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其ノ伍 第二助手の事情

「お願い、壬ちゃん。今日の放課後、私の代わりに善鞍くんの手伝いをして欲しいの」

 善鞍の奴の代行業に付き合わされることとなった、その次の日の昼休み。

 いきなり私の教室へとやって来た秋音は、挨拶もそこそこにしてこんな頼みを振ってきた。

 恐る恐るこちらを窺っている秋音に、私は戸惑いを覚えながら、その理由を訊き返す。

「えっと……それってまさか、私にあいつと二人きりで、昨日と同じことをやれってこと?」

「う、うん。善鞍くん、今日も街で調べものをするみたいなんだけど、私はちょっと一緒に行けそうにないから。だから、壬ちゃんに善鞍くんの仕事を手伝ってもらえたらなって……」

「つまり、あんたは来ないと。だったら、悪いけどお断りさせてもらうわ。あんたがいないっていうのなら、わざわざあんな奴と顔を突き合わせる意味なんか、これっぽっちもないし」

 私が昨日二人に同行したのは、あくまで秋音の身を守るためであった。

 なのに、その保護すべき相手がいないとなれば、もはや私があの男と共にいる必要は、微塵も欠片もありはしなかった。

 あっさりと頼みを断る私に、秋音は少しの間、困り顔となって口を閉ざしていた。

だが、それでも彼女は(くじ)けることなく、私へと更に食い下がってきた。

「無理なことを言って、本当にごめん。でも、壬ちゃんなら私なんかより、もっと善鞍くんの役に立てると思うの。だから今日だけ、今日だけで良いから、善鞍くんのお手伝いをしてあげて。お願い壬ちゃん、お願いします!」

 秋音はお世辞にも高くはない私の背より、もっと下の位置へと頭を下げながらそう訴えた。

頼みを聞くまでは絶対に諦めようとしない彼女に、私は自分へと向けられている白い旋毛(つむじ)を、茫然として見詰めるしかできなかった。

 私の知る伊奈沢秋音という同い年の女子は、気が弱くて臆病で、自己主張を一番苦手とする、奥手な性格の持ち主だった。だからこそ、そんな彼女が一度は拒絶されながらも、自分の希望を押し通そうとする姿勢は、以前は全く想像すら出来ないものだった。

秋音にそうした変化が起こった切っ掛けは、私にははっきりと分かっていた。

それは、あの善鞍とかいう奇妙な男子が、彼女の周りをうろつき始めたことだった。

万が一にも有り得ないが、秋音があんな奴に惚れてしまっているとは思えない。

だが、献身的に彼へと協力する彼女の姿は、傍目から見ていても、どこか心許(こころもと)ない危うさを感じずにはいられないものだった。

結局、私は直接その本心を問い質すことも出来ず、彼女の頼みを聞き入れるしかなかった。

放課後、私は昼間の重い気分を引き()ったまま、別棟にある善鞍のクラスへと向かった。移動教室でしか来ることのない、あまり馴染みのない場所の中で、幸いにもあいつはすぐに見付かった。

彼は友人らしい男子と話をしているようで、その内容は教室の入口に立っていた私の耳にも届いてきた。

「じゃあ、昨日お前が女子を二人も連れて歩いていたっていう話は、本当に根も葉もない噂なんだな? 俺はお前の言葉を、信用してもいいんだな?」

「そうだよ、昇。今更、何を言うんだよ。僕がそんな、眉目秀麗(びもくしゅうれい)でうら若い乙女達を、両手に花と抱えて街を闊歩(かっぽ)するなんて、出来るはずもないじゃないか。それは、日頃の僕の干し物っぷりを目にしている君が、一番良く知っているはずだろう?」

「それも、そうだな……。いや、抜け駆けしているんじゃないかなんて、変に疑って悪かった。たぶん、俺の部活の後輩が見たのは、お前に良く似た別人だったんだろうな。改めて考えれば、お前が放課後に女子と仲良くしているなんて、そんなの有るはずなんて無いものな」

「やれやれだよ、全く。僕のドッペルゲンガーを見たとかいうその後輩君には、君からきついお(きゅう)を据えておいてくれ。これ以上変な風聞を立てられたら、こっちもいい迷惑だからさ」

 どうやら善鞍は、昨日私達が三人でいた所を見られたことを、必死になって弁明しているようだった。

 彼女が出来たかどうかを牽制し合う、男子達の底の浅さと馬鹿さ加減に、私はげんなりとしてしまう。これ以上、不毛な会話を耳にするのに耐えられなかった私は、思い切って教室の中へと踏み込み、油断している善鞍のふくらはぎを後ろから蹴り付けてやった。

悲鳴と共に小さく跳び上がった彼は、自分を蹴ったのが私であると気付くと、痛がるのも忘れて呆気に取られてしまっていた。

「あれ、壬ちゃん? 何で君が、僕の教室に居るんだい?」

 善鞍はとぼけた顔をしながら、よりによって他の生徒のいる前で、私の名前を『ちゃん』付けで呼んだ。

私は怒りと恥ずかしさから、頭にカッと血が上るのを感じた。

善鞍がそれ以上変なことを口走らない内に、私は彼の上着を空いていた手で掴み取ると、強引に外へと引っ張っていった。

「ちょ、ちょっと待ってよ壬ちゃん、突然どうしたの……。あっ、違う、違うんだ、昇! そんな、戦死した戦友の棺が海の底に沈んで行くのを見送るような、寂し気な別れの眼差しで僕を見ないで! 無実なんだ、冤罪なんだ! それでも僕は、やってないんだあああ!!」

 善鞍は廊下へと連れ出される間も、自分の友人へと耳障りな声で騒ぎ続けていた。

それでも、一旦廊下へと出た後は、彼は目立った抵抗をすることもなく、下足室へと向かう私の後を、よろめきながら観念したように付いてきていた。

校舎の外に出てからも、善鞍はガックリと肩を落とし、気落ちから前屈みとなって歩いていた。惨めで情けないその姿を背中越しに見ながら、やはり秋音がこいつなんかに心を寄せているはずはないと、私ははっきりと確信した。

要らない心配をしていたことに、私はほっと胸を撫で下ろし、それからさっきとはまた別の怒りを覚える。いつまでもうじうじとしている善鞍に、私はこれまでの鬱憤(うっぷん)を晴らす意味も込めて、振り返り様に怒鳴り付けてやった。

「もう、うるさいわね! 男がいつまでもメソメソしてんじゃないわよ、めんどくさい!」

「うう……。でも、不可抗力なハプニングで、男同士の友情に()われのない深い溝が―」

「知らないわよ、そんなの。私のせいだって言いたいのかもしれないけど、あんたがあんな所で、あんな呼び方をするのが悪いんじゃない。自業自得よ、自業自得」

「うーん、確かにそれも、一理あるなあ……。まあ、昇への釈明の機会も後日にあるだろうし、ここは壬ちゃんの言う通り、しっかり気持ちを保たないといけないな」

 そうぼそりとつぶやいた善鞍は、深い溜息を一つ吐き出す。途端に、彼は曲げていた背中をシャキンと伸ばし、それまで暗く沈んでいた顔を、妙に晴れ晴れとしたものへ変えた。

 そのわざとらしい程の変わり身の早さに、私は再び『ちゃん』付けで呼ばれたことに腹が立つのも忘れ、拍子抜けしてしまう。善鞍は私の冷めた視線に気付く素振りもなく、ふと不思議そうな表情となってこちらを見返してきた。

「でも、そう言えば、どうして壬ちゃんは僕を迎えに? もしかして、僕が今日も調査に出るって聞いて、また協力してくれるつもりだったの?」

「秋音に頼まれたのよ。あの子は別の用事で手が離せないとかで、代わりにあんたの手伝いをしてくれってね。まったくあの子の頼みじゃなけりゃ、あんたなんかと二人きりになんて、()えっっ(たい)になりたくなんかないんだけど!」

