其ノ弐 古本屋、再襲撃
「え、伊奈沢さん? えっと、確か今日は休みだったはずよ、風邪をひいて熱が出たとかで。いつもは教室でもじっとしてるような人なのに、急に運動なんかしたから体調を崩しちゃったのかもしれないわね。ところで善鞍君、彼女に何か用事? そもそも、あなたと伊奈沢さんって、知り合いだったっけ?」
秋音さんの所在を尋ねる僕に、彼女と同じクラスに所属する元同級生の女子は、興味津々な目付きとなって質問のカウンターを返してきた。
相手の貪欲な食指から辛うじて逃れた僕は、放課後と共に発生した、下足室へと向かう生徒の波に紛れ込む。長い階段を二段飛ばしに駆け下りながら、僕は秋音さんが登校していないという事実を、何度も頭の中で反芻していた。
あの連鎖的にハプニングが巻き起こった嵐の日は、既に昨日の出来事となっていた。
この日、学校では球技大会の後片付けが行われ、基本的に生徒達は正午を待たずに帰宅する運びとなっていた。
なので、僕はホームルームの時間が終わるや否や、前日の件へと決着をつけるべく秋音さんの教室を直撃した。しかし、そこで伝えられた彼女の不在という現実は、僕の中へと幾重にも連なる不安の波紋を呼び起こした。
彼女の病欠の理由を僕なりに考察すると、主に二つの可能性が考えられた。
一つは、様々な無理がたたってしまい、本当に具合を悪くしてしまった場合。
もう一つは、色々なものを見て知ってしまった僕との対面を彼女が拒絶し、仮病を用いて登校を拒否しているという場合だった。
秋音さんと面と向かって話ができない以上、実際の原因については推測するしか他はない。
だが、彼女が実際に病に臥せっていたとしたら、僕が帰るまで浴室から出てこなかったことによる、長時間の無理な入浴とそこからの湯冷めが原因として考えられる。
また、意識的に外出を拒んでいるのだとしても、そこには僕に見られてはいけないものを見られてしまったことが、大きく影を落としているとしか思えない。
つまりはどちらにしろ、彼女が学校に来ていない元凶は、この僕である見込みが非常に高かったのだった。
秋音さんにはまず男性として、不可抗力ながらも入浴場面を覗いてしまったことを謝らなければならない。しかし、それとは別に、人並みの好奇心を持った人間として、彼女にはどうしても訊いておきたいこともある。だが、もしその出来事が相手の心に深い傷を与えてしまっていたとしたら、何を差し置いても誠心誠意を尽くして謝罪する必要があった。
僕は自分が取るべき姿勢を決めきれないまま、悶々とした気持ちを抱えて家路につく。
そして、帰宅してからも浮き足立って仕方がなかった僕は、数えきれない逡巡の後、再び孤朧庵を訪問する決心をした。
愛用のジャケットを身に着けた僕は、物音を立てずに自室から抜け出す。台所で食器を洗う母親に悟られぬよう、抜き足差し足で玄関から靴を回収し、こっそりと裏口のドアより表へと出た。
無事に第一関門を突破した僕は、慎重かつ迅速に裏庭の木立を抜け、神社の境内へと進軍する。燦々(さんさん)とした陽の光に照らされる広場には、平時と変わらず参拝者の姿は全くなかった。
人目の有無を視認した後、僕は身を潜めていた木の幹より飛び出すと、本殿と鳥居を繋ぐ参道を一気に逆走する。石造りの無骨な鳥居の両脇に並ぶ、狛犬ならぬ狛狼の座像の間へと差し掛かった時、朗々とした野太い声が横合いから僕の足を掬い取った。
「おいおい蒼司、騒がしいな。ここでは常に慎みを心掛けるよう、何度も教えたはずだろう? まさか、あれ程に口を酸っぱくしたことを、忘れてしまった訳ではあるまいな?」
前へとつんのめるようにして足を止め、僕は声のした方へと顔を向ける。
そこでは、背もたれのない腰掛けへと座る作務衣姿の祖父が、白く太い両眉を八の字に顰め、僕を鋭い眼光で睨んでいた。
彼の腰掛けている神社のベンチは、参道に面して建つ社務所の正面に置かれている。
本殿の裏の林から、境内の状況を観察していた僕にとって、そこは最も注意をしておくべき盲点の一つだった。
蛇に睨まれた蛙となった僕は、眉間に深い皺を寄せる彼へ、背筋を伸ばして敬礼する。
「い、いえ、上官より承りしお言葉は、しっかと肝に銘じております! しかし、今回は一刻を争う火急の件が発生したため、やむなく規律を破ることとなった次第でして―」
「ほう、そうか。で、昨晩門限から遥かに遅れて帰ったため、今日一日は外出禁止となっておったお前は、一体全体どこに行こうとしておるのかな?」
祖父は僕の弁明を遮ると、微かに目元を細めてそう尋ねてきた。
一番の急所を容赦なく突かれ、僕はぐうの音も出せずに天を仰ぐ。境内の安寧を乱したに留まらず、不許可での脱走が発覚してしまった今、目的の達成は絶望的だった。
ここはいっそ開き直り、加えて逃亡を試みるべきか。
沈黙を守りつつ、密かに思案を巡らせる僕の耳朶を、不意に地を揺るがさんばかりの笑声が打った。渋面を作っていたはずの祖父が、大口を開けて身も蓋もなく呵々大笑していた。
そのまま一頻り笑った彼は、やがて面食らう僕へと軽くウィンクを送った。
「もう良い、早く行け。いつも天衣無縫で取り付く島のないお前に、そんな顔をさせるくらいだ。よほど、大事な用なのだろう。心配せずとも、後の始末は儂に任せておけ」
そう言うと祖父は涙なく感涙に咽ぶ僕の前で、傍らに立てかけていた竹ぼうきを杖替わりにして立ち上がる。それとなく右足を庇う彼の動作に、一昨年手術した膝の調子が悪いらしいことを、僕は即座に察した。
「大丈夫、爺ちゃん!? もしかして、また前の傷跡が悪化したんじゃ―」
「ふん、なあに、ちょいと古傷が疼いただけだ。それより先程から、何やら家の方より不穏な空気が漂ってきているようだ。ここは、あの鬼のような追っ手に捕まる前に、儂を信じて早く行け。老いた身なれど、見事に殿の役を果たしてみせるわ」
「お爺上、っ……。くっ、あい分かった。貴殿の武運、お祈りしておりますぞっ!!」
手負いの身でありながら後衛を買って出た爺ちゃんは、口元から覗かせた白い歯と、外円を残して禿げ上がった頭頂部を煌めかせ、僕へと親指を上げた拳を突き出す。
僕はその心強い餞別の仕草を背に、鳥居の先に連なる石階段を、一足跳びに下っていった。
十数年前、僕と母親が新たなホームとして移り住んだ三ツ峰家は、この町の中心街からやや海側に外れた場所にある、名もない小山の中腹辺りに建っている。
そして、その母親の実家でもある家と同じ敷地には、僕の祖父・三ツ峰宗次郎が神主を務める、『逢守神社』という小さな寺院があった。
このお世辞にも立派とは言い難い神社には、しかし他の同様の施設とは一味違う、ある奇妙とも言える特異性があった。
それは、この神社が祀る神として、ニホンオオカミという獣が置かれている点だった。
僕が祖父より子守唄代わりに聞かされてきた話によると、古来この地方では狼は人を襲う害獣ではなく、様々な動物から農作物を守ってくれる益獣として捉えられていたらしい。
なので、いつしかその考えは狼に対する信仰へと変わり、やがてニホンオオカミが絶滅してしまった後も、人を邪気や悪気から守る存在としての地位を保ち続けたという。
だが、近代における文明開化の流れの中、そういった土着の宗教は徐々に力を弱め、今となっては逢守神社に参拝する人も稀にしかいない。
