夢か現か幻か
それはあの子からの呼び出しだった。
すっかり読み飽きた英国ファンタジー小説を眺め、何となくシャワーを浴び、濡れた髪を自然乾燥させながら古いチラシを折り畳んで紙飛行機にし、窓から飛ばす。紙飛行機は上手い具合に風を切り、墓地を挟んで向かいの安い酒屋の屋根に着地した。
今日は成功だ。
少しだけ気分が良くなる。
よし、折り紙をしよう――そんな気になってきたその時だった。
『ねぇ、かみちゃんいる?』
部屋のドアから灰さんの声。
「……いるけど」
『至急の伝言があるんだけど』
「僕は今日はお休みだよ?たとえ灰さんを介してだとしても、僕はヘルプとか入んないから」
折角、することを見付けたのに、休日が台無しになる。それにシャワーに入ったばかりだし。
『エリーちゃんがかみちゃんを呼んでって』
「炎?尚更、嫌だね」
名前を聞くだけでもうんざりしてくる。
しかし、炎だけに伝言の内容は衝撃的だった。
『こうとも言ってたよ。かみちゃんが動かない時は、清ちゃんが緊急事態って言えって』
清が…………!
「最初からそう言ってよ!」
僕は荒々しくドアを開けた。
可愛い可愛い僕の清。
誰よりも何よりも大切な僕の宝物。
僕は清が待つ鳥籠の扉を開けた。暗い部屋に廊下からの光が入り、清を照らした。
毛布を体に巻き付けて丸くなり、ひたすら唸っている清を。
「清…………っ」
「清は薬の効きがいいってあれほど言ってるのに、新しい客はいっつも与え過ぎるのよね。自分のせいだってのに、使えないだの、つまらないだのって……ホント、我が儘よねぇ。これじゃ客が取れないじゃないの」
「清!」
「………………狼……」
清は顔を上げると、僕の腹に頭を擦り付けてきた。清の熱が伝わってくる。
「丁度、効きが落ちてきて、清としては頃合いだってのに、客がいない。そしたら、清があなたを呼ぶものだから、私があなたを呼んだわけ」
正確には、めんどくさがりの炎が言伝てを頼んだ灰さんに、僕は呼ばれたんだ。
僕は苦しそうに唸る清を抱いて炎を手で払う。
どっか行け。
「早く閉め切って出てって」
「何故?」
「清は明るいのが嫌いだから」
別に清は明るいことで他人に自分の体を見られてしまうのが嫌いなんじゃない。
ただ、清は自分自身を見たくないんだ。
「なら、閉めていくわ」
先ず、花柄の透かし戸が閉められる。そして、「あなたが済ませたら、清に仕事を入れるからね」と、木製の引き戸が閉められて部屋が暗くなった。
「ろ、狼……助けて……っ……」
可哀想に。
僕は薄暗い部屋で清が纏う毛布を剥がした。
「頭が、おかしくなりそうだよ……」
「怖かったろうに」
人間には理性があるからこそ、狂気と正気の境が苦痛となる。
今まさに、清の中でも狂気と正気がぶつかり、清に苦痛をもたらしていた。
「狼……狼…………俺……」
「大丈夫。今の清は狂ってるから」
「ホン……ト……?」
「うん。だから、安心して」
そうだよ。今の君は狂気に埋もれている。そう思えば、君の心は痛くならないだろう?