「恐縮です、はい。でも、そんなに嫌な頼みでも聞いて上げるなんて、やっぱり壬ちゃんって、結構な友達想いなんだね。僕の場合は、まだあんまり実感できてはいないけど」

「あんたが実感することは、一生無い!! そもそもあんたは友達になんかなり得ないし、それに……その、秋音とだって別に、そんな関係じゃないし……」

 秋音との間柄について触れた時、私は自分でも気付かない内に、自分の声が小さく震えてしまっているのに気付いた。

そんな表に出てしまった私の微かな動揺に、善鞍は両目をすっと細めていた。

いつもは間が抜けた言動ばかりしているこの男は、時々妙に鋭い目付きをする時がある。

そして、まるで相手の心や物事の裏を見透かそうとするようなその不躾(ぶしつけ)な眼差しも、私が彼を苦手としている理由の一つだった。

得体の知れないその視線を、私は相手の顔面へとパンチを見舞い、無理矢理に(さえぎ)る。右の頬を押さえてふらつく彼に、私はこれからの予定について問い質した。

「そんなことは、どうだって良いのよ! それよりさっさと、今日の用事を済ませなさいよ! そうじゃないと、私もいつまでもあんたと一緒にいなきゃいけないじゃないの!」

「諒解です、サー。まあ、でも、僕としては親睦(しんぼく)を深める意味でも、君と長く行動を共にするのは一向に構わないんだけど―」

 にやけた顔で気色悪いことを言い始めた善鞍を、私は握り拳を掲げて黙らせる。

 苦笑いを浮かべた彼がまず向かうとしたのは、昨日訪れていたはずの八島の家だった。

「そこならあんた、つい昨日行ったばかりじゃない。何か、訊き忘れてでもいた訳?」

「いや、少し八島氏に確認しておきたいことがあってね。大した内容じゃないから、すぐに終わると思うけど」

 あっけらかんと答える彼は、どことなく自分が抱いている疑問について、私に聞いて欲しいような雰囲気を出していた。なので、私は街に降りて八島の家に着くまでの間、徹底的に無関心を貫き通してやった。

 到着した八島の家で善鞍が用事を済ませている間、私は狐の奴らの家に入るのは願い下げであったため、手前の道路の脇で待つことにした。

私は五分以上待たされたら、思いっきり善鞍に文句を言おうと考えていた。

だが、彼は一分も経たない内に、私の立っていた電柱の下へと戻ってきた。

「何よ、随分と早いじゃない。あいつら、留守だったの?」

「ちゃんと、ご在宅だったよ。質問は短いのが一つだけだったし、君を路傍(ろぼう)で待ちくたびれさせるのも申し訳なかったから、迅速に用件を片付けて参りました」

「これはこれは、何とも恩着せがましいことで。それで、今日の用事とやらはこれで終わりかしら? だったら、私はここでさっさと失礼したいんだけど」

「この後は、沖田氏が確保された商店街に行くつもりなんだ。でも、壬ちゃんに面倒を掛けるのも心苦しいし、良ければここで現地解散しても―」

「なら、私も行くしかないじゃない。そりゃあ、確かに面倒だし解散もしたいけど、一応秋音との約束だし、私も勝手に帰る訳にはいかないのよ。ただし、もし親睦がどうたらとかいう理由で私を連れ回しているつもりだったら、後で承知しないからね」

「いや、まさか、そんなはずないですよ。嫌だな、壬ちゃんたらもう、あっははー」

念を押して予防線を張る私に、善鞍は軽薄な調子でそう答えた。

彼の浮かべる薄っぺらい笑顔は、どうにも信用しきれないところがあった。

それでも、例え相手が変なことを企んでいたとしても、実力行使でどうとでもなると考え直し、私は秋音と交わした約束を優先させることに決めた。

沖田の長男が罠にはめられた商店街は、八島の家が持つ稲荷神社のすぐ(そば)の、中心街からはやや外れた場所にあった。

その地域は自宅や通学路ともだいぶ離れているため、私は今までほとんど足を向けたことがなかった。なので、善鞍と共に訪れた古めかしいアーケード商店街の光景は、私にとっては全くと言っていい程に見知らぬものだった。

色んな種類の店が並んでいる通りの中、勝手が分からない私は不服ではあったが、善鞍の後をおとなしく付いていくしかなかった。

そんな右も左も分からない私とは対照的に、彼は少しも戸惑うことなく、次々と辺りの店を回った。そして驚くことに、突然の訪問を受けた店の人達は、その全員が善鞍を気安く親し気に出迎えていた。

普通、仕事中に事前の連絡もなくやって来て、色々と聞くだけ聞いて去っていく相手など、店の側からすれば迷惑でしかないはずだった。

だが、彼らは善鞍の訪問を嫌がりもせず、(そろ)って嬉しそうに歓迎していた。中には、自分の仕事などそっちのけで、彼と楽しそうに談笑している店主も何人かいた。

私はそうした善鞍への意外な対応に驚く一方、彼の家の地元における影響力の強さを、まざまざと見せつけられたような気持ちになった。

逢守神社を(つかさど)る三ツ峰家が、私達のような人の姿を借りた動物達だけでなく、この町に住む人間達からも名を知られた存在であることは知っていた。だからこそ、その家の一員である善鞍が、地元の人間達の間で顔が広いのも、ある意味においては理解できた。

それでも、彼の異常な振る舞いを目にしてきた私としては、善鞍を嫌う相手がここには誰もいないという状況が、まるで嘘か冗談のようにしか思えなかったのだった。

自分のイメージと大きくかけ離れた善鞍の姿に、私はそのギャップから半ば茫然としながら、商店街での彼の行動を見守った。

善鞍は知り合いの店を尋ねる度、沖田が八島から因縁を付けられた、事件直後の騒動について質問をしていた。

彼からそう問われた大半の人間は、二人の争い事に関しては何も知らないか、もしくは通りが騒がしくなってから気付いたとしか答えなかった。

八島が沖田を捕まえた場所の近くでは、二人が喧嘩を始めた現場を実際に見た者も何人かいた。だが、善鞍はそんな彼らの証言より、通りの十字路に面しているタバコ店の、白髪を団子頭に(くく)ったお婆さんの発言に、強い興味を抱いたようだった。

「ああ、ああ、この前この近くで、ケンカをしてた人達ね。それなら、よーく覚えとるよ。確かあん時、お巡りさんの世話になっとった顔の長い男の人が、ちょいと前にここの道をバタバタと走って行ったんよ。そりゃあもう、周りの人達を突き飛ばしながら、もの凄い剣幕で駆け抜けていったもんやから、ワシもそれ見て、何やあれって思ったんよ」

 彼女が身振り手振りを交えて話す内容に、私は特に目新しいものは感じなかった。

 しかし、善鞍は何か引っ掛かるところがあったのか、しつこい位にその話を何度も詳しく聞き直していた。

 彼女の店から去った後も、彼は小難しい顔でずっと何か考え事をしていた。

 善鞍が一体何を疑問に思っているのか、それは私も気にならないではなかった。

 だが、次に訪れた骨董店で、よれよれのシャツを着た店主のお爺さんが口にした一言に、私はそんなことを気に掛ける余裕さえ失ってしまった。

「こん前の騒ぎについて、か? あれは本当に、びっくりしたぜ。何せ、言い争いをしてた内の片方が、騒ぎが起こる少し前、この店で買い物してった奴だったんだからよ」

 何気なく彼が放った初耳の情報に、私と善鞍は同じタイミングで息を呑む。ごちゃごちゃと物の置かれたカウンターに身を乗り出し、善鞍は相手へと更に細かく質問をした。

「ここで、買い物を? どっちが何を購入していったか、覚えていますか?」

「あれは、でっぷりした体をした方だったな。細い方の男とやり合う十分か二十分くらい前に、いきなりふらっと中に入って来るなり、棚にあった置物を買ってったんだよ。あれは確か、店先とかに飾る用の、信楽焼きの狸の置物だったな」

 お爺さんがさばさばとした口調で話した内容に、その意味するところを知った私は、一瞬目の前が真っ暗になるのを感じた。

 骨董店を訪れていた男というのは、特徴からして沖田の長男に違いない。

 その彼が、事件の起こったほんの少し前、稲荷神社に残されていたのと同じ置物を買っていったというのは、沖田が犯人だと示しているも同然の証言だった。

 私は自分の耳で聞いた事が信じられないまま、善鞍とその骨董店を後にする。

買い物客の多くなり始めたアーケードの下を、先程より表情を険しくした善鞍は、黙々と歩き続けていた。黙ったまま何も語ろうとしない彼に、その沈黙に耐えきれなくなった私は、思わず自分から声を掛けた。

「あのね、さっきあそこで聞いたのは、たぶん店の人の勘違いよ! もし、本当に置物を買ったのが沖田だったとしても、それが神社にあったのと同じとは限らな―」

「壬ちゃん、ちょっと良いかな? 今から、稲荷神社の方に行こうと思うんだけど、出来れば君にも一緒に来てもらいたい。頼まれてくれるかな?」

 いつもとは違う真剣味を帯びた彼の申し出に、私は苦し紛れのセリフも宙ぶらりんのまま、おとなしく従うしかなかった。

 おそらく善鞍は、神社の信楽焼きの狸をもう一度見て、それが骨董店の物かどうか確かめるつもりなのだろう。そして、もしそれが同じであると確認されれば、沖田が今度の事件の真犯人として名指しされるであろうことは、私にも容易に想像がついた。