それでも、逢守神社を長きに渡って信奉してきた町の人々の間には、未だ世代を超えてニホンオオカミを守り神とする家系も多く残っている。
そういった逢守神社と繋がりを持ち続けている家において、僕は神主の孫として結構な知名度を有しているのだが、特にそれは老舗の集まる商店街において顕著となっている。
なので、自宅を後にした僕が孤朧庵への近道として、中心街の北と南を縦断しているアーケードを利用した際、その傾向は明確な形を持って表されることとなった。
通りを覆う半透明の天蓋の下を爆走していく僕に、仕事中であった多くの店の人達は、
「よう、逢守の坊ちゃん! 今日も、無駄に元気だねえ!」
「あら蒼司ちゃんじゃない、そんなに急いでどうしたの? もしかして、彼女とのデートの待ち合わせに遅れちゃったのかしら?」
「こんにちは、善鞍くん。あっ、遂にいつもの自転車、無理に使って壊しちゃった?」
などと、様々な声援と挨拶と野次を飛ばしてくれた。
気さくに声を掛けてくる顔馴染みの店主や店員・常連客に、僕は通り過ぎ様に簡単な返事をするに止め、彼らの傍らを旋風となって駆け抜けていった。
愛嬌と汗を振り撒きながら通りを通過した僕は、今度は大通りから住宅街へと分かれる路地へと駆け込む。生活感の溢れる地域を、南へと向けて十分近く疾駆した頃、ようやく僕の眼前に孤朧庵の古式ゆかしい店構えが現れた。
数秒程その軒先で息を整えた僕は、挫けそうな足に活を入れて玄関を潜る。
半日前と何ら変わらない、時の止まったような静謐な古書の国の中、入口横のカウンターで読書に耽っていた尾上氏は、入店してきた僕の方へゆっくりと顔を上げた。
「やあ、いらっしゃい、蒼司くん。昨日は遅くに帰って、ご家族は心配していなかったかい?」
「ええ、それはもう、特大の雷を落とさずにはいられないくらい猛烈に……。と、まあそんなことはさておき、あの、秋音さんのことなんですが―」
「彼女のお見舞いに、来てくれたのかい? それは、わざわざどうもありがとう。実は昨日の夜、君が帰ってすぐに、ほんの少し熱が出てしまってね。どうやら、長い間服が濡れたままでいたのが、体に悪かったらしい。幸い、こじらせるようなことはなくて、一晩休んだらだいぶ良くなったみたいだけどね」
彼によれば、秋音さんが体調不良でダウンしてしまったのは、本当であったらしい。
彼女の欠席は心因的な原因に因るものではないと、とりあえずではあるものの確認ができた僕は、ほっとして胸を撫で下ろす。勝手に肩の重荷を減らす僕に、尾上氏は眼鏡の縁をキラリと輝かせ、唐突にこう話を振ってきた。
「せっかく、こうして来てくれたんだ。ぜひ、秋音に会っていくといい。彼女も、君が心配して駆け付けてくれたと知ったら、とても喜ぶはずだ」
「あ、はい……っ、い、いえ、大丈夫です! 病み上がり早々無理をさせて、また具合でも悪くしては大変です! ここは完治するまで、彼女は安静にさせておくべきだと―」
「もう朝には熱も引いていたし、学校を休ませたのも念のためだったから、そんなに気を遣う必要はない。彼女は私が呼んでくるから、その間君は中で待っていてくれ」
懸命に誘いを固辞する僕を全く眼中に入れず、尾上氏は半ば強制連行の体で、僕を居住区画の方へと引き摺っていく。そして、呆気に取られる僕を畳敷きの座敷へと押し入れると、彼は引き止める隙も与えないまま、秋音さんを召喚すべく去っていった。
純和風の居間へと一人残された僕は、予期せず訪れた秋音さんとの対面の機会に、軽度の混乱状態へと陥ってしまった。
今日この場へと赴いた目的の一つには、もちろん彼女への謝罪も含まれてはいた。
だが、こうも早くに心の準備も整わないまま、しかも尾上氏の主導の下で面会の場が設けられてしまったことは、僕にとって想定外に過ぎる展開だった。
彼女に謝ろうにも碌な口上は考えついておらず、また、例の件について問い質そうにもどうやって切り込むべきか、未だに思いついてさえいない。
ここは、嘘の急用をでっち上げてでも、強引に退出をするべきか。
僕は居ても立ってもいられずに、六畳一間の和室をグルグルと回りながら、一時退却すべきかどうかを思案していた。
その時、ふと項の辺りに熱い視線を感じ、僕は反射的に周囲へと目を配る。
すると、細く開けられた襖の隙間より、気弱げに細められた一つの眼が、こちらをじっと見詰めているのが目に入った。
慌てて僕は、机の傍に敷かれていた、来客用の座布団の上へと戻る。
姿勢を正した僕が、そのまま素知らぬ顔で待っていると、次第に襖の間隔が開いていく。
そして、人ひとりが通るにはちょうど良い広さとなったそこから、秋音さんがおずおずとして部屋の中へと入ってきた。
恐る恐る居間へと入室してきた彼女は、薄紅を基調としたスウェットの上下に、芽吹きたての若葉を思わせる萌黄色のパーカーという出で立ちをしていた。
これまで、濡れそぼった制服姿か半裸しかお目にかかっていなかった僕にとって、彼女の素朴な部屋着姿は、逆に斬新に感じられた。
後ろ手で戸を閉めた秋音さんは、言葉もなく僕の斜向かいへと腰を降ろす。
一度も僕と視線を合わせず、自らの揃えた膝を一心に見下ろしているその様子に、僕は彼女へと掛ける言葉が見付からず、同じく口を閉ざすしかなかった。
針の筵へと押し付けられているような時間の中、隣り合って座っているはずの二人の距離が、僕には刻々と遠ざかっていくように感じられた。
何か適当な話題を見付けなければと苦悶する僕に、やがて秋音さんは今にも消え入りそうな、風の音にも似たかすれ声を漏らした。
「善鞍くん……あの、その…………私の、あれ……見た、の…………?」
たどたどしい口調で言葉を紡ぐ彼女の顔は、まだ風邪が治っていないのではと不安になる程、不健康な青色に染まっていた。
今にも気を失って倒れそうな彼女に、僕は即座に座布団から畳の上へと移る。そして、正座の姿勢で彼女へと向き直り、床に額を擦り付けるようにして頭を下げた。
「昨日のことについては、伊奈沢さんには本っっ当に申し訳ないと思っている。僕としては、結果としてああなってしまった以上、下手な弁明をするつもりは欠片もない。ただ、僕はあそこで、決して見てはいない。それだけは、絶対の自信をもって断言できる」
「え……あ、えっ! 善鞍くん、見て、ないの!? 本当に、本当に見てないの!?」
僕の弁解を耳にした途端、秋音さんは素っ頓狂な声を上げて、伏せていた顔をこちらへと向ける。瞳へと驚愕と狂喜の輝きを宿す彼女に、僕は真っ直ぐに背筋を伸ばし、大きく頷き返して請け負った。
「うん、伊奈沢さんの投げたタオルの軌道は、僕の視線とほとんど重なっていたからね。だから、秋音さんの裸は全然全く見えなかった。で、まあ、それはそうと、あの時の伊奈沢さん、頭とお尻の辺りに、何か耳とか尻尾みたいなのが付いてなかっ―」
「わひゃあ、やっぱりぃ!! 見られちゃった、私、やっぱり見られちゃってたあああ!!」
僕が謝罪ついでに投じた質問に、彼女は歓喜の表情から一転、絶望と悲嘆に暮れた面持ちとなって机に突っ伏してしまった。
どうやら彼女が気にしていたのは、自分の裸体の胴体部ではなく、頭と下半身に出現していたあれを、僕に目撃されていなかったかどうかだったらしい。