「……狼…………」
とろんとする清の瞳は徐々に生気を失い、赤黒く濁る。そして、僕に抱き付いた。
可哀想に……ああ、可哀想に。
「君を抱くよ……清」
「俺を抱いて……狼」
僕は目を閉じ、自らの視界を塞いだ。
もう何も見たくない。
くしゅっ。
我ながらへっぽこなくしゃみが出てしまった。
「もっと温かくする……?」
「ううん。これで十分だよ」
綺麗な炎だ。
部屋の天井を風に棚引くシルクのように滑らかな炎が揺れる。炎のオーロラとも言おうか。
彼の魔法は美しい。しかし、彼自身はこの魔法を憎んでいる。
「ご……ごめん。俺、狼に……」
「その話はしないでって言ったでしょ。僕が恥ずかしいから」
清の薬を抜こうと躍起になって汗だくになり、そのまま疲れて眠りこけたら風邪を引いたという、何とも間抜けな話はもう忘れたいのだ。
炎に散々笑われたし。
「じゃ、じゃあ、おでこの替える?」
「……そうだね。熱いかも……」
額に乗っているのかすら分からないほど温くなった冷却シートを剥がされ、清は不器用に濡れたタオルで僕の顔を拭く。そして、新しいシートを僕の額に貼り、その上からぺちぺちと音を発てて叩いた。
冷たい。
「狼……」
ひんやりとした清の手が僕の頬に触れる。そして、顔を近付けて僕の乾いた唇に濡れた舌を付けた。けれども、僕は体の向きを変えてそれを拒んだ。
「キスをしたら君にも移っちゃうよ」
キスで僕から毒を抜けるとかはできないんだよ。それにもしそれが出来たとしても、僕は君に苦しい思いはさせたくない。
今だって本当は同じ部屋にすら居て欲しくない。でも、彼にそれを強く言えないのは、僕が傍に居て欲しいとも思っているから。
「狼……ごめん……俺が馬鹿だから…………嫌だってちゃんと伝えられなかったから……」
「清は悪くないよ」
悪いのは欲に目が眩んだ変態どもだ。
欲深い変態は媚薬の類いは多ければいいとか、単純馬鹿思考を持つ。そんな質の悪い客のせいで清のように被害に遭う店子も多い。
炎には抗議しているが、質の良し悪しは見極められないと、問題を起こした客の入店を断るだけに留まっている。
しかし、店子の僕に言わせてもらえば、客の質なんて客が取る最初の行動だけで分かる。「そんなのは店子でも貴方くらいよ」と、炎には返されたが。
「でも何か……何かしたい…………」
僕の傍に居てくれるだけでもう嬉しくて堪らないのに。
けほっ……。
「咳止め飲んだはずなのに…………何で止まらないの……」
まずい。
清が不安になっている。
泣きそうな顔をする清。それどころか、泣いてしまう5秒前の表情だ。
「今のは噎せただけだよ。だから大丈夫。ね?」
「…………ほんと?」
「うん」
なるべくはっきりと返事をしたつもりだが、清は疑っている。
「…………そうだ、林檎か何か食べるもの……」
「分かった!灰さんにアップルパイ作って貰ってくる!」
ぱたぱたと勢い良く部屋を出て行く清。これで体制を立て直す時間が稼げる。
でも、途中で誰かにぶつかったりしなければいいけど。
けほっ……ごほごほっ――
「あぐっ」
灰さんに早くアップルパイを作って貰おうとしたら、何もない廊下でずっこけた。
「あら、清。随分な挨拶ね」
「え……炎様?」
「ほら、立ちなさい」
炎様が俺に手を貸して立ち上がらせてくれる。そして、俺に視線を合わせてしゃがむと、俺の着物の襟を掴んだ。
少し緊張する。
「ちゃんと帯を締めないから着物に足を引っ掛けて転ぶのよ。貴方はそれでもなくともおっちょこちょいなんだから」
炎様は襟を正して帯紐を結び直してくれた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。それよりも、そんなに急いで何をしているのかしら?」
俺の髪を指で鋤きながら訊いてくる炎様。
「あ…………灰さんにアップルパイ作って貰おうと……」
「それは狼の分ね。あの子、風邪っぴきなのにアップルパイへの食欲だけはあるのね。さ、行きなさい。灰なら食堂じゃなくて部屋よ」
ぽんと背中を押される。
「早く狼を卒業しなさい。それと……」
「?」
炎様に押されたと思ったら、今度は背後から抱き寄せられた。女性特有の柔らかさを背中に感じる。
「明日の午後は私のところに来なさい。命令よ。ちゃんとシャワー浴びてきてからね」
「…………う……」
炎様に首を強く噛まれた。
痛いし……狼が怒りそう。『君は注意力が全くない』とか言いそうだ。
「またね」
炎様はスカートを翻すと俺が来た道を歩いて行った。炎様の頭の黒いカチューシャが髪に隠れたりしている。
「また?…………あれ?そっちは俺達の部屋しかないのに……」
廊下を右に曲がり、炎様の姿は見えなくなった。
ぱたん。
「………………せぇ?」
食堂まで行ったってのに早いなぁ。あ、でも…………今日はアップルパイが食べられるんだ……。
「残念ねぇ、清じゃなくて」
「…………まさかの炎……」
ただでさえ意識もパーなのに……これではおちおち寝てられないじゃないか。
「あらまあ、大惨事。部屋が滅茶苦茶じゃないの」
清が掻き回したんだ。
僕の快適病床生活の為に自作の人形探したりして。結局、自作の人形とはティッシュペーパーで作った使用済みてるてる坊主のことだったけど。
つまり、僕の枕元で一緒に寝ているこれだ。
「えー……っと、いつまでお熱なのかしら?貴方の常連は特別しつこいのだけど?」
そりゃあ、彼らは僕が厳選した客であり、彼らのツボは僕が押さえているからだ。僕の常連は僕以外の店子には満足しない。たとえ、清にでも――自信があるんだ。
炎は僕の隣にしゃがんで頬をつついた。黒色に塗られた長い爪が僕の頬に埋る感覚がする。
「もうほっといてよ……寝かせて…………」
「ふーん。あれ、貰ってっても?」
あれ?
