その2
街明かりに引かれるように人通りの多い駅前に向かいながら僕は何を食べようかと周囲を見渡すと色々な店から漂ってくる香しい匂いに自然と空腹感が増してくる。
さてと、どの店に入ろうか…。
いくつかある居酒屋の看板に目を向けながら、どの店にするか思案していた僕はふと小さな看板に気がついた。
人通りの多い一角から少し離れた場所にポツンと存在する今にも消えそうな看板、外からは店内の様子は見えないけれど混んでる様子はなさそうだった。
【創作居酒屋entreprise noire】
その看板の入り口は引き戸の曇りガラスで、横文字なのに暖簾がかけられていて何だかチグハグだ。しかも、暖簾のそばにある赤提灯にも外国の観光客にでも売るのか?横文字で店名が書かれている。
「創作居酒屋か。えっと、えんとれ?あんとる?うーん、最後のはノワールだからフランス語かな?フランス料理の居酒屋?うん、面白そうだ」
僕は何となく面白そうって理由だけで、その店に決めた。まぁ、フランス料理って言っても居酒屋だからそんなに高くないだろうし、それ以上に僕の空腹感が限界だった。
「うんじゃ、まぁ、入ってみようかな」
居酒屋の定番の引き戸を開ける。
ガラガラガラガラ。
「「「お疲れさまです!!」」」
店内から元気の良い声が聞こえた…けど。
うんっ?なんかおかしくない?
普通は「いらっしゃいませ」だよね?
なんで、「お疲れさまです」なんだ?
入り口で戸惑う僕に店員らしき女性が駆け寄ってくる。なんで《らしき》かって言うと…だって、その人はスーツ姿だったから。
目の前の女店員さん?は黒髪を邪魔にならないように後ろに縛っていて、度なしの黒淵メガネをかけてレディーススーツに身を包んだ姿はバリバリのキャリアウーマンに見える。
その姿に困惑する。
だって、そうだろ?
居酒屋に来たはずなのに出迎えてくれた店員さんの姿を見たら今から打ち合わせでもするのかって雰囲気なんだから。
「ご来店、誠にありがとうございます」
僕の前で深々と頭を下げるスーツ姿の店員さん。
「えっと、ここって居酒屋ですよね?」
「はい、我が社は創作居酒屋アントルプリーズノワールです。あっ、申し遅れました。私、本日お客様を担当させていただきます佐藤と申します」
慣れた手つきで胸元から名刺を取り出し渡してくる行動についつい条件反射で内ポケットから自分の名刺を取り出す。
「どうも、ご丁寧に。私は第一企画課の梶山明です」
互いに頭を下げながらの名刺交換…なんだ、これ?
まぁ、名刺を見る限り居酒屋なのは間違いないみたい。ふぅ~ん、アントルプリーズノワールって読むんだ…どういう意味だろう。
「では、梶山さま。お席の方に案内いたします」
両手を前に添えて軽くお辞儀をすると佐藤さんは僕を席へと案内してくれる。ただね…このお店、案内するほど広くないんだけど?
テーブル席が二つ、後はカウンターに五つ席があるだけの小さな間取り。カウンター席でも良いのだけれど佐藤さんは何故かテーブル席に僕を案内する。
僕が席に座ろうとすると佐藤さんはサッと椅子を引いて座りやすくしてくれる。何だか高級レストランに来たみたいだ、
けど……。
僕は店の内装を見て苦笑する。
壁には手書きのお品書きやビール会社の宣伝ポスター、微かに聞こえるBGMは演歌だ。
まさにTHE昭和の居酒屋の風景。
けれど、チラリと視線を別方向に向けるとスーツ姿の佐藤さんが営業スマイルを浮かべて立っている。
うん、なんだろう、このチグハグ感は…。
そんなモヤモヤとした感情に包まれながらも、せっかく居酒屋に来たのだから楽しまないと。
それに--グゥ。お腹が限界だ。
「じゃあ、とりあえず生を。あとメニューは…」
あれっ?メニューらしきものが見当たらない。あぁ、そうか。壁に書かれたお品書き……。
壁に書かれたお品書きに目を向けた僕はある意味で思考が停止してしまう。
何故かって?
それはね---。
お品書き一覧表
・勇気の印---priceless
・馬車馬のごとく--Price less
・社畜の鏡---Price less
・お局様のイビり---Price less
・徹夜明け---Price less
・中間管理職---Price less
等々、意味の分からない単語が並んでいる。
いや、意味はわかるよ?
でもね、お品書きとして意味が分からないんだよ?
しかも、全てがpricelessって…。
「お悩みになられましたら、お得なセットメニューが御座いますよ?我が社の自慢料理を堪能できて飲み放題のプランとなっております」
お品書きに困惑する僕に傍らにいた佐藤さんは営業スマイルで唯一、値段が書かれている品物を教えてくれた。けど、それは--。
『今日は無礼講!信じるな、それは罠だ』--¥5963
何だかネーミングセンスに疑問を覚えるけど、値段の書かれていない物を頼む勇気は僕にはない。
はいっ、小市民ですから。
「じゃあ、そのプランでお願いします」
僕の言葉に深々とお辞儀する佐藤さん。
「承りました。では、ご依頼を頂きました!」
佐藤さんはクルリと振り返り厨房へと声をかける。
「「「ご依頼、ありがとうございます」」」
うん、さっきから合いの手がおかしい。
「先ずは『社長の格言、部下は生かさず殺さず生殺し』とセットメニュー『今日は無礼講!信じるな、それは罠だ』をご依頼です」
ちょっと、待て!なんなの?その物騒な社長の格言?ってか、僕はそんなものを頼んだか?あっ!?生殺し…生ビール、そういうことなんだね…。
混乱する僕の思考をよそに厨房から今度は同乗するような控えめな声で合いの手が聞こえてくる。
「「「ご苦労様です…」」」
うん、そうだね。
そんな社長の存在する会社は苦労するよね…それ以前にさっきから合いの手がおかしいよ?しかも、絶妙なトーンで返してくるって…。
苦笑する僕のそばで佐藤さんが声をかけてきた。
「それでは業務は部下へと引き継ぎます」
時計をチラリと見てにっこりと微笑む。
「佐藤さんは私の担当だったのでは?」
ふと最初の言葉を思い出す。
「時間外ですので」
僕の問いに先程までの営業スマイルがスーッと消え、真顔の表情…なんか恐い。
「私、残業しませんから」
どこぞの天才外科医の如くキッパリと言いきる佐藤さん。こういう人って、いるよねぇ~。
社畜の僕としてはその性格が羨ましいよ。
「はぁ…分かりました」
もうね、この居酒屋に来てから流されっぱなし…。
「では、引き継ぎの者を呼びますね。綾ちゃん、ちょっと来てもらえるー?」
厨房に向けて声をかける佐藤さん。
「はいっ!直ぐにいきます!」
ハキハキと返事をした女の子が厨房から聞こえて、バタバタとした足音が近づいてくる。
バタバタバタバタ----バタンッ。
「キャッ!?あぁー、もう」
いま、明かにコケたね。しかも、盛大に…。
大丈夫かな?