しかし、秋音さん自身があれの存在を自覚しているということは、すなわち彼女に生えていた獣の物らしき耳と尾は、やはり僕の見間違いではなかったらしい。
それは、もしや自分の異常が動物の声を聞くという幻聴に留まらず、他人に動物の器官を取り付けるような幻覚を引き起こすまでに悪化しているのではと懸念していた僕にとって、非常に心の休まる朗報であった。
だが、心配事から解放されたそんな僕とは対照的に、秋音さんは失意のどん底へと叩き落されてしまっていた。
激しく狼狽し、机へと思い切り顔を突っ伏していた彼女は、「どうしよう、どうしよう」と涙ぐんだ低い声で呟いている。まるで、この世の終わりであるかのように嘆き悲しむその姿に、僕は言い知れない罪悪感と、どうにかして慰めてあげたいとする思いに駆られた。
彼女のあの耳と尾が何であるのか、僕には少しも見当が付かないし、その正体も気になって仕方がない。しかし、ここはまず自らの知的欲求を満たすより、彼女の不安を取り除くことを優先するべきだった。
そうして、僕は数秒間の瞑想の後、あの秘密を彼女に明かす決意を固めた。
泣き暮れている秋音さんの注意を、僕はどうにか自分の方へと引き付ける。
机上に散らした前髪越しに、こちらをビクビクとして見上げる彼女へと、僕は出来る限り真剣な眼差しを送りながら、それを告げた。
「伊奈沢さん、実は僕、猫とか鳥とかいった動物と、話をすることができるんだ。もちろんこんなこと、今まで誰にも教えてはいない。異常者扱いされるに決まっているからね。だから、もし僕が君の秘密を漏らすようなことがあれば、君も僕のこの秘密を遠慮なく言い触らして構わない。これなら、僕も自分の秘密を暴露されるのが嫌だから、迂闊なことは何も出来ない。どう、これで少しは安心した?」
無論、僕は秋音さんの抱える秘め事が何であれ、本人の了承を得ずに放言するつもりは全くない。いわば、この申し出は僕のトップシークレットを秋音さんに伝えることで、彼女もまた僕の動きを牽制できるのだと実感させるのが目的だった。
だが、僕の一世一代の告白に対する秋音さんの反応は鈍かった。
寧ろ、彼女の僕を見る充血した目には、寂しそうな悲しみがより色濃く浮かんでいた。
秋音さんは僕のカミングアウトが俄かには信じられず、その場凌ぎの方便としてしか聞こえていないらしいことは、その様子から容易に察しがついた。
僕は半信半疑の彼女へ、重ねて説明をしようと口を開く。しかし、発言の内容に嘘がないのを証明しようにも、そうする手段が何もないことに思い当たり、僕は虚しく口を閉ざすしかなかった。
再び居間へと舞い戻ってきた沈黙は、どこか前より痛々しく、そして空々しい雰囲気を帯びており、僕達をねっとりとした嫌な感触をもって包み込んだ。
このままでは、二人ともお互いを良く知らないままに、決定的な亀裂が生じてしまう。
そんな危惧から焦りを募らせた僕は、この停滞した状況に有効な打開策を、脳細胞をフルに活用して見出そうとする。
そんな時、力無く床へと視線を落としていた秋音さんが、ポツリと小さな声を漏らした。
「じゃあ……確かめても、いいですか? その、善鞍くんが言っていることが……本当なのか、どうか…………」
「え? ああ! うん、もちろん! よし、そうなったら、早速今から実証してみせ―」
発言の真偽を確認したいとする彼女に、僕は願ってもない好機と二つ返事で了承する。
だが、いざ実演をしようとした僕は、秋音さんもまた動物の言葉が分からない限りは、それが実質的に無理である事実に気が付いた。
仮に、この場に近所の犬か猫でも連れて来たとしても、実際に僕との間で会話が成立しているのかどうかなど、そもそも彼女に判別できるはずもない。
第一、動物と話をしているという現象は、僕の認識上の問題である可能性も未だにある。
そうなれば、例え僕が本気で動物との対話が可能であると信じていても、秋音さんにはやはり言葉をもってしか、僕の言い分を訴える術はないように思えた。
そんな回避不能なジレンマに直面していた僕に、秋音さんはためらいながらも、次のような指示を出してきた。
「あの……それじゃ、目をつぶってから、後ろを向いてもらっていいですか? それから、私が声をかけるまで、絶対にこっちを振り返らないでください。絶対に、です」
「う、うん、いいけど……でも、それで一体何を―」
「っ~~~んっ! いいから早く、言われた通りにしてくださいっ!!」
なぜか顔を真っ赤にして怒る秋音さんに、僕は慌てて彼女の厳命に従って膝を返す。
秋音さんを背中側にして座り直した僕は、相手が何をしようとしているのか分からないまま、とりあえずは両の眼を閉じて黙想を続けた。
しばらくすると、何やら後ろの方から、密やかな衣擦れの音が聞こえてきた。
まるで衣服を脱いでいるかのような気配に、僕は思わず首を後ろへと回しかけるが、
「まっ、まだです!! まだ、こっちを見ないでください!」
と、鋭い語気での注意を受け、おとなしく頭を定位置へと戻すしかなかった。
そして、僕にはまるで悠久のごとく感じられた短い時間の後、「もう、いいですよ」と、秋音さんが囁く声が耳に入った。
妙な緊張感に苛まれ続けていた僕は、調子の外れた声で、無意識の内に返事をする。浮き足立つ気持ちをどうにか押さえ付けながら、僕は意を決し、体をその場にて半回転させた。
僕が振り向いた先には、期待と憂慮をしていたような、秋音さんの姿はなかった。
代わりにそこには、乱雑に積み上げられた彼女の衣服の上に座り、こちらを静かに眺めている、一匹の銀狐がいた。
僕は狐の生態などには詳しくないが、張り艶のある白い毛並みと、まだ丸みとあどけなさの残る顔立ちを見る限り、それはまだ成体になりきれていない若い個体のようだった。
突如として姿を現したその狐は、ただただ呆気に取られていた僕を、正面から逃げもせずに見返している。白い毛に覆われた顔の中で、際立って目立っているその黒い瞳は、あたかも息を呑むように大きく見開かれていた。
「…………ほんと、に……本当に、私の言っていることが分かるんですか、善鞍くん……?」
「そう、そうなんですよ! やっと、分かってもらえましたか! だから、秋音さんも僕が余計なことを、のべつ幕無しに周知させるなんて心配は―」
秋音さんが上げた驚きの声に、僕はすぐさま相槌を入れる。しかし、ふと我に返ってみると、会話をしているはずの当の本人は、この部屋には影も形も見当たらない。
更にはなぜか、今しがた聞こえてきた秋音さんの声が、彼女と入れ替わりに出現していた、銀狐の口より発せられていたように僕には感じられた。
まさかという思いで僕が見詰める前で、その銀狐は肩を落とすみたいに、尖った鼻先を微かに垂れる。そして、面食らう僕へと再び上げられたその眼には、しっかりとした意志と理性の輝きが灯されていた。
「善鞍くん、申し訳ないですけど、もう一度だけ後ろを向いていてください。今度も大丈夫になったら、私から声を掛けますから」
僕へと元の姿勢に戻るよう頼み込む秋音さんの言葉は、今度ははっきりと銀狐の口から飛び出してきているのが聞き取れた。
疑問と謎が果てしなく膨らんでいく中、僕はひとまず指令通りに半回転して時を待つ。
やがて、再度合図を受けた僕が後ろを顧みると、先程まで謎の銀狐がいた所には、先程と変わらない秋音さんの姿が戻ってきていた。