 私は今回の騒ぎが、狐達の陰湿な嫌がらせであると、少しも疑ってはいなかった。

 だからこそ、沖田の犯行を裏付けるような証拠が出てきてしまったことは、まるで地面が足元から崩れていくような、大きく深い欠落感へと私を(おちい)らせていた。

 この事件が沖田の仕業と分かれば、伏生の奴らは当然、狸の宗主を務めている私の家の責任も追及するだろう。そうなれば、どんなに沖田が個人の意思でやったことだと言い張ったところで、私達があいつらに借りを作ってしまうことになるのは目に見えていた。

そんな途方もない屈辱に、狐を生涯の天敵と考えている父さんが耐えられるのか、私は今からとても不安に思わずにはいられなかった。

神社へと着いた善鞍は、やはりまず祠にある狸の置物を調べていた。

まさか邪魔をする訳にもいかず、私がやきもきしながらそれを見ていると、善鞍は祠の中に差し込んでいた顔をすぐに上げた。続いて、腕時計をちらりと見た彼は、私に境内の入口に立つように言ってきた。

「ちょっと僕は道路の方に出るけど、壬ちゃんはそこから動かないでいて。少し、確認しておきたいことがあるから」

 はっきりとした理由は教えないまま、善鞍は私を強引に鳥居の下へと押していく。

 彼が何をしたいのかは分からなかったが、既に反発する気力も失せていた私は、指示された場所で言われた通りに待つことにした。

 私を石段の上に立たせた善鞍は、小走りで道路の反対側へと向かう。

そして、彼はそこにあった細い路地を覗き込んだ後、結構な距離の開いている私に聞こえる位の大きな声で、わざとらしい独り言を叫んだ。

「よーし、これで沖田氏が事件の本星(ほんぼし)だって、はっきりくっきり分かったぞう! 早速家に戻って、敵は道誠寺にありって爺ちゃんに教えなければ!」

 何の前触れもなく聞こえてきた、善鞍のとんでもない発言に、私の頭は真っ白になる。気が動転して言葉を失う私に、彼はその隙を突くように、目の前の路地へと飛び込んで行った。

 このままでは、狸側が全面的に悪いのだと、三ツ峰の当主や尾上様に知られてしまう。

 咄嗟にそう思った私は、固まっていた足を地面から引き剥がすようにして動かし、逃げた善鞍の後をがむしゃらに追った。

 彼に追いついたところでどうするべきなのか、私には全く考えはなかった。

だとしても、(だま)()ち同然に私を振り払おうとする善鞍を、このまま黙って見過ごすことは、私のプライドが許さなかったのだった。

善鞍が駆け込んでいった路地は、住宅街の中を抜ける一本道で、途中には彼が身を隠せるような物陰は無かった。なので、私は彼が通りの先に逃げたのだと踏み、固い地面を蹴ってひたすらに走り続けた。

やがて、五つ目の曲がり角を過ぎた所で、私は商店街近くの通りへと出た。

向かって左の道には人影も少なく、善鞍らしき背中は見えない。対して、右の商店街の大通りへと合流する方には、買い物客や帰宅途中の学生などで、大きな人混みが作られていた。

あいつはおそらく、人の波に紛れて逃げようとしているに違いない。

そう直感した私は、脇目も振らずに商店街へと向かって駆ける。大通りと脇道の交わる十字路の上で立ち止ると、多くの人でごった返す通りを見渡して善鞍を探した。

人の流れは大通りに沿って続いており、私は商店街の端と端を何度も振り返りながら、躍起になって見知った後ろ姿を見付けようとした。だが、私の少しばかり低い身長では充分な見通しが利かず、どうしても視界に彼の姿を捉えられなかった。

善鞍を逃がしてしまったと悟った私は、もはやどうすることもできずに、行き交う人混みの中で立ち尽くすしかなかった。

すると、軽い脱力感と眩暈(めまい)に襲われていた私の肩に、後ろから手を置かれる感触が走った。

はっとして振り向いたそこには、私の右肩に左手を差し伸べている善鞍の姿があった。

訳も分からず絶句する私に、彼は決まり悪そうに苦笑いを浮かべた。

「驚かせてごめん、壬ちゃん。当時の状況を厳密に再現してみようと思って、君が全力で僕を追跡するように仕向けさせてもらったんだ。事前に説明しようかとも思ったんだけど、それじゃあ何だかリアリティに欠けて、信憑性や説得性にも欠ける可能性があったから―」

 いけしゃあしゃあとそんな言葉を並べ立てる彼に、私は落ち着きを取り戻すにつれ、だんだんと激しい怒りが込み上げてきた。

そして、善鞍から騙されていたことへと完全に気付いた瞬間、私は配慮も手加減も一切加えず、本気で彼の向こう(ずね)を蹴り飛ばした。

激痛に悶絶して屈み込む善鞍に、私はその髪を掴んで引き寄せると、彼の耳元で盛大に怒鳴り声を上げた。

「あんた、ふっざけんじゃないわよ!! 私をからかって遊ぶのが、そんなに楽しい訳!? 再現だかリアリティだか知らないけど、つまりはここであんたを探していた私を、陰からこっそり見てたってことでしょうが!! 困っている私を覗いているのは、さぞかし気分が良かったでしょうねえ!? ねえっ!?」

「あ()たたたたた、痛い、痛いよ、壬ちゃん。心から謝罪しますから、どうか僕の痛覚をこれ以上虐めないで下さい、あっ駄目、抜けちゃう、それ以上は抜けちゃうからっ!!」

 往来のど真ん中で騒ぎ立てる私達に、通りすがりの人達は面食らった様子で、遠巻きにこちらを流し見ていた。

 私としてはまだ全然収まりはついてはいなかったが、沖田達のような大々的な騒ぎになるのは避けたかったため、ここは仕方なく善鞍を解放してやることにした。

 よろよろと立ち上がった彼は、私が力任せに髪の毛を握っていた辺りを擦りながら、涙目のままにっこりと笑った。

「でも、壬ちゃんのおかげで、また一つ疑問が解消されたよ。これで今回の事件の概要は、大体が理解できた。これも、君の協力あってこそだ」

「あんたが無理矢理、協力させたんでしょうが……って、事件の概要が大体分かったって、どういう意味よ? まさか、犯人が誰か、分かったってこと!?」

「まず間違いなく、ね。裏付けの証拠や証言にはまだ足りない部分があるけれど、今僕が考えている通りの経緯なら、全ての状況に説明がつく。と、言うより、これしか説明の仕様がないかもしれない」

「だっ、誰よ、その犯人って! あんた、まさか伏生の奴らみたいに、私達がグルになって八島の神社を壊したとか、そんなことを言い出すんじゃないでしょうね!?」

 善鞍が私を騙して追い掛けさせたことが、一体何の意味があったのかは、私は全く見当もつかない。だが、信楽焼きの置物を沖田が買ったという証言がある以上、彼は狸側に疑いの目を向けているに違いないはずだった。

 一気に不安の高まる私に対し、善鞍は質問へと答えたくないのか、ついと顔を横に背ける。

 露骨に視線を()らされた私は、より一層に怒りと焦りを(つの)らせ、彼へと白状するよう更に強く迫った。

「ちょっと、無視してんじゃないわよ! 道誠寺の家の私には、言えないって訳―」

「ごめん壬ちゃん、ちょっと待って。あれは……レミィ、か?」

 善鞍は詰め寄る私を押し留め、私の斜め後ろを睨むように目を細める。

 彼の視線の先には、照明の入った喫茶店の置き看板と、その上に足を揃えて座っている一匹の黒猫の姿があった。善鞍が注意を奪われたその猫は、近くを通る人を警戒する様子もなく、こちらを金色に光る瞳でじっと見詰めていた。

 私達が目を向けてすぐ、黒猫は周囲の騒音に負けない高い声で、一回だけ「にゃあ」と鳴いた。直後、善鞍は少し驚きの表情を見せてから、不思議そうに首を傾げていた。

「えっ、何だろう? 僕に、用でもあるのかな?」

「は? いきなりぶつぶつと、何を言ってんの? あの猫が、どうかしたの?」

「いや、彼女は僕の知り合いのレミィっていう猫なんだけど、こっちに来いって言っているんだ。いつもは街で偶然に会っても、彼女の方から僕を呼ぶなんてあまりないんだけど……」

 その発言に私は一瞬耳を疑いかけるが、善鞍が三ツ峰家の血筋であったのを、今更のように思い出した。そう考えると、レミィとかいう黒猫と知り合いだと言う彼の言葉は、妄想や思い込みではなく本当のことなのだろう。

