第一話
月明りが照らす秋の夜道を、酔いどれた侍が一人歩いている。
神谷伝三郎。
龍山藩の藩士である。わずか数か月前まで浪人であったこの男は、念願の仕官が叶い絶頂の時にいた。城勤めにもようやく慣れ、近頃は夜道の月明りを楽しむ余裕もあった。
ここのところ、城では連日の評定であった。
新参者の伝三郎が発言するようなことは、もちろんない。あくびを堪え、ただ時が過ぎるのを待つ。
禄を食むためとはいえ、この時間は実に苦痛であった。
しかも評定は連日続く。最近は仕官したことを後悔することもあったが、妻のことを考えれば、今回はそうも言っていられなかった。何かと変わり者の妻ではあったが、いつまでも内職をさせるわけにもいかない。
元来適当な性質のこの男は、浪人時代も自由気ままに過ごしていたが、慣れない城勤めに鬱憤は日々たまる一方であった。
この日はついに我慢できず、失態を犯すまいと仕官以来我慢していた酒を飲んだ。久方振りの酒に、上機嫌で夜道を歩く。
城から家路への途中には、古びた稲荷神社がある。
いつもは特に手を合わせることもなく通り過ぎるこの神社に、この日の伝三郎はふらりと立ち入った。夜の闇はひんやりと辺りを包み、月明りはぼんやりと神社の全景を映し出している。
色あせた朱色の鳥居と古びた社。ありきたりの神社の境内には、一対のこれまたありきたりな狐の石像があった。その狐を一瞥して通り過ぎた伝三郎は、社の前で手を合わせる。
「おお、寒い寒い」
不意に季節らしからぬ寒気を感じた伝三郎は、踵を返した。明日も評定があることを考えれば、風邪などひきたくはない。
小走りに境内を駆け戻る伝三郎の背後に、急な殺気があった。振り返った眼前に立つ黒装束の男は、ゆっくりと刀を抜く。
(ほう……遂に来たか)
伝三郎は心の中でほくそ笑んだ。彼にはこの襲撃に心当たりがあったのである。
龍山藩には、ありきたりの御家騒動があった。
即ち藩主、龍山政信の長男、孝信と異母弟、信成の家督争いである。
ともに側室から生まれたこの二人は歳も近く、何かと比べられる存在であった。
藩主政信が病に伏すと、家臣は両派に分かれて水面下で対立することになった。
温厚だがやや愚鈍にみられる孝信と、才気煥発ながら粗暴な信成。わずか数日ながら長幼の序を考えれば、跡継ぎは孝信になるのが筋であった。
しかし信成の後ろには、筆頭家老の倉田政方がいた。この政方の娘が、信成に嫁いでいたからである。
倉田政方は、あまり藩政に積極的に取り組まなかった政信を補佐し、実質的に龍山藩を取り仕切ってきた重臣であった。自然と彼の周りには人が集まり、派閥が形成されたのは当然の成り行きと言っていい。
加えて長子、孝信側にも問題があった。
孝信は幕府の斡旋によって隣国鷹月藩の姫を娶っていたが、この鷹月藩が龍山藩とは歴史的に仇敵と言っていい間柄であった。
太平の世になっても国境で諍いが絶えず、家臣らはこの姫を快く思っていなかった。その反発もあって、信成派は数を増やしたのである。
やがて、病に伏せっていた政信が重篤な事態に陥り意識不明になると、その対立はさらに鮮明となった。
両派は周辺に、腕の立つ者を集めた。
伝三郎が伝手を頼り、倉田政方に推挙されて龍山藩に仕えたのは丁度この頃であった。この太平の世に、算盤も弾けぬ伝三郎が龍山藩に仕官できたのは、政方にその腕を見込まれたことによる。
事態は日々切迫し、評定の数は増えていた。
ただ幕府に御家騒動が伝われば、咎めを受けることは必死であった。両派はあくまでも水面下で激しく火花を散らしていたが、いつ暴発してもおかしくない状況にあった。
伝三郎が内心ほくそ笑んだのは、ついに孝信派が暴発したと踏んだからであった。人を斬って飯を食えるなど、この男にとってこんな割のいい商売はない。
孝信派も、伝三郎がその腕を見込まれて倉田政方に推挙されたことは、薄々感づいているであろう。まずは腕利きを闇討ちするという状況に選ばれたことが、伝三郎の気分を良くしていた。
月明りにぼんやり浮かぶ黒装束の男は、頭まですっぽりと頭巾で覆われ、その正体は分からない。
「名を名乗れ、痴れ者め」
黒装束の男は、その伝三郎の言葉に返答することなく、流れるように斬り込んできた。
たとえ酔っていようとも、伝三郎の動きに乱れはない。
瞬時に刀を抜いた伝三郎は、その切っ先を軽く受け流す。その黒装束の斬撃は、速さの割には軽かった。
二度三度と斬り合ううちに、黒装束の懐に隙が生まれた。伝三郎は躊躇なく踏み込んで、懐を真一文字に振りぬく。
「っ!」
黒装束は怯んで、後ろに飛び退る。何かが糸を引くように落ち、その上に布のような物が落ちた。
「おい、待て!」
伝三郎の声もむなしく、黒装束はそのまま闇に消え去った。その逃げ様は鮮やかであった。
「ちっ、つまらぬ奴よ」
伝三郎はそう舌打ちをして、落ちた布を拾い上げる。
「これは……」
布の下には、わずかな鮮血を残した小指が転がっていた。どうやら伝三郎の切っ先は、襲撃者に届いていたらしい。
手に取った手ぬぐいらしき布には、家紋が刺繍されていた。その家紋には、見覚えがあった。
「この家紋は確か、片山陣之介の……」
片山陣之介は、家中随一の剣術の腕を持つと言われる男で、孝信派と目されていた。信成派にとっては、もっとも警戒すべき人物と言っていい。
「これはいい。良い戦利品を手に入れたぞ」
伝三郎はそうほくそ笑んだ。
片山陣之介に勝ったとなれば、倉田政方にいい報告ができる。家中一の腕利きを斬ったとなれば、当然伝三郎の名も上がるだろう。
この男は昔人斬りをしていた頃、斬った相手の体の一部を持って帰るという妙な癖があった。伝三郎は躊躇なくその指を布で包み、懐に入れて持って帰る。
帰宅した伝三郎は早速、その小指を妻に見せた。
「あら、あなた……変なものを持って帰って……気味が悪いですよう」
妻の時緒が、間延びした声を出す。
この妻は昔から感情の起伏があまりなかった。気味が悪いと言いながらも、怖がる様子を見せない。
拍子抜けした伝三郎は、使用人の辰吉を呼んだ。
「神棚に飾っておけ」
「へ、へい」
目を白黒させる辰吉は、大事な物を抱えるように小指を持ち、神棚に捧げる。神棚は途端に、異様な光景となった。
いつでも取り出せるように、家紋入りの布は懐に入れる。
(明日が楽しみだ。片山陣之介は、どんな顔をしてくるかな?)
さすがに新しく小指を生やすのは不可能であろう。真っ青な顔で現れるに違いない。
伝三郎は一人悦に入り、声を抑えて笑った。
時緒が不思議そうな表情で、伝三郎を見つめていた。