彼女は着崩れしたパーカーの襟を正しながら、戸惑う僕へとぎこちなくも悪戯っぽく微笑み掛ける。
「あの、ごめんなさい、こんな試すみたいなことをして。でも、すごくびっくりしちゃいました。善鞍くん、私がさっきの姿になっても、本当に言っていることが分かったんですね」
「あっ、と…………ええと、もしかして、さっきの狐って―」
「……はい、私です。やっぱり、驚いちゃいましたよね? 本当に、ごめんなさい。でも、善鞍くんが言っていることを確かめるには、私にはああするしかなかったから……」
気まずそうに言葉尻を濁す秋音さんに、僕は一旦頭の中の情報を整理してから、まず聞いておくべきと思われる質問を選び出す。
「あの狐の正体は、秋音さん……なんだよね? あれって、つまりは君が狐に変身することができる……ってことで、僕は理解して良いのかな?」
「変身……というより、元に戻るっていう方が、正しいかもしれません。あの、私……実は、普通の人間じゃないんです。私は、人間と狐の間に生まれた、混血種なんです」
「え…………えっと、つまり、君は人間と狐の合いの子、だと…………?」
「そうです。私の父親は普通の人間ですが、お母さんも普通の狐なんです。お母さんは、化けて街に出かけていた時に父と会って、私を身ごもったと話していました。しばらくは二人で一緒に暮らしていた頃もあったと聞きましたが、今となっては詳しいことは分かりません。お母さんは私の父と別れた後、病気になって死んじゃいましたし、その父がどんな顔と名前なのかさえ、私は知らないんです。お母さんは私を生む前に、父の元から離れたと言っていましたから。それで、お母さんがいなくなって身寄りのない私を徹さんが助けてくれて、この家に置いてくれたんです。それから、私は徹さんのお世話になりながら、ここにずっと住まわせてもらっているんです」
怒涛のように明かされる彼女の半生に、僕は自覚のないまま圧倒されていたのだろう。
聞き手の顔を流し目で見上げた彼女は、力無い苦笑いを浮かべ、小さく肩を落としていた。
「ご、ごめんなさい……急にこんなことを言われても、訳が分からないですよね……。でも、信じられないかもしれないですけど、私は本当に―」
「信じるよ、信じるさ! と、言うより、信じるしかないじゃないか! 現に、君は僕の目の前……あ、いや厳密には背中の前でだけど、狐の姿に変わってみせたんだ。これ以上の誠意の見せ方なんて、僕には到底考え付かないよ!」
切羽詰まった面持ちで訴えてくる彼女を、僕は一瞬の迷いもなく、全面的に受け入れた。
僕の柔軟過ぎる反応が意外だったのか、それとも、急に膝を詰めてくる相手の勢いにたじろいだのか、秋音さんは口にしかけていた科白を呑み込み、当惑に丸くなった目でこちらを見返す。言葉を失ってしまった彼女に代わり、僕は頭を占める興奮に任せて、思いつくままに捲し立てた。
「よし、じゃあこれで、万事問題ナッシングだ。僕は、君が狐になれるということ。君は、僕が動物と話ができるということ。こうしてお互いに他言無用の極秘事項を共有したからには、どちらも相手の秘密を明かす訳にはいかないはずだ、そうだろう? だから秋音さんも、もう心配する必要は何もない。なぜなら、僕は他人から白い目で見られて後ろ指をさされるリスクを冒してまで、君の秘密を口外したいとは思わないからだ、そうなんだ!」
軽い混乱から常にも増して饒舌になる僕に、最初秋音さんは茫然としているだけだった。
それでも、しばらくすると彼女は強張らせていた頬をふっと綻ばせ、一文字に引き締めていた唇の端を緩めた。
秋音さんは軽い吐息を一つ漏らしてから、虚脱した笑みを僕へと向ける。薄っすらと細められたその眼は、今まで立ち込めていた不安の霧が、随分と薄らいでいるように見えた。
「やっぱり、変わって……ますよね、善鞍くんって。私が狐になれるって知っても、そんなに驚かないし……。私のこと、気持ちが悪いって、思わないんですか?」
「驚いていないつもりはないさ。だけど、気味が悪いかと訊かれても、僕にはどうにも答えようがない。たぶん、そんなことを考える余裕もないくらいに、心の底から魂消てしまったからなのかもしれないけど」
秋音さんの疑問にそう返しながら、僕にはその実、理由は他にもあると分かっていた。
彼女が変じた銀狐を目にした時、僕は不思議と、忌避の念も嫌悪の情も抱かなかった。
逆に、僕はその銀に煌めく神々しい姿形に、畏怖に似た感動さえ覚えていたのだった。
口にすると嘘っぽくなるような気がするため、そうした想いを言葉にするつもりはない。
代わりに、僕は自分の心に偽りがないことを、真摯に相手と向き合い続けることで、秋音さんへ伝えようと躍起になった。
やがて、そんな僕の想いを感じ取ったのか、それとも僕の真面目腐った顔に吹き出しただけなのか、秋音さんは小さく含み笑いを零す。それを前にした僕は、藺草の香り漂う手狭な和室に、ほんのりと暖かい、和やかな空気が吹き込んできたように感じられた。
人差指の関節で目頭を軽く擦った彼女は、どこか嬉しそうな顔付きとなって、僕を不思議そうな上目遣いで見詰めた。
「でも、ものすごくびっくりしたのは、私もです。どうして善鞍くん、あの姿になっていた時の私の言葉が、ちゃんと聞こえて―」
僕へと投じられた秋音さんの疑問は、しかし最後まで言い切られるのを待たずして、突然に開けられた障子の音によって断ち切られた。
一瞬、僕は尾上氏が様子を窺いに来たのかと思ったが、見上げた先に彼の顔はなかった。そのまま視線を随分と下げてみると、そこにはショートカットの髪型の、全体的に丸っこい容貌をした少女が立っていた。
奇襲を仕掛けてきた謎の少女は、部屋にいる僕達を黒目勝ちな眼で見比べる。当惑の表情を浮かべて立ち尽くす彼女に、秋音さんは驚きの声と共に腰を上げた。
「あっ、ツグミちゃん! あれ、もしかして、ツグミちゃんもお見舞いに来てくれたの?」
「べ、別に、そんなんじゃないわよ。たまたま、この近くに用があったから寄ってみただけで……っていうか、そんなことより―」
駆け寄る彼女へと邪険そうに眉を顰めた謎の少女は、その険しい表情のまま僕を流し見る。
つられて視線をこちらへ向けた秋音さんは、何かを思い出したように、急に両手を打ち合わせて素っ頓狂な声を上げた。
「そうだった、まだ善鞍くんに、お茶も出してなかったんだ! ごっ、ごめんなさい、すぐに準備してきますから! ツグミちゃんのも用意するから、二人ともここで待ってて!」
彼女は僕らへと何度も頭を下げ、入口にいた謎の少女を部屋の方へと押しやると、慌ただしく廊下の向こうへと走っていった。
先程とはまるで別人のようなその快活さに、僕は遠ざかっていく彼女の足音に耳を澄ませながら、ある種の可笑しみと頼もしさを覚える。だが、彼女との対面を通し、判明した幾つかの事実を思い返してみると、そこには決して笑って誤魔化せはしない、看過不可能な事柄が幾つも存在していた。
秋音さんとのやり取りの中で生まれた疑問は、未だその多くが未解決のまま残されている。
そこでも特に、僕が重要視すべきなのは、狐の時の秋音さんと会話が出来たことだった。