 そうして密かに安心した私は、善鞍と連れ立ってレミィとかいう猫の所へ行く。

 黒猫は背中側に長い尻尾を揺らしながら、近付いてくる私達を静かに待ち構えていた。

 やがて、すぐ目の前に立った善鞍へと、その猫は囁くように小さく喉を鳴らし始める。

当然、私には意味など全く分からなかったが、善鞍が(しき)りに相槌(あいづち)を入れているのを見ると、この一人と一匹の間においては会話が成立しているようだった。

善鞍が猫の話に聞き入っている間、手持ち無沙汰のまま待ちぼうけを食らっていた私は、ふとレミィという黒猫の名前と姿に、どこか覚えがあるような気がした。

どこでそれを目にして耳にしたのか、はっきりとは思い出せない。それでも、誰かが同じ名前で黒い猫を呼ぶ声が、微かではあるが確かに私の記憶に残っていた。

しかし、その声の正体を思い返すより早く、善鞍の驚く声が私の耳をすぐ横から打った。

「えっ、秋音さんが!? どうしてまた、そんなことを……!?」

 彼の口から思いがけず飛び出した名前に、私は猫を呼んでいた相手のことを思い出す。

 だが、愕然として口を半開きとしている善鞍に、私は疑問が解けてすっきりする間もなく、彼が口走った内容へと底知れない不安を抱いた。

「ちょっと、どうして秋音の名前がここで出てくるのよ!? あの子が、どうかしたの!?」

 私の上擦った問い掛けに、顔色を少し青白くしていた彼は、危機感のこもった眼差しをこちらへと向けた。

「レミィが言うには、秋音さんが町外れにある廃工場跡へと行ったらしい。そこには、人に化けている動物が住み着いているみたいなんだけど、どうやら彼女はそこにいる彼らに会いに向かったようなんだ」

「はっ、えっ!? 何で秋音が、そんなことをするのよ!?」

「理由はレミィも、知らないらしい。だけど、僕の予想が合っているなら、彼女が面会しようとしている相手は、たぶん今回の事件にとても深く関与している動物のはずだ。もしかしたら、秋音さんはどこかでそれを知って、自分で事実確認をしようと思い立ったのかもしれない」

 真剣な面持ちでそう語る善鞍は、適当な嘘や出任せを言っているようには見えなかった。

 私はまず、狸や狐以外の動物が事件に関わっているという、思いもかけない彼の考えに驚く。同時に、あの秋音がたった一人でその相手の所に向かったということに、唖然として返す言葉を失ってしまった。

 秋音は私に善鞍の手伝いを頼んだ時、自分が行けない訳を、絶対に話そうとはしなかった。

 今思えば、あの時彼女は既に、一人でそこへ乗り込む決意を固めていたのだろう。

 自分の知る秋音とは余りにもかけ離れたその行動に、私は彼女の本心が理解できずに頭を抱える。一方、善鞍は突然の知らせに慌てふためく様子もなく、自分達も廃工場へ向かうと即決した。

「秋音さんが直接に危害を加えられる可能性は、そこまで高くはないとは思う。だけど、場合によっては話が妙に(こじ)れて、彼女に危険が及ぶことになるかもしれない」

「ま、待って! その動物が本当に事件に関係してるなら、誰か大人を呼んだ方が―」

「事情の説明をしている間に、手遅れになってしまうかもしれない。ここは緊急時の対応として、彼女の身の安全を一刻も早く確保する必要がある。とにかく今は、僕達で秋音さんを助けに行こう!」

 迷いのない表情でそう言いきった善鞍は、じっと私達を見ていた黒猫へと声を掛ける。すると、その猫は乗っていた看板から飛び降り、道案内をするように歩道の上を駆けていった。

 一目散にその後を追って走り出す善鞍に、私も釣られて彼の背中を追い掛けた。

 商店街を飛び出した黒猫は、私達が見失わない程度に速度を保ちながら、山際に沈みかけている太陽の方へと走り続けた。

商店街から離れるに連れて、周りの光景は徐々に閑散としたものに変わり、並び立つ民家の数も少なくなっていった。目的の場所へと近付きつつある雰囲気に、私は自分が今からしようとしていることを、その時はっとして思い出した。

善鞍は、廃工場に住み着いている動物が、今度の事件に深く関係していると断言していた。

もし、彼の言う通りであるとすれば、私や彼がその動物の所にいる秋音を助けに行ったことは、後に行われる会合の場でも取り上げられるに違いない。

そう思った途端、私は急に足が重くなるのを感じ、道の途中で立ち止ってしまう。

私が足を止めた気配を察し、善鞍は急ぎ足でこちらへと引き返してくる。怪訝そうにこちらを見下ろす彼に、私は顔を伏せたまま、切れた息の合間を縫って告げた。

「私は……やっぱり、行けない……。秋音の所には、あんただけで、行って……」

「どうしたの、壬ちゃん? 怖くなったのなら、無理をせずに―」

「違う、そうじゃない……。私は、あの子の友達じゃないから……だから、秋音を助けるだなんて、私には、やっぱり出来ない……」

 善鞍の息を呑む音を頭の上で聞きながら、私は恥ずかしさと情けなさから、強く唇を噛み締めた。

 私が初めて秋音と出会ったのは、小学校の二年で、彼女と同じクラスになった時だった。

 その頃から、彼女は人付き合いが苦手な引っ込み思案な性格で、休み時間はいつも自分の席で、(ひと)り本を読んで過ごしているような子だった。

私は秋音の存在を知ってはいたが、初めは単なるクラスメイトの一人ぐらいにしか、気には留めていなかった。私が彼女に興味を持つようになったのは、彼女が尾上様と一緒に暮らしている、人間と狐の間に出来た子どもだと、父親から教えられてからだった。

父はそんな秋音のことを、尾上様に上手く取り入った生まれつきの女狐だと(ののし)り、伏生の家が便宜(べんぎ)を図るために送り込んだ手先だと決めつけていた。

まだ幼かったその時の私は、そんな父親の言葉を、無邪気に信じることが出来た。

だからこそ、私は秋音を大嫌いな狐の仲間であると疑わず、学校での彼女の行動を見張るようになった。

だが、彼女の監視を始めた私はすぐに、秋音は自分が思っているような相手とは、だいぶ違うらしいことに気付いた。

彼女は他の狐達のような、嫌味で高飛車な態度を取ることは、少なくとも私の前では一度もなかった。逆に、何事に対しても遠慮がちで押しが弱く、クラスの当番を押し付けられても嫌とはいえない気弱な姿に、私は苛立ちを通り越して心配さえするようになっていった。

そしてある日、男子からのしつこいちょっかいを黙って耐えていた秋音に、それを見兼ねた私は、思わず口を挟んでしまった。

それ以来、彼女は私を味方と判断したのか、何かにつけて話し掛けてくるようになった。

次第に距離を詰めてくる彼女に、私はどう対応すれば良いのか分からず、困り果ててしまった。遂には、私は秋音へと自分の正体を明かし、友達にはなれないときっぱり告げた。

冷たく突き放された彼女は、それからしばらくの間、私に近寄ろうとはしなくなった。

遠くから恐る恐る自分を窺うようになった彼女に、私はこれで良かったのだと納得する一方、自分が寂しく思っていることに気が付いてしまった。

やがて、私がそうした気持ちの整理を付けられないでいる内に、再び秋音が声を掛けてきたことがあった。彼女はビクビクとしながらも、友達じゃなくてもいいから仲良くして欲しいと、私に一生懸命に頼み込んできた。

思いも掛けないその申し出に、私は呆気に取られ、知らず知らずに首を縦へと振ってしまっていた。それからというもの、私と秋音は友人ではないただの知り合いとして、休み時間などを一緒に過ごすようになっていった。

私達が親しい間柄にあることは、一部の仲間達や狐にも知られていた。

特に私の父親は、秋音に関する話が出た時は、今もあまりり良い顔をしない。それでも、私は彼女を見張っているのだと言い張ることで、秋音との関係をこれまでずっと続けてきた。

しかし、私が危険を冒してまでも、彼女を救おうとしたと知られれば、もはやそんな都合の良い言い訳は通らないだろう。

その時は、事情を知った他の仲間達から顰蹙(ひんしゅく)を買うだけでなく、伏生の奴らからどんな言い掛かりを付けられるか、分かったものではない。

私は、秋音と仲が良いと思われて、自分に非難が集まってしまうのが怖かった。単に自分の身が可愛いために、私は彼女を助けに行くのに、抵抗を覚えてしまっていたのだった。

そうした引け目から黙り込む私に、善鞍も同じく口を閉ざし、静かに立ち尽くしていた。

だが、私にとってはその沈黙こそが、自分への非難そのものに感じられてならなかった。

しばらくして、(うつむ)かせていた頭の上から、善鞍の自分を呼ぶ声が振ってきた。

私は軽蔑の目で見られることを覚悟し、視線を落としていた彼の爪先から顔を上げる。

右腕を引き絞るように振り上げていた善鞍は、私が自分の方を見上げたのを確認し、鋭く大きな声を轟かせた。

「今すぐ歯ァ、食い縛れやあああああっっ!!」

 彼の気迫のこもった怒鳴り声に、不意を突かれた私は、思わず体を(すく)ませる。

 面食らって棒立ちとなる私に、善鞍は振りかぶっていた右腕で殴り掛かる。

しかし、振り下ろされたその拳が捉えたのは、私ではなく彼自身の横顔だった。

骨を打つ鈍い音を立てて自分を殴った善鞍は、勢い余ってその場へがっくりと膝を突く。

何が起こったのか分からず泡を食う私の前で、善鞍はふらふらと力無く立ち上がる。彼は固まっていた私の両肩に手を置き、右頬の赤くなった顔でこちらを正面から覗き込んできた。