炎の指が浴室の方に向いている。特に清が僕から剥いだ衣服の積もる脱衣カゴに。
「人の服どうする……つもりなわけ……?」
「だから、常連さんに貴方の代わりにって。どうかしら?」
「そう……いう…………っ」
炎の嫌がらせには慣れているけど、そのイライラをぶつけようとしたら咳き込んでしまう。
「ほら、飲みなさい」
炎が僕の背中を撫で、一度治まったところで水差しを僕の口に傾けた。
寝ながらのため、水が口から溢れてしまうが、炎が器用に自らのハンカチを当てて布団に染み込まないようにする。
こんなところで気を利かせなくたっていいのに。
「ん……っく…………え、炎……さっきの……」
「分かってるわよ。貴方の汗の染み込んだ衣服なんて貴方の常連でもいらないでしょうよ。そんな汚れ物を好き好んで貰うのは清の客ぐらいね」
清を侮辱するなと言いたいが、炎の水攻めでどうにも反論できない。
でも、炎の言い分を否定もできない。清の客なら使用済みのそれらを商品としても構わないだろう。
「それにしても…………」
炎が僕の隣に腰を下ろした。
「清を引き取りたいという客が多いのよ。あの子の契約金の倍以上、いいえ、あの子が一生働いても余るお金を払ってでも引き取りたいという客がね」
僕には彼女の表情は見えない。
だけど、清は誰にも渡さない。
「許さない……清を渡したら…………」
「許さなくてもいいわよ。貴方みたいな計算ずくの常連だったら引き取ってもらってもいいの。でも、清の客は必ず清を壊すわ」
「そんなこと……したら――」
炎に口を塞がれた。彼女の冷えた瞳が僕を睨む。
怒りか憎しみの目。憎悪を感じる。
一体誰に向けたものか……。
「そんなことはさせないと言っているでしょ。清は私のものなんだから」
「うっ」
顎を掴まれ、炎に首を噛まれた。所有の証を付けられる。
「でもねぇ、問題はあの子には面倒な客が多いこと。この前も清が長期で使い物にならなくなったし。一番の稼ぎ頭に休まれちゃ困るのよ」
「なら、僕が代わりに稼ぐ。休みなんていらない。……清の為なら――」
僕の可愛い弟の為なら何だってする。風邪なんかで寝てらんないんだ。
「ダメ!!狼は休むの!!!!絶対休むんだ!!!!」
起き上がろうとしたら小さな体に激突された。
「清?」
「狼は病気なんだから寝てるの!ちゃんと治るまでは仕事しちゃいけないんだ!」
一気にまくしたててくる清。そんなに必死な顔で……。
「そうよ。客にびょーき移されちゃ迷惑よ」
清と一緒に炎まで乗ってくる。これでは起きる以前に身動き一つ無理だ。
本当に止めてよもう……。
「あと、清に移されるのも迷惑よ」
「俺は丈夫だもん!だから、狼の看病は俺がするの!」
「何言ってんのよ。あんたが一番デリケートなのよ」と、炎が清の額にでこぴんをする。反射で目を瞑った清は額を隠すように毛布に頭を押し付けた。
――だから、僕の腹の上でやらないでよ。
「それで灰には会えたの?」
「会えた。でも、風邪引きの狼にはアップルパイじゃないでしょって……」
「え!?アップルパイは!?」
食べられると思って、楽しみにしてたのに!