この事実は、僕が動物の言葉を解釈しているという現象が、僕の脳内だけで起こっているのではない、現実に実行されている行為である証拠に他ならなかった。
もしこれが、僕の精神的異常が原因だったならば、理解も対処も容易に立てられただろう。
しかし、こうして病理的なものによる可能性が排除されてしまった以上、僕にはもうその逃げ道は閉ざされたも同然だった。
この僕が本当に、動物の声を聞き分ける能力を持つのなら、その源には何があるのか。
まさか、精神的な段階ではなく、脳の構造自体に、特異性が現れているとでもいうのか。
ますます深さと闇を増していく謎に、僕は隣から自分を呼ぶ声にも気付かず、延々と頭を悩まし続けた。
そして、怒号一歩手前の叫び声がやっと耳に入った時、僕へと声を掛けていた少女の狭い額には、苛立ちから青々とした一条の筋が浮かんでいた。
「ちょっとあんた、無視してんじゃないわよ! もしかして、私を馬鹿にしてるの!?」
「あっと、これは申し訳ない。決して悪気があった訳ではなく、少しばかり考えごとを……」
「ふん、どうだか。気付いてはいたけど知らないふりして、こっちの慌て振りを見ながら楽しんでたんじゃないの? あんたって、根暗で陰険そうな顔してるし」
酷薄な冷笑を浮かべてそう告げた謎の少女は、さも僕を直視するのが嫌だと言いたげに、ぷいと癖のある毛先を振ってそっぽを向いた。
こちらを見下すように堂々と仁王立ちする彼女は、しかしどう見ても背が低いことは否めない、とても小柄な体型をしていた。
外見と体格で判断すれば、彼女の歳の頃は、おそらく小学校の高学年から中学校一・二年のどこかに入るだろう。だが、裾の短いチノパンにロゴ入りのジャケットという、カジュアルな衣服を綺麗に着こなしている品の良さや、見知らぬ男性を前にしても全く物怖じしない威勢の良さには、僕より年下とは断じ切れない成熟した雰囲気があった。
「ちょ、何さっきからジロジロ見てんのよ、気持ち悪いわね! って言うか、そもそもあんた、一体誰よ!?」
「そういえば、自己紹介がまだでした。僕の名前は、善鞍蒼司。何の変哲もない、ありふれた二年の男子高校生です。それで、君の名前は―」
「絶対言わない。何で、どこの誰とも知らない男に、わざわざ名前を教えなくちゃいけないのよ? 特に、あんたみたいに得体の知れないやつには、覚えられたら色々とやばそうだし」
彼女は答える義理はないと言いたげに、僕の問いを冷たく跳ね退ける。
高みから僕へと向けられるその横目には、なぜだか敵愾心の暗い灯火がちらついていた。
呼び掛けに気付かなかったことに、そこまで怒っているのだろうかと戸惑いつつ、僕は腕組みをして屹立する彼女へ、恐る恐る伺いを立てる。
「あのー、つかぬ事をお尋ねしますが……もしかして、さっき僕が返事をしなかったことに、ご立腹なされているのでしょうか?」
「別に、そんなんじゃないわよ。あと、私が怒ってるなんて、いつあんたに言ったの? 勝手に分かったようなこと、言って欲しくないんだけど」
「あ、はい、申し訳ないです。ところで失礼ですが、ツグミちゃんのご学年は如何ほど―」
「ぶ、ふっっ!? つっ、ツグミちゃんってっ、あんたっ……突然、何をっ……!?」
「いや、お名前を教えていただけないのなら、伊奈沢さんが使っていた呼び名を流用するしか、呼びようがないので。それで、ツグミちゃんは一体お幾つ―」
「道誠寺よ、私の名前は道誠寺壬よっ!! 分かったら、その馴れ馴れしい呼び方を変えろっ!! ううっ、何か気色悪くて、鳥肌が立ってきたっ……」
会心の『名前連呼作戦』が功を奏し、僕はまず謎の少女の名前を入手することが出来た。
あわよくば、流れで実年齢についても訊いておきたかったが、壬ちゃんは二の腕に走っていた悪寒を抑えると、今度は自分のターンとでも言いたげに、こちらを睨み返した。
「それよりあんたよ、あんた! 全然見ない顔に知らない名前だけど、どうしてこの家に上がり込んでんのよ! それと、秋音と話をしてたみたいだけど、あの子とどんな関係なの?」
彼女は細い眉を鋭利につり上げ、心持ちくぐもった口調で詰問する。素直に答えようとした僕は、秋音さんとの間柄を何と称するべきなのか、適当な関係性が思いつかずに戸惑ってしまった。
友人とするには付き合いが短すぎるし、ただの知り合いにしては、お互いのことを知り過ぎてしまっている。妥当な線としては、『秘密の共有者』辺りになってくるのだろうが、そう説明してしまっては墓穴を掘ったも同然である。
「どうしたのよ、さっさと言いなさいよ。……それとも、何? 私みたいな他人には教えられないような、そんな関係だとでも言うのかしら?」
なかなか適当な答えを見付けられないでいる僕に、壬ちゃんは不審に顔を曇らせていく。
これ以上、彼女の疑いを強くさせる訳にもいかなかったため、とりあえず僕は曖昧な返答でお茶を濁すことにした。
「うーん、あえて表現するなら……ちょっと言いにくい関係、ってとこかな、うん」
「言いにくい、って……何よ、それ、どういう意味よ? 変にごまかしてないで、ちゃんとはっきり言いなさいよ!」
僕としては、上手く本音と建前を両立させたつもりだったが、どうやら逆効果でしかなかったようだった。
こちらの返事に納得がいかなかった彼女は、更にいきり立って僕へと詰め寄る。
間近へと迫る怒りに満ちた形相に、答えに窮した僕は苦笑いで取り繕う。すると、今度はそれが嘲笑と受け取られてしまったのか、一層に彼女の頬へと朱を加え、怒りの炎に薪を焼べる結果となってしまった。
憤怒の権化と化した壬ちゃんに、僕が絶体絶命の危機に追い込まれた、正にその時。
飲み物を乗せた盆を持った秋音さんが、スーパーヒーローもかくやという絶好のタイミングで、この危機的状況を迎えた現場へと戻って来てくれた。
「お待たせ、二人とも…………あ、あれ? どうした、の……?」
「ちょっと秋音、何なのよコイツ!? さっきからずっと私を馬鹿にして、挙句にあんたと自分が、その、言いにくい関係だなんて言うのよ! どうせ、学校の用事か何かでここに来てそのまま勝手に上がり込んだ、同じクラスの男子か何かってだけでしょ!?」
「え……えっと、そうじゃ、ないんだけど……でも、そうかもしれない、みたいな……」
「なっ、何でそこで黙るのよ!? しかも、どうしてあんたが顔を赤くしてんのよ!? い……一体、何だって言うのよ、もうっ!!」
要領を得ない秋音さんの反応に、遂に壬ちゃんは堪忍袋の緒を切らしてしまい、半狂乱の体となって僕達に当たり散らし始めてしまった。
それでも、どうにか二人掛かりで彼女を宥めた僕達は、虐められていた秋音さんを通りすがりの僕が救ったという、正しくはあれども全てを明かしてはいない説明で、最後には一定の理解を得ることが出来た。
「ったく……じゃあ、最初からそう言いなさいよね。変に思わせ振りなマネなんかされるから、無駄に怒っちゃったじゃない」
「ごめんね、壬ちゃん。たぶん、善鞍くんは私に気をつかってくれて、はっきりとは言わなかったんだと思うけど……」
一応矛を納めはしたものの、なかなか不機嫌そうな顔付きを崩さない壬ちゃんに、秋音さんは済まなそうに肩を窄めて謝りを入れる。さり気なく僕のフォローも入れる彼女に、壬ちゃんは斜め前に座る僕を、ジロリと不機嫌そうに睨んできた。