「いいかい、壬ちゃん? 僕は殴った手も痛ければ、自分で殴った顔も痛い。だけど、僕のこんな二重苦なんて、今の君の心の苦痛に比べれば些細なもののはずだ。そうだろう?」

 鬼気迫る表情でこちらを見下ろす善鞍に、私はされるがままに肩を揺さぶられながら、反射的に何度も小さく頷いた。私からほとんど強引に答えを引き出した彼は、肩を掴む手へと更に力を加え、一心にこちらを見据えて語り始めた。

「君と秋音さんの間に、どんな事情があるのか僕は知らない。だけど、君が彼女を友達じゃないと言う度、とても悲しそうな目になっていることくらい、門外漢である僕にだって分かる。どんな経緯があるにせよ、この瞬間の君は彼女を助けに行きたいと、本心ではそう思っているはずだ。違うかい?」

 善鞍に心の内を言い当てられた私は、反論も肯定もできずに、ぐっと息を詰まらせる。

 間近からこちらを見詰めていた彼は、やがて私へと最後の決断を迫った。

「君の場合、このまま進むにしても止まるにしても、何かが変わってしまうことになるのかもしれない。だけど、どちらの方を取るにしても、その結果を甘んじて受け入れられることの出来る、そんな選択をして欲しいと僕は思う。壬ちゃんには、自分が選んだこの道で良かったんだと、いつになっても何があっても、そう思い返せるようになって欲しいんだ」

 善鞍がどういう思いからこんなにも興奮して、私へと説教を垂れているのかは知らない。

 それでも、彼が懸命になって伝えようとしていることは、私も薄々ながら分かっていた。

 善鞍が固唾を呑んで見守る中、私は脳裏へと秋音の顔を甦らせる。そして、自分が助けに行かなかったその後に、彼女と今まで通りに付き合っていけるかを考えた。

 私は秋音へと何かにつけて、自分達は友人ではないと明言している。

 彼女もまた、少し寂しそうにしながらも、私のその発言を受け入れてくれている。

 だとしても、自分が秋音のために何もしなかったなら、私はもう彼女の顔を真っ直ぐには見られなくなってしまう気がした。

 確かに私達は、お互いを友人や友達としては呼んではいない。

それでも、二人の間には友情という名の感情が、確かに築かれているはずだった。

そんな当たり前のことを思い出した私は、どうしようもない自己嫌悪から、小さく鼻で笑って自嘲する。

そして、よりにもよって善鞍なんかに(さと)されしまうこととなった私は、肩に置かれていた手を八つ当たり気味に払い除け、彼の顔を出来るだけ険しくさせた目で睨み上げた。

「何、恥ずかしいこと言っちゃってんのよ。冗談よ、冗談。今のは全部、冗談に決まってるじゃない! あんたみたいな貧弱変態野郎になんて任せてたら、秋音も無事になんて帰って来れなくなるでしょうが! そんな危険な目に、あの子を遭わせる訳にはいかないのよ!」

 ちょっとした負い目から自然と大きくなっていた私の声に、善鞍は少し身を反らしながら、目を丸くして驚く。それでも、秋音を助けに行くとするその宣言を聞いた彼は、すぐに小憎らしい満足そうな笑みを浮かべていた。

「あはは、そうかもしれないね。ようし、じゃあ早速壬ちゃんは、秋音さんのいる廃工場に直行して。僕は少し、寄り道をしていくから」

「言われなくても、分かって……って、え? なっ、ちょっと待てっ、こらあっ!!」

 颯爽と言い残して立ち去ろうとする善鞍を、私は慌てて上着を掴んで引き留める。

つい勢いで返事をしてしまったが、彼の今のセリフは、到底見過ごせるものではなかった。

「おっととと、何だい壬ちゃん? 道案内なら、レミィに君を先導するよう伝えておいたから、彼女がこの先も誘導してくれるはずだよ。僕は彼女から詳しい場所は聞いているし、用が済み次第、すぐにそっちへと向かうから」

「あらそう、ありがとう……じゃないわよ、このアホ! 今から寄り道って、何よそれ!?

あれだけ偉そうなこと言っといて、あんた秋音を見捨てるつもり!?」

「そうじゃなくて、廃工場に向かう途中で孤朧庵に立ち寄るには、ここが最短経路になるんだ。あそこに住んでいる彼らと交渉をするためには、尾上氏に幾つか聞きたいことと、力を貸してしてもらいたいことがある。だから僕が戻るまでの間、どうか君の方で秋音さんの救出と、時間稼ぎをお願いしたい」

「じ、時間稼ぎって言ったって……。そもそも、尾上様への用って―」

「ごめん、今は説明をしている余裕がない。可能な限り早く戻るつもりだけど、もし危ないと感じたら、迷わず秋音さんと一緒に逃げて。じゃあ、宜しく頼んだよ!」

 私へとそう一方的に(まく)し立てた善鞍は、私の手を半ば無理矢理に振り払うと、すぐ横にあった脇道の先へと駆けていった。

 後に残された私は、遠ざかる彼の背中を愕然として見送るしかなかった。

 事情は全く呑み込めなかったが、私もいつまでもそこで立ち止っている訳にはいかない。

 既に遥か彼方へと去っていた善鞍へと、戻らなかったら死んでも殺すと悔し紛れに毒づいてから、私はそれまでと同じ道を辿って走った。

 少し先で待っていた黒猫は近付いてくる私を見ると、善鞍の言っていた通り、こちらを案内するように道路を駆け始めた。

 しばらくすると、私の前を進んでいたその黒い目印が、急にピタリと足を止めた。

そこには、周りを田んぼや空き地に囲まれた、ボロボロの小さな自動車整備工場があった。

表の看板は取り外されて、壁には白く濁った四角い跡だけが残っている。また、スプレーで落書きのされているサビだらけのシャッターの前には、幾つかの整備用具が雨ざらしのまま取り残されていた。

そうした幽霊屋敷同然に(さび)れきった見た目に、私は本当にここに秋音がいるのだろうかかと、僅かな不安が頭を横切る。その時、シャッターの横のブロック塀に乗っていた黒猫が、道路に立っていた私へと大きな声で鳴いた。

まるでそれが、自分を呼んでいる声のように聞こえた私は、戸惑いながらも黒猫の所へと近寄る。すると、黒猫の待っていた場所には、ブロック塀と工場の壁の間を抜ける、細い通り道があった。

その通路に面している工場の壁には、埃と油に塗れた小窓が幾つか並んでいた。私は近くに置いてあった室外機へとよじ登ると、そこから中の様子を窺ってみた。

鉄心入りの曇ったガラスの向こうには、暗く静まり返った作業場が見えた。

ほとんどの機材が運び出されている室内は、明かりがなくても、良く見通すことが出来た。

そして、そのがらんとした長方形をした部屋の隅に、私は秋音の後ろ姿を発見した。

地面へと(じか)に正座をしている彼女の近くには、小さな脚立(きゃたつ)の上に腰掛ける髪の長い男と、腕組みをしながら彼女を見下ろしている作業服の男の姿があった。

急いで周りを見渡した私の目に、壁の端にある通用口の扉が映った。

そこから中に入れると知った私は、一瞬、恐怖から足が(すく)みかける。それでも、気合を入れて室外機から飛び降りた私は、何も考えずがむしゃらに突っ込んでいった。

けたたましい音を立てて開かれた通用口に、部屋にいた三人の視線が一斉に集まる。

勢い良く中へと駆け込んできた私に、秋音の真正面に立っていた作業服の青年は、忌々しそうに舌打ちを漏らしていた。

「また、小娘か……。今日はまた随分と、面倒な珍客が多いな」

 露骨に顔をしかめる彼の隣では、秋音が大きく見開いた両目で、突然現れた私を凝視していた。

私は作業服の男へと注意を払いながら、座り込んでいる彼女へと一目散に駆け寄る。茫然自失としていた秋音は、戸惑いに揺れる瞳で私を見上げ、か細く震えた声でつぶやいた。

「えっ、何で……? どうして、壬ちゃん……ここに、いるの……?」

「それはこっちのセリフよ! 何であんた、一人でこんな所になんか来たの!? どうして私にも黙って、こんな危険なことをしてるのよ!?」

「こんな所だなんて、酷い言い草だなあ。一応これでも、俺達の立派なマイホームなんだよ」

 私の叫び声を耳にした長髪の男は、へらへらと笑いながら作業場の天井を仰ぐ。一方、険悪な眼差しで私達を睨み付けていた作業服の男は、苛立ちのこもった刺々しい口調で、私へと秋音の訪問の理由を告げた。

