其ノ終
横窓から仄かに差し込む陽光に、孤朧庵の静まり返った板張りの廊下は、薄く白光を纏うように照らし上げられていた。
足首にほんのりとした陽の暖かさを感じながら、僕はゆっくりとその上を渡って行く。
やがて、廊下の突き当たりに現れたそこには、麗らかな日差しに包まれていた縁側で、こちらへと背を向けて座わる秋音さんの姿があった。
陽だまりの中、ぼんやりと中庭を眺めていた彼女は、背後に人の気配を感じて振り返る。廊下側に立つ僕を認めた彼女の顔には、すぐに嬉しそうな驚きの色が広がっていった。
「えっ、あれっ、善鞍くん!? いつ、ここに来てたの? 全然、気が付かなかったよ」
「ほんの数十分程前に、こっそりお邪魔していました。今日は徹さんに少し急ぎの用事があったから、悪いけど秋音さんへの挨拶は順延させてもらってたんだ」
本日僕が孤朧庵を訪れていたのは、先日一波乱を巻き起こしていた緊急会合と、その後の経緯について、尾上氏への連絡と相談を行うためであった。
昨日、本領を発揮した彼が大喝を下した後、道誠寺の屋敷における会合は、有耶無耶の内に幕引きとなっていた。それでも、その翌日には伏生・道誠寺の両当主が前後して孤朧庵を訪ね、今回の不祥事について尾上氏へと反省の弁を述べてきたという。
それを受けた尾上氏は、伏生家と道誠寺家が互いに謝罪を取り交わす機会として、数日後に改めて会合を設けることを決定した。
そこでは、騒動の原因となった八島・沖田両氏の責任も追及する予定となっており、僕は回復の兆しを見せつつある爺ちゃんのためにも、再度裏付けのための調査や聞き込みを各所で行う手筈となっていたのだった。
そういった後日談について触れながら、座ったままの秋音さんの近くへと寄った僕は、彼女の膝を枕にしている風亜ちゃんの寝姿を発見する。予想外の同席者に驚く僕に、秋音さんは声を潜めて微笑むと、彼女が時々孤朧庵へと遊びに来るようになっていたことを明かした。
「この前、相良さん達のお家に行った時、風亜ちゃんにいつでも私の家に遊びに来て良いよ、って言ってたの。今日は、さっきまでずっとレミィの相手をしていたんだけど、遊び疲れちゃったみたい」
秋音さんの膝ですやすやと寝息を立てる彼女の腕では、抱き枕代わりにしっかりと抱きしめられていたレミィが、窮屈そうな面持ちをして収まっていた。
こちらを黄色い瞳でジロリと見上げた彼女は、僕へと薄く疲労の滲んだ声で訴えた。
「ちょっと蒼司。この子、どうにかしてくれない? 秋音の顔を立てて、少し相手をしてやったら、調子に乗ってこのザマよ。いい加減、もう私もくたくたなんだけど」
力無く尻尾を振ってそう嘆願するレミィに、しかしお昼寝中の風亜ちゃんを起こさずに救出するのは無理だと判断した僕は、手刀を立てて彼女の冥福を祈るしか出来なかった。
現在、子どもの縫いぐるみのように扱われてしまっているレミィが、以前から孤朧庵へとしばしば顔を覗かせており、実は秋音さんを名付け親としていたという事実を、僕はつい先日彼女自身から聞いたばかりだった。
「あの子は私が行った時、いつも美味しい物をくれるのよ。だから、あの子にその恩を返すって意味でも、あんたに色々と手伝ってもらったって訳。それに、あの子の身に何かありでもしたら、私にとっても貴重な食い扶持が無くなって、結構な死活問題になっちゃうしね」
双方の関係をそう説明するレミィに、僕は彼女がどうして秋音さんをそこまで気に掛けていたのか、ようやくその疑問をすっきりと解消させられていたのであった。
そんな僕から救助要請を断られた彼女は、細い胴へと二本の腕を回されたまま、恨みがましい口調で文句を呟く。まさか、レミィが聞くもおぞましい呪詛の言葉を発しているとは知る由もなく、秋音さんは前回の会合の顛末について、僕へと気軽に話題を振ってきた。
「それにしても、この間の集まりの時、善鞍くんすっごい活躍だったよね。まさか、像のある所まで当てちゃうなんて、私もびっくりしちゃったよ」
「う~ん、まあ、もしあそこに何も入ってなかったらお手上げだったし、準備の面に関しても、色々と手落ちな部分があったけどね。それに、徹さんが上手く場を鎮めてくれなければどうなっていたかも分からないし、代行役としては不合格な出来だったかもしれないなあ」