「ふん、どうかしらね。わざわざ痴漢っぽい方法で相手を追い払うような変態くんみたいだし、わざと私を困ったり怒らせたりさせて、面白がってただけかもしれないけど」
「いえいえ、僕のなけなしの誇りにかけて、決してそのようなことは―」
「ま、別にどうでもいいけど。あと秋音、もしまたその女達がやってきたら、今度は私に教えなさいよね。何か、話を聞いていたら色々ムカついてきたし、一発ガツンとやってやらなきゃ気が済まなくなってきたわ」
憤然としてそう吐き捨てる壬ちゃんに、その並々ならない気迫を目の当たりに僕は、ただただ追従の笑みを作るしかなかった。
そんな僕達を見比べていた秋音さんは、やがて何かを思い出したように、はっとして半開きとなった口を覆い隠した。
「そういえば、二人とも会うのは、今日が初めてだったよね? えっとね壬ちゃん、この人はさっきも言ったけれど、私を助けてくれた同じ学年の人で―」
「あ、ごめん伊奈沢さん。もう僕の自己紹介は、少し前にこっちで片付けてあるから。でも、彼女のお名前以外の情報は、残念ながら提示していただけませんでしたが」
「あ、そうだったんだ。壬ちゃんは私達と同じ学校で、同じ学年の五組だよ」
「ちょ、何をあっさり教えてんのよ!? まったく、これだからあんたって人は……」
あっけらかんと彼女の所属先を教える秋音さんに、壬ちゃんは慌てて止めに入るが、もはや後の祭りでしかなかった。
戸惑う秋音さんへと呆れ果てている壬ちゃんを前に、彼女の大まかな年齢を知り得た僕は、正直驚きを禁じ得なかった。
成程、僕や秋音さんに対する強気な姿勢を見れば、彼女が同じ学年の女子であるというのも、ある意味では頷ける。
だが、そうだとしても、見た目年齢が百歩譲って中学生にしか見えないその人が、僕と同学年であるという事実は、どこか感覚的に受け入れづらいものがあった。
予想を超える衝撃に打ちのめされる僕を、怪訝そうに秋音さんが見詰めてきた。
僕は内心の動揺を悟られぬよう、思考とはまるで無関係の話題を彼女へと切り出した。
「そうか、そうだったんだ、やっぱりね。と言うことは、伊奈沢さんと壬ちゃんは昔からの旧友で、竹馬の友みたいな親友なの?」
「そんなんじゃないわよ。古い知り合いではあるけど、ただの腐れ縁ってだけ。つーか、いい加減あんた、私をそう呼ぶの止めなさい! 本っ気で怒るわよ!!」
苛立たし気に質問の内容を否定する壬ちゃんに、秋音さんは困ったような諦めたような、少し寂し気な微笑みを僕へと向けた。
どうやら、二人の間には部外者には窺い知れない、微妙な溝が横たわっているようだった。
三度漂い始めた空々しい空気に、秋音さんは場の雰囲気を切り替えようと、机上の隅に下げていた盆へと手を伸ばした。
「そうだ、飲み物を配るの、つい忘れちゃってた。ごめんね、もうすっかり温くなっちゃってるけど……」
彼女は両脇の客人にそう詫びながら、壬ちゃんと自分の前に、緑茶入りの湯飲みを置く。
しかし、最後に僕へと差し出されたのは、黒々とした液体を湛えたコーヒーカップだった。
待遇の違いに若干の疑問を抱く僕に、秋音さんはおっかなびっくりとしながら、こちらの様子を窺ってきた。
「あの、も、もしかして、善鞍くん……コーヒーは、嫌いでしたか?」
「いや、そんなことはないけれど……。でも、どうしてみんなじゃなくて、僕にだけ?」
「その、同い年の男の子とか、ここにお客様として来たことなんてなかったですから……。だから、お茶よりコーヒーの方が好きなのかなって、勝手にそう考えちゃって……」
つっかえながら彼女が話す中身を要約すると、つまりは血気盛んな男子はほっこりとした緑茶より、カフェイン満載のコーヒーが似合いそうだったので、そちらを出してみたということらしい。
慣れないながらも精一杯の心遣いをしてくれた彼女に、その頑張りに感じ入った僕は思わず涙腺が緩み、目頭が微かに熱くなってしまった。
「ふん。そいつになんか、泥水で充分だったのに。味の違いなんか分からなくて、そのままゴクゴク飲んでたかもしれないわよ」
片や、僕だけに特別な配慮がなされたのが気に食わないのか、傍で聞き耳を立てていた壬ちゃんは、面白くなさそうにそう皮肉っていた。
「あ、もしお茶の方が良いんでしたら、遠慮せず言ってください。すぐに、代わりの分を持ってきますから……」
「ううん、大丈夫。流石に泥水はないけど、僕はそんなには違いの分からない男だから。でも、それとは別にお願いしたいことがあるんだけど、良かったら聞いてもらえるかな?」
不意打ちでそう頼み込む僕に、秋音さんは緊張の面持ちとなって姿勢を正した。
「は、はい。何で、しょうか……?」
「うん、それ。その僕への敬語なんだけど、もし構わないのであれば、使わないで欲しいんだ。同学年の女子からそんな言葉遣いで話し掛けられると、どうにもくすぐったくて敵わないんだ。無理にとは言わないけど、どうかな?」
相手の弱みに付け込む形となってしまったのは、僕としても少し心苦しいものがある。
それでも、以前から気になっていた事柄の改善を求めるには、話の流れからしてもちょうど良い機会だと、即座に僕は判断したのだった。
僕からの突拍子のない嘆願に、秋音さんは瞬きを忘れて当惑していた。
やがて、返事を出来ないでいる彼女を見兼ねたのか、壬ちゃんは湯飲みのお茶を一口で空けると、陶器の底を机へと強く叩き付けた。僕へと向けられた彼女の目は、まるで仇敵と邂逅した猛者のような、際立った殺気に満ち満ちていた。
「あんた、ねえ……。さっきから黙って聞いてれば、よくもそんなこっ恥ずかしいことを、平然とした顔でベラベラと口にできるわね! まさか、ほんのちょっと秋音の世話をしたってだけで、この子と親しくでもなったつもり―」
「はっ、はい、そうします……じゃなくて、そうするね、善鞍くん! 私が気付いていなかったせいで、嫌な思いをさせてて、ごめんなさ……ごめん、ね」
壬ちゃんの糾弾を遮った秋音さんは、面食らう僕へと改まった口調でそう告げた。
言葉を親しみのあるものにしようと腐心する彼女に、壬ちゃんは自分の耳が信じられないといったふうに、唖然として目を点にしていた。
「はっ……えっ、ええっ!? あんた、何言ってんの!? こんな奴の頼みを聞く必要なんて、一ミリだってないじゃない! これ以上こいつを図に乗らせたら、どんなヤバいことになるか―」
「ありがとう、壬ちゃん。でも、大丈夫だよ。私は善鞍くんのこと、まだそんなには知らないけど、でも、とても良い人だって思うから。言ってることは、ちょっと変わってるけどね」
おそらく、秋音さんの僕に対するこの無条件の信用は、僕が彼女の秘密を漏洩しないと誓った件が根拠となっているのだろう。それを踏まえれば、こうした彼女の無謀とも思える言動も、決して熟慮に欠けている訳ではないと捉えられる。
だとしても、こうして全幅の信頼を口にして表されると、僕にとってはいささか照れ臭くもあって嬉しくもあり、反応の仕様に困ってしまうのは否めなかった。
と、そんな風に座り心地の悪さを覚えていた僕に、今度は秋音さんの方から、ある一つの申し出がなされてきた。
「あの、善鞍くん。その代わりって訳じゃ、ないですけど……私からもひとつ、お願い事をしても良いですか?」
「ん? あ、はいはい、バッチ来いですよ、はい。どのような、ご用件でしょうか?」