「どういうつもりかは知らないが、君のお友達はどこかの神社が荒らされたことについて、俺達が何か知っているはずだと言って聞かないんだ。おまけに、こちらがちゃんと答えるまで、ここからは出て行かないと言い出す始末だ。悪いが君の方からも、彼女におとなしく帰るように言ってはくれないか?」

 私へとそう事情を語る男の目には、僅かではあるが暗く凶暴な光がちらついていた。

 これ以上相手を刺激するのはまずいと思った私は、すぐさまこの場から逃げ出そうと、秋音の腕を掴み取る。だが、彼女は私に決して従おうとはせず、そのまま強情に座り込みを続けようとした。

「だめ、壬ちゃん! 私はまだこの人達から、本当の話を聞けてない! 善鞍くんの役に立てることを、教えてもらってないの! それを聞くまで、私は帰れない!」

 力いっぱい私の手を振り払った秋音は、弱々しくも毅然(きぜん)とした声でそう訴える。

他人の言い付けにはほとんど逆らえない彼女が、こうも堂々と自分の意志を押し通そうとするのは、私はこれまで一度も見たことがなかった。

青ざめた顔へと固い決意の色を表す秋音に、私はどうしようもない困惑と歯痒(はがゆ)さから、思わず声を荒げて詰め寄る。

「どうしてよ!? どうして、あんな奴のために、あんたがそこまでやる必要があるの!? あいつに協力なんかして、何の意味があるって言うのよ!?」

 いきなり私から怒鳴りつけられた秋音は、微かに表情を強張らせて震え上がる。

それでも彼女は怯むことなく、息の上がった私を真っ直ぐに見詰め、たどたどしくも芯のしっかりとした声を返してきた。

「私、善鞍くんと約束したの。何か困ったことが起こったら、私が絶対に協力するって。だから、まず私がこの人達に、事件について聞こうって思ったの。もし本当に、この人達が何かを知っていたら、それはきっと善鞍くんの調査の役に立つはずだから……だから!」

「そんな……そうまでして力を貸そうだなんて、一体あんたにとってあいつは何なのよ!?」

「友達だよ! 私の、大切な……友達だからだよ!!」

 意地になって激しく問い質す私へと、秋音はひび割れた声でそう答えた。

その悲痛な響きに思わず言葉を失う私に、彼女は立て続けに言葉を繋いでいった。

「善鞍くんは、本当の私を知っても、怖がらずに受け入れてくれた! 私を、初めて友達だって呼んでくれた! だから、私はとても嬉しかった、彼の力になりたいって、そう思った!私だって本当は、こんなことをするのは、とっても怖いよ! だけど、私は善鞍くんの喜ぶ顔が見たかった! 私も、友達のために、何かを頑張ってみたかった……!」

 大声でそう口走る彼女の目には、徐々に大粒の涙が浮き上がっていった。

やがて、堪えきれずに顔を伏せた秋音は、鼻を(すす)り上げながら押し黙ってしまう。

そんな彼女の姿を、私はどうすることもできず、ただ茫然と見詰めるしかなかった。

私は秋音を、伏生のような狐達とは、決して同じ存在とは見ていなかった。だから、周りの大人達がどれだけ嫌そうな顔をしても、私は彼女と一緒にいることを止めなかった。

例え、直接言葉にはしなくても、秋音は私を友人だと思ってくれている。

私達の関係における、私のそういった思いは、彼女にも伝わってはいたに違いない。

でも、それは結局、他にも話し相手となる友人や知人を持っている私の、独り善がりの自己満足な考え方だったのだろう。

狸からは狐だと嫌われ、狐からは人との混血と(さげす)まれ、普通の人間には自分の秘密を決して知られてはいけないため、自ら距離を置くしかない秋音。

そんな孤独の中にあった彼女は、誰かを友達と呼び、誰かから友達と呼ばれることに、ずっと前から強い憧れを抱いていたのかもしれない。だからこそ、秋音は自分を友人と呼んだ善鞍のために、ここまで思い詰めてしまったのだろう。

私は、例え無意識にではあったとしても、秋音をこうした危険な行為へと駆り立てた善鞍に、心の底から怒りを覚える。そしてそれ以上に、彼女へと寂しい思いをさせ続けてしまっていた自分自身に、私はどうしようもない嫌悪感を抱いた。

「あのな、さっきから何の話をしているのかは知らないが、喧嘩ならどこか他所(よそ)でやってくれ。分かったらそこの小さいお嬢さん、さっさとお連れさんを引き取っていってもらおうか」

 黙ったまま向き合う私達に、作業服の男は声を怒らせ、早く出ていくようにと急かしてくる。

だが、その時既に心を決めていた私は、秋音のすぐ隣へと腰を降ろす。彼女と同じく座り込みを始めた私に、作業服の男は動揺から赤黒い顔面を引きつらせていた。

「えっ……壬、ちゃん……?」

 私の突然の行動に面食らう秋音に、私は彼女の涙ぐんだ顔を振り返り、小さく鼻を鳴らして笑い掛けた。

「あんたがどうしても動かないっていうんなら、私もここに残るしかないじゃない。こんな胡散臭い奴らの言うことを黙って聞くも面白くないし、それに、大事な友達を見捨てて一人で逃げるなんて、私には出来ない相談だし」

 私がそう言いきって前を向いた瞬間、後ろから息を詰まらせる微かな音が聞こえた。

秋音がどんな表情をしているのか、顔を見合わせられない私には分からない。

それでも、彼女がとても驚き、そして喜んでいるらしいことは、背中側から伝わってくる場違いなまでに華やいだ雰囲気で、私にも充分に窺い知れた。

一方、秋音だけでなく私もまた居座ると告げられた作業服の男は、髪を上げた広い額へと青筋を浮かべ、つり上げた唇から食い縛った歯を覗かせていた。

彼はじりじりとこちらへ近付きながら、鋭い恫喝(どうかつ)で辺りの埃臭い空気を震わせる。

「ふざけるなよ、お前ら……。こっちが下手に出ているからって、いい気になってるんじゃねえぞ。このまま変な言い掛かりを続けるつもりなら、こっちもそれ相応の対応をさせてもらおうか。ああ!?」

 害意の剥き出しにされた眼光に射竦められ、私は胸の底がすうっと冷たくなるのを感じる。

 ぶつかるように体を寄せてくる秋音に、私は無意識に彼女の手を掴み取っていた。

 凍り付く私達の寸前へと、そびえ立つ黒い影が迫ったその時、私が半開きとしていた通用口が内側へと向けて弾き飛ばされる。けたたましい音を立て、再び開かれたそのドアからは、誰かが転がるようにして部屋の中へと飛び込んできた。

私達が揃って度胆を抜かれる中、勢い余って床へと伏せていた人影は、間を置かずしかしゆっくりと立ち上がる。

相手が身に着けている、見覚えのある紺色の羽織に、私は無意識の内に尾上様の姿を重ねて息を呑む。しかし、こちらへと上げられたその顔は、息も絶え絶えとなっていた善鞍のものだった。

 サイズの合わない大きな羽織を着込んだ彼は、余った袖を振って私達の注意を集め、朗々とした声を張り上げた。

「双方、そこまで! この場の裁量(さいりょう)は現在をもって、三ツ峰当主代行の僕に任せて頂く!」

「よ……善鞍くん!? 何で、二人とも、ここが分かって―」

 私に遅れて登場した彼を見て、秋音は掠れた声でそう漏らす。その独り言を耳にした善鞍は、戸惑いを隠しきれないでいる彼女へと、汗ばんだ顔で不器用に微笑みかけていた。

「君を心配したレミィが、僕達を連れて来てくれたんだよ。事情の方についても、彼女や尾上氏から、大まかな概要は教えてもらっている。色々と僕にも言いたいことはあるけれど、まずは、ごめん。そして、ありがとう、秋音さん」

