「思った以上に似合ってるわよ」
彼女がそう言いながら撫でる僕の顔には髭がなかった。いや、髪もなく丸坊主だ。
アドバイスに従って、頭を丸めて髭も永久脱毛したのだ。これで時間にゆとりが生まれた。
「でも、本当に大丈夫?こんな高い物?」
大丈夫…、とは言い難いが、転職した事がいい風を呼んだのか仕事は順調だった。営業に出れば、しっかりと契約が取れ、新しい企画を打ち出せば想像以上に成果が上がった。残念なことに中小企業のため、それに見合った給料が手に入った訳ではないけど、誰よりも売り上げを上げている僕を多くの人が羨ましがった。「どうしてそんなにうまくいくのか?」そう聞かれるたびに僕は「人と視点が違うからじゃない?」と笑って言った。
「ねぇ?ニヤニヤ笑って聞いてるの?」
彼女が再三聞いてくる。
うん、なんとかね。それより、君の首が長くしならないように気をつけなきゃ。
「え?」
きょとんとする彼女に、僕は笑顔で首を振って見せた。
今は、彼女の首が天井まで伸びることはなかった。
END