「えっと、その……私のこと、次からは名前の方で呼んでもらっても、大丈夫……かな?」
「名前? いや、でも、伊奈沢さんは前から伊奈沢……あ、もしかして、下の方でってこと?」
「う、うん……。私、男子の知り合いなんて一人もいなかったし、クラスの人からも苗字でしか呼ばれたことなかったから。だから、同い年の男の子に下の名前で呼ばれたら、どうなのかなって、前からずっと気になってて―」
彼女からの予期しない懇願とその理由に、つい僕は呆気に取られてしまった。
まじまじと自分に注がれる僕の視線に、耐えきれなくなった秋音さんは、弾かれたように目を伏せる。瞬く間に赤くなった顔を、手の平を掲げて覆い隠した彼女は、調子の狂った高い声で謝りを入れてきた。
「ごっ、ごご、ごめんなさい! 失礼でした、よね……突然こんな、変なお願いなんかして―」
「……全くですよ、秋音さん。そういうことを頼むんだったら、もう少し自然な雰囲気で切り出さないと。こんなに正面きって頼まれちゃったら、こっちもやっぱり構えちゃうし」
「はい、本当にごめんなさ……え、あれ? えっと、今……?」
平和鳥を彷彿とさせる動きで、素早くお辞儀を繰り返していた秋音さんは、自分の呼称が変更されているのに気付き、はっとして顔を上げる。表情へと驚きの色を滲ませる彼女に、僕はやや気恥ずかしさを覚えながらも、軽く微笑んでみせた。
「断る理由も別段無いし、僕としては一向に構わないよ。まあ、それに、伊奈沢さんよりも秋音さんの方が、一文字少ない分言い易いしね」
無論、最後に付け加えた省エネ的理由は、秋音さんの緊張を解すための冗談でしかない。
彼女からのアプローチとも取れるこの提案は、秋音さんを知人と友人のどちらに分類すべきか困っていた僕にとって、拒むはずなど微塵もあるはずはなかった。
相手の申し出を快く了承し、さっそく実践してみせた僕に、秋音さんは一瞬だけ嬉しそうに目を輝かせたものの、恥ずかしさからかすぐに膝へと視線を逸らしていた。
俯かせた顔を真っ赤にする彼女に、僕は意味もなく項の辺りがむず痒くなってしまう。
決して不快ではないが、異様に居心地の悪い雰囲気が僕達の間に漂う中、それまで傍らで沈黙を守っていた壬ちゃんが、やおら奇声を発して躍り上がった。
「ああああ~~~あーあーあー、何よこれ何よこれ、何なのよこれ!? 一体、この回りくどくて甘ったる過ぎる、馬鹿みたいな会話は何のよ!? あーもう、ほんと見てられないし聞いてられないわこんなの! 帰るわよ!!」
「え? あっ、そうですか。では、道中どうぞお気をつけて、無事のご帰宅を」
「はぁ、何言ってんのよ!? あんたも一緒に、ここから出るのよ!!」
帰宅を宣言する壬ちゃんへと別れを告げる僕に、彼女は共に退出するよう言い放つ。恫喝めいた口調で迫る彼女に、僕は思わず秋音さんの方へと視線を巡らせた。
「いや、そのお誘いについては光栄に思うけど、実は僕この後少し、秋音さんと二人だけで話したいことが―」
「話すな! いや、むしろ何も喋るな! 大体、今から話なんてしてたら、秋音も夕飯の準備とか出来ないでしょうが! まさかあんた、ここでご馳走になっていきますなんて、ふざけたことぬかすはずないわよね、そうよね!? だったら、さっさとこの家から立ち去る!」
早口でそう捲し立てた彼女は答えを待たず、僕の襟首を掴んで廊下へと引き摺っていく。
思いの外に強い壬ちゃんの腕力に、僕は窮屈な前傾姿勢となりながら、為す術なく引っ張られていくしかなかった。
可能であれば、僕は壬ちゃんが席を外すのを見計らってから、自分と秋音さんの特異体質のことについて、彼女と相談をしようと考えていた。
だが、確かに彼女の言う通り、既に廊下へと差し込んでいる夕陽は暗い橙色へと変色し、夜が間近に迫っているのを暗示していた。
連日遅くまでお邪魔になるのは、秋音さんや尾上氏にも失礼であったし、また僕自身も脱走中の身の上で、またしても自宅の門限を破るのは非常に不味い。
ひとまずここは、僕の長年に渡る謎を解明する糸口を発見したと割り切って、また別の機会に出直すしかなかった。
壬ちゃんの有無を言わさない連行の下、古書の並ぶ広間へと出た僕は、言われるまま自分の靴へと足を入れる。二人が土足となって床に立った直後、秋音さんが見送りのために、廊下の奥から小走りで駆け寄ってきた。
「あの、二人ともそんなに急いで帰らなくても、もっとゆっくりしていってもいいのに……」
「だめだめ、そんなの。病み上がりのあんたこそ、ゆっくりしてなさい。特に、こんな神経の疲れるやつの相手なんかしてたら、治った風邪もまたすぐにぶり返しかねないわよ」
「あはは……じゃあ、まあ、そういうことで。どうせ僕も早く家に戻らなきゃいけないし、それに、彼女に暗い夜道を一人で帰らせる訳にもいかないしね」
「んなっ……あんた、まさか私にも付いてくるつもり!? 秋音だけじゃなくて、私の家まで知ってどうするつもりよ、この変態ストーカー!!」
「え、いや、そういうことでは……。でも、壬ちゃんがボディーガードをご所望されるのであれば、非力ながらこの僕が盾役を仰せつかっても構いませんが」
「付いてくる素振りをちょっとでも見せたら、即ぶっ飛ばすから! あと、その名前で呼ぶのは、絶対にやめろって―」
「おや、二人とも、もう帰るのかい? 壬くんは、ついさっき来たばかりじゃなかったかな?」
僕の不用意な発言に、壬ちゃんが再び頭上へと噴煙を上げようとした時、広間に面している別の廊下の陰より、ふらりと尾上氏が姿を見せた。
何の前触れも無しに現れた彼に、僕は慌てて辞去の礼を述べる。尾上氏は僕の会釈に片手を上げて応えると、ふと何かを考え込むように、尖った顎の先へと指の長い手を添えた。
「それはそうと、蒼司くん。君はこの後、そのまま家に帰るのかい?」
「はい。寄り道をしている余裕は、時間的にも精神的にも余りないので」
「そうか。それなら、ちょうど良い。いきなりで悪いけど、今から私を君の家に、連れて行ってはくれないかな?」
「あ、はい。それなら、お安いご用で―」
尾上氏の依頼を二つ返事で了承しかけた僕は、その文言を今一度思い返して、言葉を失う。
彼の突拍子のない申し出に、秋音さんもまた、大きく目を瞬かせて絶句していた。
僕は一瞬、これは尾上氏なりの冗談なのかと疑う。しかし、上り口に置いていた下駄を履き、広間に降りる彼は、どうやら本気で僕に随行しようとしているようだった。
「あの、どのような、ご用事でしょうか? 僕に関しての苦情やご相談であれば、責任をもってこちらの保護者へとお伝えしておきますが―」
「心配しなくても、そういったことじゃないさ。ただ、君のお爺さんと、少し話をしたくなっただけだから」
僕は言葉を尽くし、どうにか断りを入れよう尽力するが、尾上氏は全くもって聞く耳を持ってはくれなかった。急かすように近くへと寄ってくる彼に、僕は咄嗟に無関係の第三者へと協力を仰ぐことを思いついた。
「あっ、そうだった! 済みません、徹さん。僕、壬ちゃんを家まで送っていく約束をしていたのを忘れていました! ですから申し訳ございませんが、ご訪問はまた次の機会ということで。それじゃあ遅くなるといけないし、早く行こうか壬ちゃ―」