 善鞍は短いセリフの中へと、説明と謝罪とお礼を一気に詰め込む。

しかし、その簡潔過ぎる言葉は秋音に全てを伝えるには充分だったらしく、彼女は驚きに満ちた顔となって言葉を失っていた。

穏やかな笑みを浮かべる善鞍に、遂に我慢の限界となった作業服の男は、耳鳴りのするような凄まじい怒号を発した。

「ああっ、クソッ、今度は何だ!? 三ツ峰当主、代行だと!? 貴様みたいなガキがか!? どこの誰かは知らないが、いい加減、冗談も大概にしろ!!」

口角泡を飛ばしながらがなり立てる彼に、善鞍は慌てることなく、右の手の平を掲げた。

「冗談などではありません。現に、僕が今着ているこの上着は、輔佐の役を(にな)わせて頂いている、尾上氏から(たまわ)った物です。疑うのであれば、本来の姿へと戻って匂いを確かめてみたらどうですか、アライグマの相良(さがら)兄弟!」

 善鞍の朗々とした問い掛けに、若い二人の男の表情は、見る見る内に一変していった。

動揺と困惑の顕わになったその顔は、彼の言葉が図星であると証明しているも同然だった。

 作業服の男は青白く変色した頬を痙攣(けいれん)させ、自分達の正体と名前を言い当てた善鞍を、血走った両目で睨み付ける。

「お前……まさか、本当に三ツ峰の家の人間か!? だが、三ツ峰の者が、なぜここに―」

「色々と疑問はお有りでしょう。ですが、積もる話の前に、少々お時間を頂いても宜しいでしょうか? 僕の方で少し、確認しておきたい事項がありますので」

 淡々とした口調でそう言い放つ善鞍に、話を途中で切られた作業服の男は、戸惑いを隠せず言い淀む。善鞍は相手の答えを待たずに、大きく深呼吸をして息を吸い込むと、肺へと溜め込んだその空気を、掛け声と共に一気に宙へと吐き出した。

「秘密探偵団!! 緊急招集により、全員集ごーーーーーうっ!!」

 廃屋へと響き渡った彼の絶叫は、余韻を残して周囲の薄闇へと溶けていった。

 すると、彼の突然の奇行に固まっていた私の耳に、どこか遠くの方から、微かに人の声と物音が聞こえてきた。

 やがて、それは段々とこちらへ近付き、騒ぎ声がはっきりと聞き取れるようになった頃、部屋の左手奥にあったトタン板の扉が乱暴に開け放たれた。

 そこには、昨日稲荷神社で出会った、風亜とかいう名前の女の子が立っていた。

 彼女は私や秋音の姿を見付けると、上気した顔を嬉しそうに輝かせる。そして、駆け足で善鞍の前へと進んだ彼女は、彼へと真面目くさった表情となって敬礼をした。

「ふーあとくべつ、ちょーさいん。ただ今、しゅつどー、かんりょーしました!」

「了解、確認した! 私の出動要請に応えてくれたこと、心から感謝する!」

 そこにいるほぼ全員が絶句するのをよそに、二人は和気藹々(わきあいあい)と楽し気に挨拶を交わす。

 その時、全く事態が把握できないでいた私の目に、もう一つ別の新しい人影が映った。

 風亜という少女の後を追って来たその人物は、彼女が開けっ放しにしていた扉の下に立ち、作業場にいる私達を気まずい顔で見渡していた。

 緊張から僅かに顔を強張らせる彼は、妹と一緒に神社を訪れていた、『はす兄ちゃん』と呼ばれていたあの少年だった。


 騒然としていた場が一旦落ち着きを取り戻した後、私達は作業場の奥まった場所にある、小さな部屋へと場所を移した。

 元々は事務室として使われていたらしいそこで、善鞍と作業服の男は薄汚れたテーブルを挟み、向かい合ってソファーへと腰掛けている。

 善鞍の後ろには私が、そして作業服の男の左右には長髪の男と『はす兄ちゃん』が控えている。秋音は話し合いが行われている間、風亜という少女の相手をするため、彼女と共に作業場へと残っていた。

 最初は『はす兄ちゃん』と呼ばれていた、私と同い年くらいの少年が、自分で妹の面倒を見ようとしていた。だが、善鞍は彼女の世話を秋音へと頼み、彼もまた話し合いに参加するよう取り計らっていた。

 善鞍の指示によって一堂に会した三人の男達を、私は今一度じっくりと観察する。

 正面の椅子に苦虫を噛み潰した顔で座る作業服の男と対照的に、その左後ろに立つ『はす兄ちゃん』はどこか不安そうな面持ちで、後ろに回した手を頻りにそわそわと組み替えている。一方、落ち着きのない彼の反対側にいた、長髪によれよれのTシャツというだらしのない恰好をした男は、所在なさげに大きな欠伸(あくび)を放っていた。

三者三様の反応を示す彼らを、善鞍は先程、アライグマだとはっきり明言していた。

この三人がどうあの事件に関わっているのか、未だに私は想像すらつかないでいた。

そんな私とは逆に、全てを見抜いているかのような素振りを見せる善鞍は、やがて対面する作業服の男へと、余裕を持った口振りで話を振った。

「では、本題へと入る前に、簡単な事実確認をさせて下さい。あなたは相良家の長兄である稜隆(いずたか)さん、後ろにおられる痩身(そうしん)蓬髪(ほうはつ)の方が次兄の(ろく)(すけ)さん。そして、昨日お会いした末弟のはす兄ちゃんこと(はす)(ゆき)君と、長女で一番年下の(ふう)()ちゃん。以上で、間違いありませんね?」

 順番に彼らを指名し、合っているかどうかを確かめる善鞍に、稜隆と呼ばれた作業服の男は、渋い表情のまま小さく顎を引く。それを見た善鞍は続け様に質問をしようとするが、険しい三白眼で彼を睨んでいた稜隆は、素早く声を上げて相手の問いを封じた。

「待て、次は俺の番だ。お前があの三ツ峰の家のガキで、大層な肩書きを持っているらしいのは分かった。だが、ここにいる俺達のことを、お前はどこでどうやって知った?」

「つい先程、尾上氏から説明を受けました。アライグマであるあなた方は、十年以上前に不慮の出来事によって両親を失われた。その後、各地を点々としながら放浪を続けたあなた方は、四・五年程前にこの町を訪れ、以来この廃屋に定住していると」

「ふん、成程な……。あの男に挨拶に行ったのは結構昔のことだったはずだが、間の抜けた顔をしていた割に、意外ともの覚えが良かったんだな」

尾上様を悪し様に罵る稜隆に、私は思わず彼へ詰め寄ろうと一歩を踏み出す。

善鞍はそんな私の行く手を片手で遮ると、椅子の上で踏ん反り返る相手へ問いを返した。

「では、今度は僕の番です。単刀直入に伺いましょう、あなた方の内のどなたか、先日器物損壊と盗難の被害に遭った三丁目の稲荷神社を、事件の前後に訪れてはいませんか?」

 彼のその一言を告げた途端、私は部屋の温度が一気に下がったように感じた。

 そっぽを向いた陸助は私達の方を見ようともせず、反対に少し顔を青褪めさせた蓮幸は、こちらを食い入るように凝視している。一番近くで善鞍の発言を耳にした稜隆は、すっと細めた両目へ暗い光を灯らせると、組んでいた腕を解いて前のめりになった。

「そう言えば、今風亜と一緒にいる小娘も、同じようなことを訊いてきたな。もしかしてあの乳臭い小娘の方も、代行とか何とかいう奴なのか?」

「彼女は尾上氏と共に暮らしている、僕の友人です。あなた方が数年前に孤朧庵を訪れた際、幼い頃の彼女もそこにいたんですよ。おそらくはその時、彼女は物陰からあなた方を窺っていたのでしょう。だからこそ、昨日蓮幸君や風亜ちゃんと出会った時、彼女は成長して様子の変わった二人に最初は気付かずとも、やがて彼らが以前家を訪ねてきた、アライグマの兄妹だと思い出した。そして、その彼らが事件に関わっているかもしれないと悟った彼女は、隠された真実を教えてもらうべく、単身あなた方の下を訪ねたのだと思います」

「俺達が、事件に関わっている……? おい、まさかお前、俺達がどっかの神社をどうにかした犯人だなんて、言い出すつもりじゃないだろうな?」

「僕は少なくとも、ある程度の詳しい事情を知っているはずだと考えています。特に、事件直後に現場へと足を運んでいた、蓮幸君か風亜ちゃんが」

 善鞍の何気ないその告発に、稜隆は驚きに剥いた目を左後ろへと向ける。

突如として兄から注目をされた蓮幸は、慌てて善鞍へと食って掛かった。

「だっ、だからあれは、散歩のついでに寄っただけだって、言ったじゃないか! あの神社がああいうことになっていたなんて、俺は知ってさえもいなかったんだぞ!」

「あくまでも偶然、だと? だとすれば、奇遇なこともあるものですねえ。アライグマの関与を匂わせる証拠が残る事件現場に、それ程日を置かずして、同じアライグマの兄妹がやって来るなんて」