「そんなこと、絶対にないよ! 善鞍くん、本物の名探偵みたいで、格好良かったよ!」
「あはは、恐縮です。でも、流石に名探偵は言い過ぎかな。だって、僕には今になってもどうしても分からない、最大の難問が残されているんだから」
その謎めいた言い回しに小首を傾げる秋音さんに、僕はどうして彼女が一人で相良兄妹の本拠地へと乗り込んだのか、その真意を改めて問い質した。
僕に随行しての調査でアライグマの存在に気付いたのなら、それを僕や尾上氏などへと伝える機会は、幾らでもあったはずである。なのに、僕や壬ちゃんにまで事情を隠し、単独で彼らの根城へと向かうなど、慎重派の彼女のイメージとは程遠い行動だった。
僕がここ数日の間頭を悩ませたものの、結論へと辿り着くことの叶わなかったその問いの答えを、秋音さんはやや気恥ずかしそうにしながら告げた。
「それは、もし私の考えたことが見当外れだったら、善鞍くんに迷惑を掛けちゃうと思ったからなの。私、あんまり頭も良くないし、普段もよく失敗とかして、周りの人にも怒られてるし……。だから、代行の仕事をしている善鞍くんに教える前に、まずは自分でちゃんと確かめなきゃ、って思ったんだ。でも、結局は善鞍くんだけじゃなくて、壬ちゃんやレミィにまで心配を掛けちゃうことになっちゃったんだけどね」
最後に自省の念を忍ばせた苦笑を浮かべ、彼女はその告白を締め括る。
自らの迂闊な進言によって、代行である僕の責任問題を生じさせるのを未然に防ごうとしていたとする彼女に、僕はその卑屈なまでの健気さに心を揺さ振られずにはいられなかった。
感極まった僕は衝動を抑えられず、思わず彼女へと早口で断りを入れる。
「秋音さん、僕は今から君を、熱く強く抱擁しようと思っている。でも、それは決して疚しい劣情からではなく、純粋な感謝の気持ちからであることを理解して欲しい。だからどうか君の方でも、快くそれを受け取ってくれれば嬉し―」
「何を、気色悪い宣言かましてくれてんのよ、この変態ドすけべ痴漢野郎がっ!!」
突如、甲高い怒声が響いたかと思うと、広間へと謎の小さい影が割って入り、僕の顔面を殴り飛ばす。強制的に口を閉ざされ倒れ伏す僕を、握り拳を作って冷たく見下ろしていた壬ちゃんに、秋音さんは眼を丸くして驚いていた。
「つ、壬ちゃん!? 何でここに……じゃなくて、えっと、何で善鞍くんを―?」
「こいつが馬鹿みたいな理由付けて、あんたに変なことしようとしてたからよ。全く、近くに来たついでに、あんたの顔でも見ていこうと思って正解だったわ」
「そ、そうなんだ……。もしかして壬ちゃんも、徹さんに何か用事だったの?」
息巻く壬ちゃんを取り成すように、秋音さんは彼女へと孤朧庵を訪ねた訳を尋ねる。
何気ないその質問に、壬ちゃんはどこか不機嫌そうに細めた両目で、ジロリと秋音さんの方を流し見た。
「別に、用事なんてないわよ。それとも、用でもなければ、ここに来ちゃいけないのかしら?」
「え……? う、ううん、そんなこと、ないけど……。でも、だったらどうして―」
「何でだって、良いじゃない。だって、あの、私達は……とっ、トモダチでしょ! そんな相手の所に立ち寄るのに、いちいち前もって予約を入れてたりなんかしたら、面倒臭くてやってられないでしょうが!」
若干ぎこちなさの目立つ口調でそう言い切った彼女は、大きく鼻を鳴らしてそっぽを向く。気まり悪そうに視線を逸らす彼女に、そのつっけんどんな返答を耳にした秋音さんは、驚きと喜びから頬を赤く染め、こそばゆそうにはにかんでいた。
どうやら、二人の知り合い以上友達未満な関係も、今度の一件を通して一歩前進を果たしたようであった。
そんな二人の初々しいやり取りを見届けた僕は、受け身を取っていた廊下から体を起こす。
そして、素直ではないが優しい友人、彼女にとても懐いている天真爛漫な幼女、それから彼女をいつも見守っている不愛想な黒猫に囲まれている秋音さんに、僕は思ったままの正直な感想を述べた。
「なあんだ。秋音さんにも、沢山の友達がいるじゃないか」
何気ない僕のその一言に、秋音さんは大きく瞬きをして戸惑っていた。
それでも、やがて気恥ずかしそうに相好を崩した彼女は、僕へととても力強く、そしてとても嬉しそうに頷き返していた。