か弱い女子の護衛を理由に上げれば、彼としてもここは潔く諦めるしかないはずである。
そう踏んだ僕は、尾上氏へと残念そうに顔を歪めてみせてから、後ろにいるはずの壬ちゃんを振り返る。しかし、救世主となるはずの彼女の姿はそこになく、中途半端に開け放たれた表戸が、広間の奥の本棚越しに見えた。
状況から察するに、どうやら壬ちゃんは尾上氏へと注目が集まっている隙に、この孤朧庵より一人脱出を果たしていたようだった。
「どうやら壬くんは、先に帰ってしまったようだね。これなら、君もこのまままっすぐ、家に戻れるという訳だ。改めて、君の家までの案内を、頼まれてくれないかな?」
壬ちゃんの退席を受け、再びそう打診してくる尾上氏に、もはや僕にはそれを失礼もなく謝絶する手段はなかった。
そうして、まごつくばかりの秋音さんに送り出され、なぜか僕は彼女の家である孤朧庵を、そこの主人と共に後にすることとなった。
夕暮れの家路を戻る間、尾上氏は僕からの質問を巧みにはぐらかし続け、決して訪問の意図を明かそうとはしなかった。
長い影法師を歩道に刻みながら、軽やかな下駄の音を響かせる彼を前に、僕は絶え間ない疑心暗鬼の波に襲われ続けた。
尾上氏は僕へと同行を願い出た際、『両親』ではなく『お爺さん』と話がしたいと明言していた。これは、彼が僕の家庭の内情を知っている可能性を示しており、つまりはこの僕について、既に何らかの調査を行っている事実を強烈に臭わせた。
加えて彼は、狐とのハーフであるという、前代未聞の出自を持つ秋音さんの養父である。その点を考慮すると、彼自身もただの常人ではないとする疑惑が、どうしても拭えなかった。
まさか、禁断の秘密を知った僕を、家族もろともどうにかしてしまうつもりなのか。
はたまた、嫁入り前の娘のあられもない姿を見てしまった僕に、落とし前として彼女と婚約を結ぶよう、家族を通して要求するとでもいうのだろうか。
脈絡のない思考の渦に足取りも覚束なくなりながら、僕は何とか自宅までの長く険しい道のりを踏破した。
自宅の表玄関の前へと立った僕は、本当に尾上氏を家へと招き入れるべきか迷い、背中側に立つ彼を窺いつつ足踏みを続ける。それでも、背後からの無言のプレッシャーに抗いきれなくなった僕は、遂に最終防衛ラインを尾上氏へと明け渡してしまうこととなった。
土間へと上がった僕と尾上氏を、扉の開く音を聞きつけた爺ちゃんが出迎えた。
彼は叱る時の難しい顔となって、玄関に立つ僕を諌めようと口を開く。だが、視界に僕の連れてきた客人を収めた瞬間、その唇は見事な丸を描き、底知れない驚愕を体現した。
「久方ぶりだな、宗次郎。膝の具合は、その後大事ないか?」
「尾上、様……!? 何ゆえ、このような所に……いえ、それより、なぜ蒼司と共に―!?」
常になく気を動転させる爺ちゃんに、尾上氏は気安くも親し気な笑みを浮かべる。二人が知り合いであるらしいことに当惑する僕を、彼はちらと横目で示して見せた。
「彼とは最近、偶然にも知り合いとなる機会があってな。私の娘が、色々と世話になった」
「さ、作用で、ございましたか。これは、私の孫が、とんだご迷惑をお掛けしたようで……」
「おいおい、彼には助けられたと、言っているだろうが。まあ、今日はその礼を兼ねて、あの件について相談に来た。急で済まないとは思うが、少々時間を譲ってはくれないか?」
尾上氏の発した曖昧な代名詞を耳にした瞬間、青白くなっていた爺ちゃんの顔から、更に血の気が引いていくのが見て取れた。
爺ちゃんはしばし棒立ちとなり、正面の尾上氏を茫然と見詰める。
凍り付いてしまっていた彼は、やがて固い響きの声で、僕へと中に上がるよう促した。
「蒼司、儂は今から、こちらの方と少し話がある。悪いが、話が終わるまで儂の部屋には近付かないよう、母さんにも伝えておいてくれ」
彼からの真意の掴めない申し渡しに、しかし僕は理由も訊けず、ただおとなしく頷くしかなかった。
いつも豪放磊落で楽天的な爺ちゃんが、顔面蒼白となって全身に緊張を漲らせる様は、それだけで事態の緊急性を雄弁に物語っていた。
僕は一抹の不安を抱きながら、爺ちゃんの部屋へと消えていく、二つの大きな背を見送る。
それから、母さんに無断外出のことで説教を受け、夕飯を食べてから風呂に入り、自室に戻って一息つくまでの間、僕は一刻も欠かすことなく、彼らの談合へと思いを馳せ続けた。
玄関で会ったあの時の二人は、まるで既知の仲であるかのように言葉を交わしていた。
加えて、なぜか爺ちゃんは尾上氏の前では、借りてきた猫のごとく持ち前の快活さを失い、更には年上であろうにも関わらず、一方的に敬語を用いてさえいた。
一体全体、爺ちゃんと尾上氏は、どのような間柄にあるのか。
そして、爺ちゃんをあそこまで怯えさせた『あの件』とは、どういった事案だというのか。
一寸先も見えない五里霧中の迷路の中、僕が悶々として苦悩を募らせていると、控えめなノックの音と共に、不意に母さんが部屋を覗き込んだ。
どうやら、爺ちゃんから僕へと召喚命令が出されたとのことで、今すぐ彼の部屋へ向かえとのことだった。僕は一応理由を尋ねるも、伝言役となった母さんにも、何も知らされてはいないようだった。
今、僕が考え得る全ての可能性の内、最も確率が高いと思われるのは、爺ちゃんと尾上氏が昔からの知人であり、訪問以前に連絡を取っていたとするものである。
この場合、尾上氏は秋音さんから僕の『覗き』行為を伝え聞き、それに対する苦情を保護者である爺ちゃんに訴え出た恐れがある。と、なれば、僕はこの後厳しい叱責に晒されるか、一人の男としてきちんと秋音さんに筋を通すよう宣告されるのが濃厚と言えた。
気もそぞろのまま自室を追われた僕は、一階にある爺ちゃんの部屋へと階段を降りる。
廊下の先にそびえる木製の地獄門に辿り着いた僕は、半ば開き直るように腹を据えてから、入室の挨拶を述べて扉の内へと踏み込んだ。
古式ゆかしい調度品に囲まれた和室には、掛け軸を背に上座へ腰を降ろしている尾上氏と、その向かって右斜め前に座る爺ちゃんの姿があった。
「来たか、蒼司。そこに、座れ」
腕組みをしながら渋面を作っていた爺ちゃんは、自分の正面に当たる畳の一角を目で示す。
真剣味を帯びた彼の視線に、僕は生温い生唾を呑み込み、言われた通りに着席する。その間、尾上氏は一言も発せずに、得体の知れない微笑を頬へと刻み、こちらを見詰めていた。
所定の位置に着いた僕に、爺ちゃんは深い溜息を一つ吐いた後、カッと険を含んだ三白眼を差し向ける。眉間へと深淵な断崖を刻む彼の顔面に、僕は十年分の寿命を削り取られた心地へと叩き落された。
「蒼司、お前に確かめたいことがある。今から儂が訊くことに、正直に答えてくれ」
「あの、その前に僕から断っておきたいんだけど、この場に大事な当事者がいないっていうのは、少し問題じゃないかな? 確かに、僕が秋音さんにしてしまったのは許されるべき行いではないけど、やっぱりこういうのは本人の意志も尊重するべきで―」
条件反射的に弁明を始める僕に、爺ちゃんは全く意に介することなく、強い口調でこう重ねた。
「お前、ひょっとして動物達の言葉を、人語として解しているのではないか?」
この時ほど僕は、自分の想像力がどんなに貧弱なものであるかを、明確に痛感させられたことはなかった。




