016
橘佳純の「囮としての役割」は果たした。
この先の事はただの高校生の関わる範疇を超えている。
あとは大人達に任せよう。
橘佳純を守る必要はなくなった。
俺が強くなる理由もない。
だから小室道場に通う必要もない。
それでも南室綸としての責任は果たさなければならない。
橘佳純は俺の顔を見るなり怪我の心配をしてくれた。
「無理しないで休めばいいのに。」
何とも無い。怪我の治りは速い。
いつものように3人が合流するが昨日の事は話さなかった。
「私が後でちゃんと話しておくから」
と、橘佳純の言葉に従った。
そしてその日の英語の授業。
担任は女性を連れて現れた。
それは、とても美しい吸血鬼だった。
一目見ただけで、自分がこの女性の虜になったような気さえした。
男子も女子も無関係に見惚れている。
橘佳純は驚いている。
彼女が吸血鬼だからなのか。それとも知り合いなのだろうか。
英語の特別講師と紹介されたその女性はとても綺麗な日本語で
「サーラ・プナイリンナです。」と自己紹介した。
肝心の授業は彼女に対する質問に終始してしまった。
フィンランド人。数年前にこの学校に留学生として通っていた。
チャイムが鳴っても中々終わらない質問が突然ピタリと止まる。
取り囲んでいた生徒達の輪が一方向開き、彼女が橘佳純に歩み寄った。
「カスミ・タチバナ。」
「はい。」
「私はサーラ・プナイリンナ。アナタのお姉様とは親友なの。」
「はい。存じておりますお姫様。」
「アナタもお姫様でしょ。」
素敵な笑顔で橘佳純を抱き締めた。
「やっと会えたわ。」
橘佳純は驚きながらも身を委ねた。が、すぐに我に返り
「どうしてこの街に。姉は今」
「何言ってるの。ユイにアナタの傍にいるように頼まれたのよ。」
「ええっ?態々王女様がどうして。」
「ユイの旦那様にちょっとした借りがあってね。」
「そんな。どんな貸し借りか判りませんがどうして私を。」
「あのね、私の大事な人から聞いたんだけど」
「見ず知らずの人と貸し借りなんて出来ない。トモダチだかこそなんだよって。」
「ユイの旦那様がそう言ったんだって。」
「でも。」
「私に借りを返す機会をちょうだいカスミ。」
サーラ・プナイリンナ。
フィンランドに住まう吸血鬼一族の王女。
彼女は「学校内」での橘佳純の警護。
橘佳純はただただ恐縮していた。
「私なんかのために。」
だが後日判るのだが、この吸血鬼の王女は日本に避難してきたのだった。
王女様本人のご機嫌を損なわぬような「口実」で欧州から遠いアジアの島国への避難。
橘佳純も、そして俺も
この偉大な吸血鬼が橘結の仕事に関わる一連において生じている件によって
橘佳純の護衛のためだけに来日したのだと思い込んでいた。
橘結の恋人。
その人の「お願い」が全ての前提にある。
彼はこの王女を「避難」させるつもりなどなかった。
彼の親友であり、この王女の婿からの依頼。
サーラ王女がそれを知る事は恐らくないだろう。
道場での練習をさぼったのは初めてだった。
橘佳純が昨日の事を話すだろう。「怪我をしたから」程度で済むはずだ。
もう鍛える必要はない。
滝沢伊紀。魔女達。吸血鬼の王女様。
敷島楓も宮田柚もいる。箱田佐代に津久田伴。
充分だ。
もう橘佳純の傍にいる理由すらない。
俺は何の役に立たない。
俺は弱い。それを思い知った。
何度も何度も、肩を極められた場面が再生させれる。
初めての感情。激情。
イラついているのが判る。身体の内側から沸く破壊の衝動
走るか。
疲れ果てて何も考えられなくなるまで走ろう。
少し走ってくる。先に寝ていて。
祖父母(今は両親か)に嘘は吐かない。
道場に行かなかった事を何も尋ねたりしなかった。
昨日の話をしても、ただただ俺の怪我の心配だけをしてくれた。
「気を付けてね。」
とだけ言って送り出してくれた。
2人は俺を信頼している。信用している。
だから俺も、2人を裏切ったりはしたくない。
意識したのか無意識なのか、気付くと神社に向う公園にいた。
この階段を上り下りするだけで相当疲れるだろう。
そんな程度にしか考えていなかった。
こんな時間に誰かいる筈もない。
何も気にする必要なんてない。疲れたいからそうするだけだ。
公園を少しウロウロして、俺は階段を登らず丘を降りた。
こんな事なら道場で身体を動かせば少しは気が紛れたかもしれない。