 思わせ振りにそうつぶやいた善鞍に、自分達の種族名を持ち出された三人の兄弟は、揃って全身へと緊張をみなぎらせる。

善鞍の明かしたその新事実は、私にとっても全くの初耳だった。

自分以外の全員が口を噤む中、彼は現場へと残されていたという証拠について語り始めた。

「僕は昨日の調査において、境内にある手水の排水口の中に、幾つかのご飯粒が残留しているのを発見しました。しかし、不思議なことに手水鉢の方には、それと同じものは一つとして見付からなかったのです。さて、これを聞いてどう思いますか、蓮幸君?」

「ど、どうって……それが、どうして俺達と、関係あるってことになるのさ!?」

「切っ掛けは、風亜ちゃんの行動でした。彼女は秋音さんや壬ちゃんと境内を捜索していた際、手水鉢の水で当然のように遊んでいました。それを見た時、僕はふと思い付いたんです。もしかしたら、お供え物を食い散らかした犯人は、それを手水鉢で洗ったのではないか。そしてそれは、食糧などを水で洗う習性を持つ、アライグマなのではないかと」

「そんなの、言い掛かりだ! 食事を終えた他の動物や人間が、そこで手を洗っただけかもしれないじゃないか! すぐに俺達の仕業だと決めつけるなんて、絶対に間違っている!」

 善鞍の披露する思い付きに似た推理に、蓮幸は声を張り上げて反論をする。躍起になって疑惑を否定する彼に、善鞍は唐突に喧嘩腰となって、更に厳しい口調で畳み掛けた。

「あの時君が稲荷神社を訪れたのは、本当は自分達の関与を示す証拠が、確実に隠滅できているかどうかを確認するためだったのではないですか? 手水鉢にまき散らしていた米粒をちゃんと取り除けていたか、事件の後も気になっていたからなのではないんですか!?」

「違う!! 大体、俺達がどんな癖を持っていたとしても、おむすびを洗ってから食うなんて、そんな馬鹿みたいな真似をする訳―」

「はい、ストップ!! 壬ちゃん、彼が今言った言葉、君もちゃんと記憶したね?」

 藪から棒に相手の言葉を断ち切った善鞍は、さも嬉しそうな笑みを浮かべながら私を見る。勢いに押されて首を縦に振る私に、彼は得意気な眼差しを蓮幸の方へと返した。

「君は今、ご飯粒の大本がおむすびだと、確かにそう言いましたね? 僕は境内の祠に供えてあった料理の種類については、確か教えてはいなかったはずですが?」

「っ……!? そ、れは……、お供え物といえば、普通はそうだと思っただけで―」

「そうですか、僕なら稲荷神社の供物(くもつ)と言えば、つい稲荷ずしを連想してしまうんですけどねえ。ですが、君の言う通り、あの神社の管理者の方は事件当日、あそこには二つのおむすびがあったはずだと証言しています。君はあの神社には、滅多に足を運ぶことはないと言っていましたね。そんな君がどうしてお供え物の種類を、まるで見て来たかのように言い当てることができたのですか!? 是非とも、納得のいく理由を説明願いたい!」

 矢継ぎ早に浴びせられる善鞍からの問いに、次第に蓮幸の顔面は真っ青となっていった。

 善鞍が相手へと突き付けたその疑念は、一応彼の側に立つ私からしても、やはりどこかこじつけめいた感じがしないではなかった。それでも、話の中で示された幾つかの理由は、確かにアライグマの彼らを疑うには充分なものでもあった。

 何より、疑いを向けられた当の本人が額へと脂汗を滲ませ、追い詰められた表情となっていること自体、彼が何かを知っているという証拠だった。

張り詰めた沈黙の中、蓮幸は返す言葉を見付けられずに、乾いた唇を悪戯に開いたり閉じたりさせていた。すると、切羽詰まった彼の様子を見兼ねたように、隣にいた長髪の男・陸助が、くすりと軽い笑みを漏らした。

「もう良いさ、蓮幸。どんな言い訳をしたって、この代行さんは諦めてはくれないみたいだ。えっと、善鞍君とか言ったっけ? あの神社のお供え物を食べたのは、この僕なんだよ」

 雑談でもするかのように飄々(ひょうひょう)とそう告げる彼に、私だけでなくその二人の兄弟も共に、唖然として言葉を失ってしまう。思いもかけない告白に固まっていた稜隆は、諦観した微笑みを浮かべる一つ下の弟に、低く震える声で問い掛けた。

「陸助、お前……今のは一体、どういう意味だ?」

「ごめんよ、兄さん。実は何日か前、僕は知り合いの人達と昼から、しこたまお酒を飲んでいてね。どうやらその帰り、酔っ払った僕は彼の言う稲荷神社へと寄って、お供え物を食べてしまっていたらしいんだ。もっとも、僕はもうすっかり出来上がっちゃっていたから、その時のことは良く覚えていないんだけどね」

「何、だと……? 覚えていないのなら、どうして自分がしたと言い切れる!?」

「心配して迎えに来てくれた蓮幸が、神社にいる僕を見付けてくれてね。こいつがお供え物を平らげてしまっていた僕を、誰かに見付かる前に、そこから連れ出してくれたのさ。まあ、僕自身、おむすびを水で洗おうとしたのを、ちょっぴりではあるけど覚えていたりするんだけどね」

 そう言って含み笑いを零す彼の隣では、蓮幸が肩身を狭そうにして押し黙っていた。

 そんな兄弟達の振る舞いを見た稜隆は、座っていたソファーから弾かれたように立ち上がる。そして、彼は開き直った笑みを浮かべる一つ下の弟の胸ぐらを掴み、自分の方へと引き寄せた相手へと、怒りに満ちた声を飛ばした。

「何という、馬鹿なことを仕出かしたんだ、お前は!! 俺達がこの地で平穏に暮らしていくには、他の種族の者に目に付くようなことをしてはいけないと、あれ程に言っていたはずだろうが! なのに、まさかよりにもよって、狐の管理している場所を荒らすとは―」

「待って、稜兄さん! 確かに陸兄さんは、神社のお供え物を食べてはいた。だけど、僕達があそこから立ち去った時、境内の物は何も壊されてなかった。あの神社を滅茶苦茶にしたのは、陸兄さんじゃないんだ!」

 激昂(げっこう)する稜隆と、黙ったままの陸助の間へと割って入った蓮幸は、息を荒げる長男へと必死になって説明をする。この後に及んでまだ言い逃れを続ける彼に、私の中には苛立ちと怒りが猛烈な勢いで膨れ上がっていった。

 正直、狐達の持つ神社がどうなろうが、私は興味もないし、どうでも良い。

 だが、散々に騒ぎを起こした上、秋音まで危険な目に遭わせておきながら、決して自分達の罪を認めようとしないその態度は、私にとっても我慢のならないものだった。

 しかし、そうしていきり立つ私とは反対に、善鞍は奇妙な程の落ち着きを保っていた。

 善鞍は互いに対立しているアライグマの兄弟達へと声を掛け、彼らの注意を自分の方へと戻させる。そして、彼は嫌に取り澄ました声色となって、興奮の冷めきっていない稜隆へと話を振った。

「さて、このままであれば、僕は陸助さんが稲荷神社を荒らした張本人、そして蓮幸君をその共犯者として、(おおやけ)の場で告発しなければなりません。そうなれば、あなた方はまず間違いなく、この町で生活を続けることは出来なくなってしまうでしょう」

「だから、陸兄さんが手を付けていたのは、祠と手水鉢だけなんだ! 僕達が逃げた時、境内はあんな風にはなっていなかったって、言ってるじゃないか!」

「例えそれが本当だとして、果たして被害に遭われた方々は納得されるでしょうか? 彼らは陸助さんが神社のお供え物を食したと知れば、もう聞く耳を持つことはないと思いますが」

 そう素っ気なく断言する善鞍に、蓮幸は悔しそうに地団太(じだんだ)を踏む。

おそらく彼は、自分達の主張は狐達に、絶対に聞き入れられないと気付いたのだろう。

すると突然、暗く沈んだ雰囲気をまとう三人の兄弟に、善鞍は(ささや)くような声でこう伝えた。

「ですが、あなた方の態度次第では、僕がその流れを変えてみせることもできます。どうでしょう、ここは僕と取引をして、お互いの利益を図ってはみませんか?」

 善鞍からの予想外の申し出に、彼らは意味も分からず、瞬きさえも忘れてしまっていた。

 それに負けず劣らず驚いていた私も、三人と同様に彼の方へと視線を向ける。

 意味深で仄暗い微笑を浮かべるその横顔に、私はこの善鞍蒼司という人間の本当の姿を、この時初めて目にしたような気がした。


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