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小指  作者: 次郎
3/6

第三話

 それからしばらくの後、馬鹿げた噂が家中に広がっていた。

「神谷伝三郎の話を知っておるか?」

「神谷? ああ、あの新参者か。あやつがどうした?」

「妙な癖があるらしい。稲荷神社の狐の耳を斬りとってきて、御大層に神棚に飾ってあるとか。しかも夜な夜な、酒を飲みながらその耳を愛でておるらしいぞ」

「評定で居眠りばかりしていると思っていたら、そういうことか。腕は立つという話だが、そんな男ではな……」

 同僚たちがそんな噂話をしていることは、伝三郎の耳にも入ってきた。

「随分と噂になっておるぞ。変わり者だったのだな、おぬしは」

「勝手にしてくれ。反論する気にもなれぬわ」

 小料理屋で陣之介に笑われた伝三郎は、杯を空けて不機嫌な表情を浮かべた。

 例の一件以来、伝三郎と陣之介は酒を酌み交わす間柄となっていた。

 もちろん大っぴらなものではなく、人目を忍んでのことである。

「しかしあれだな、狐の耳とは、御利益があるのか? 罰当たりな気もするが……」

「真に受けるな……あれは小指だったのだ」

「どういうことだ?」

 不可解な様子の陣之介に、事の次第を説明する。

「成程な……つまり、狐に化かされたというわけか」

 陣之介はそう言って、嬉しそうに顎を撫でた。

「馬鹿を言うな。何者かが置き換えたに違いない」

「心当たりがあるのか?」

「確証があるわけではないが、そもそもあれをみているのは家内と使用人の辰吉だけだ。しかし、家内がそのようなことをするとは思えぬ」

「ならば答えは出ておろう。その辰吉とやらを問い詰めればよい」

「それが……ここのところ姿が見えんのだ」

 使用人の辰吉は、噂が巡って伝三郎に伝わり始めた頃から、忽然と姿を消していた。おかげで不便なことこの上ない。

「なんと……あからさまに怪しいではないか。そもそもその者は、浪人をしていたおぬしに昔から仕えていたのか?」

「いや、龍山藩に来てからだ。使用人を探していると言ったら、倉田殿が連れてきたのだ」

「ほう、倉田殿か。ますます怪しいではないか」

「……怪しい怪しいと言うが、目的が分からぬ。これはどういうことなのだ?」

「そんなことは知らん。某はただ、倉田殿を信用しておらんでな。おぬしにもそれを分かってほしいだけだ」

「結局それが言いたいのか、おぬしは」

 陣之介は、事あるごとに伝三郎を孝信派に引き込もうとしていた。そうでなければ、伝三郎に奢ってまで頻繁に誘う理由はない。

「勘違いするなよ、神谷殿。おぬしとは馬が合うから、酒を飲む。怪しい者は怪しいと言う。それだけだ」

 馬が合うというのは、伝三郎も同様であった。家中には他に、馴染む者もいない。

「……倉田殿には恩義がある」

「分かっている」

 陣之介は、それ以上は言わなかった。


 この日の夜、伝三郎は倉田政方の屋敷に呼ばれた。

 伝三郎だけではない。信成派の家中の多くが、屋敷に集まっていた。

「妙な噂があるな。大丈夫なのか」

 政方は開口一番、そう釘を刺してきた。

「申し訳ございませぬ」

「咎めだてしているわけではない。貴殿が働く時まで、目立たぬ方がよかろうということだ」

(働く時か)

 最近になって、政方が伝三郎を仕官させた目的が、用心棒としてだけではないことが薄々分かってきた。場合によっては暗殺者として使いたいという意図が、見えてきたのだ。

「御家老、実は……少し前から辰吉が姿をくらましておりまして」

 伝三郎は報告がてら、一応探りを入れる。

「辰吉が? 何故だ」

「某も見当がつかず……」

「妙よな……そんな不義理な男でもあるまいが」

 そんな会話をしている内に、派閥の領袖たる龍山信成が入ってきた。

「皆の者、大義」

 上座に座った信成に、一同が一斉に平伏する。

「政方、今日こそ決行の言葉、聞かせてもらうぞ。江戸への参勤もこれ以上引き延ばせまい。公儀に儂を後継者として認めさせ、上様に拝謁する。早う手配いたせ」

 若い信成は、覇気に満ちていた。言葉の端々に、その自信が見て取れる。

「若君、今少しの御辛抱でござる。家中の意思を統一できれば、事は容易に運びましょう。今少し、この政方に時を下され」

「藤巻長広ら、孝信の派閥を黙らせる手があるのだな」

「御意」

 その政方の返事に、信成は満足げな表情を浮かべた。

「思えば二十数年、同じ側室の子として生まれながら、数日あとに生まれたというだけで、あの愚鈍な兄の風下に立ってきた。忍従の日々もあとわずか、というわけか。政方、孝信のことは公儀に何と届け出るのか?」

「発狂からくる乱行著しく、藩主として相応しからず。寺に蟄居謹慎させる旨、大殿と家臣一同の連署をもって届け出れば、問題はありますまい」

「父の花押が使えるのか?」

「某は殿に、公のことを一任いただいておりまする」

 政信が藩政に興味がなく、政方に任せきりだったことは事実のようであった。その政信が重篤で意識不明となれば、尚の事思うがままであろう。

(これは何とも……迂闊な一味に加わってしまったかも知れぬな)

 伝三郎は二人のやりとりを聞いて、不安に駆られた。

 公儀はその傘下に、多くの隠密を抱えていた。その詮議は殊の外厳しく、御家騒動の疑いがあれば徹底的に調べ上げられる。

 幕府は常に、各藩の改易や減封を狙っていた。簡単に騙せるものではない。

 そういう意味では諸国を広く見てきた伝三郎の方が、客観的に状況が見えていた。藩において優秀な政方も、井の中の蛙なのかも知れない。

(本気で身の振り方は考えねばならんかなあ)

 暗殺者として、鉄砲玉のように使い捨てられるのもつまらない。

 何となく陣之介の顔を思い出した伝三郎の心は、すでに政方から離れつつあった。

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