第三話
それからしばらくの後、馬鹿げた噂が家中に広がっていた。
「神谷伝三郎の話を知っておるか?」
「神谷? ああ、あの新参者か。あやつがどうした?」
「妙な癖があるらしい。稲荷神社の狐の耳を斬りとってきて、御大層に神棚に飾ってあるとか。しかも夜な夜な、酒を飲みながらその耳を愛でておるらしいぞ」
「評定で居眠りばかりしていると思っていたら、そういうことか。腕は立つという話だが、そんな男ではな……」
同僚たちがそんな噂話をしていることは、伝三郎の耳にも入ってきた。
「随分と噂になっておるぞ。変わり者だったのだな、おぬしは」
「勝手にしてくれ。反論する気にもなれぬわ」
小料理屋で陣之介に笑われた伝三郎は、杯を空けて不機嫌な表情を浮かべた。
例の一件以来、伝三郎と陣之介は酒を酌み交わす間柄となっていた。
もちろん大っぴらなものではなく、人目を忍んでのことである。
「しかしあれだな、狐の耳とは、御利益があるのか? 罰当たりな気もするが……」
「真に受けるな……あれは小指だったのだ」
「どういうことだ?」
不可解な様子の陣之介に、事の次第を説明する。
「成程な……つまり、狐に化かされたというわけか」
陣之介はそう言って、嬉しそうに顎を撫でた。
「馬鹿を言うな。何者かが置き換えたに違いない」
「心当たりがあるのか?」
「確証があるわけではないが、そもそもあれをみているのは家内と使用人の辰吉だけだ。しかし、家内がそのようなことをするとは思えぬ」
「ならば答えは出ておろう。その辰吉とやらを問い詰めればよい」
「それが……ここのところ姿が見えんのだ」
使用人の辰吉は、噂が巡って伝三郎に伝わり始めた頃から、忽然と姿を消していた。おかげで不便なことこの上ない。
「なんと……あからさまに怪しいではないか。そもそもその者は、浪人をしていたおぬしに昔から仕えていたのか?」
「いや、龍山藩に来てからだ。使用人を探していると言ったら、倉田殿が連れてきたのだ」
「ほう、倉田殿か。ますます怪しいではないか」
「……怪しい怪しいと言うが、目的が分からぬ。これはどういうことなのだ?」
「そんなことは知らん。某はただ、倉田殿を信用しておらんでな。おぬしにもそれを分かってほしいだけだ」
「結局それが言いたいのか、おぬしは」
陣之介は、事あるごとに伝三郎を孝信派に引き込もうとしていた。そうでなければ、伝三郎に奢ってまで頻繁に誘う理由はない。
「勘違いするなよ、神谷殿。おぬしとは馬が合うから、酒を飲む。怪しい者は怪しいと言う。それだけだ」
馬が合うというのは、伝三郎も同様であった。家中には他に、馴染む者もいない。
「……倉田殿には恩義がある」
「分かっている」
陣之介は、それ以上は言わなかった。
この日の夜、伝三郎は倉田政方の屋敷に呼ばれた。
伝三郎だけではない。信成派の家中の多くが、屋敷に集まっていた。
「妙な噂があるな。大丈夫なのか」
政方は開口一番、そう釘を刺してきた。
「申し訳ございませぬ」
「咎めだてしているわけではない。貴殿が働く時まで、目立たぬ方がよかろうということだ」
(働く時か)
最近になって、政方が伝三郎を仕官させた目的が、用心棒としてだけではないことが薄々分かってきた。場合によっては暗殺者として使いたいという意図が、見えてきたのだ。
「御家老、実は……少し前から辰吉が姿をくらましておりまして」
伝三郎は報告がてら、一応探りを入れる。
「辰吉が? 何故だ」
「某も見当がつかず……」
「妙よな……そんな不義理な男でもあるまいが」
そんな会話をしている内に、派閥の領袖たる龍山信成が入ってきた。
「皆の者、大義」
上座に座った信成に、一同が一斉に平伏する。
「政方、今日こそ決行の言葉、聞かせてもらうぞ。江戸への参勤もこれ以上引き延ばせまい。公儀に儂を後継者として認めさせ、上様に拝謁する。早う手配いたせ」
若い信成は、覇気に満ちていた。言葉の端々に、その自信が見て取れる。
「若君、今少しの御辛抱でござる。家中の意思を統一できれば、事は容易に運びましょう。今少し、この政方に時を下され」
「藤巻長広ら、孝信の派閥を黙らせる手があるのだな」
「御意」
その政方の返事に、信成は満足げな表情を浮かべた。
「思えば二十数年、同じ側室の子として生まれながら、数日あとに生まれたというだけで、あの愚鈍な兄の風下に立ってきた。忍従の日々もあとわずか、というわけか。政方、孝信のことは公儀に何と届け出るのか?」
「発狂からくる乱行著しく、藩主として相応しからず。寺に蟄居謹慎させる旨、大殿と家臣一同の連署をもって届け出れば、問題はありますまい」
「父の花押が使えるのか?」
「某は殿に、公のことを一任いただいておりまする」
政信が藩政に興味がなく、政方に任せきりだったことは事実のようであった。その政信が重篤で意識不明となれば、尚の事思うがままであろう。
(これは何とも……迂闊な一味に加わってしまったかも知れぬな)
伝三郎は二人のやりとりを聞いて、不安に駆られた。
公儀はその傘下に、多くの隠密を抱えていた。その詮議は殊の外厳しく、御家騒動の疑いがあれば徹底的に調べ上げられる。
幕府は常に、各藩の改易や減封を狙っていた。簡単に騙せるものではない。
そういう意味では諸国を広く見てきた伝三郎の方が、客観的に状況が見えていた。藩において優秀な政方も、井の中の蛙なのかも知れない。
(本気で身の振り方は考えねばならんかなあ)
暗殺者として、鉄砲玉のように使い捨てられるのもつまらない。
何となく陣之介の顔を思い出した伝三郎の心は、すでに政方から離れつつあった。