「お邪魔するねー。それと、かみちゃんには灰特製お粥だよー。お塩入ってるけど、お醤油とポン酢、お味噌、沢庵、野沢菜、奈良漬け、糠漬けもセットしたよ。豪華でしょ?あ、清ちゃん、テーブル用意して」
灰さんまで……今日は賑やかだなぁ。
清が起き上がり、炎が僕の腹を枕に本格的に横になる。
重い。
「ねぇねぇ灰さん、俺、奈良漬け食べたい」
「だーめ。これはかみちゃんの。でも、お蜜柑沢山持ってきたよ。エリーちゃんも食べる?」
「食べるわ」
炎がやっと僕から離れてくれ、入れ替わりに清が僕の顔を覗き込む。
「狼、起きられる?」
「…………うん。ちょっと手を貸してくれる?」
「いいよ」と、清が僕に肩を貸してくれる。その時、清の首筋に赤い痕が見えた。
……………十中八九、炎に決まってる。
「んっ…………狼?」
ムカついたから炎の噛み痕に僕のキスマークを上書きしておいた。
清は瞳を潤ませたが、幸い、炎には僕の行為は気づかれなかったようだ。
この雰囲気は何だろう?
灰さんの膝に座った清には僕の為の奈良漬けをポリポリと食われ、灰さんは清の髪を弄って枝毛を探し、炎は蜜柑を食べながら僕達の部屋を漁っている。
「これは何かしら?」
「それは俺のお客様がくれた服で――」
「清、これは没収よ」
「え……俺が貰ったのに……」
「いつの機会に着るつもりよ」
炎がガラクタ入れから出してテーブルに広げたのは女物の寝間着。シルクで出来ており、ネグリジェというものらしい。
僕が常連の女性に聞いたら多分そうだろうと言っていた。
しかし、このネグリジェはかなり透けている。その手のものだから当然だが。
「せ、清ちゃん、これは駄目だよ!見え過ぎだよ!」
「でも……タダより安いものはないよってお客様が……」
「甘い条件ほど怪しいもんはないのよ」
ま、清も忘れてたし、僕もガラクタだと思う。
そして、お粥を食べる僕の周囲で騒がしくした炎は灰さんと一緒に部屋を出て行った。
「俺の服が取られた」
「もう忘れなよ。女の人用の服だし」
「そうなの?お客様は俺に似合うって言ってくれたけど」
「いやそれは……」
もっと考えてほしい。清は何でもかんでも素直に取り過ぎだ。
「でも、狼がちょっと元気になったから良かった」
すっかり陽は沈み、代わりにそれぞれの店先の灯りで仄かにオレンジ色の空になる。
清は電灯ではなく提灯を付けて窓枠に引っ掛けて畳に足を伸ばして座った。
淡い光を反射して清の瞳がキラキラと光る。
可愛いなぁ。
「あのね、今日は楽しかった」
僕に体を寄せてくる清。こつんと彼の額と僕の額とを合わせて笑った。
「服取られたのは残念だけど、漬け物貰えたし。美味しかった」
「うん」
そんなにあのネグリジェに未練があったんだ……。
清の好みが分からなくなってきたかも。
「休んでて、狼。夕飯までにはアップルパイ作っておくよって灰さんが言ってたんだ。だから、貰ってくる」
音を立てて僕の頬にキスをし、清は部屋を出て行った。
静まり返った部屋。
窓の向こうからチリンチリンと鈴の音が聞こえる。
遠くに感じる人々の話し声。
寂しい。
僕は物が散らかる床に風車を見つけて手に取り、息を吹きかけた。
くるくる。
君が笑顔でこれを回した時の姿を思い出す。
同じ店子の皆と夏祭りに出かけたんだ。
君は食べ物でも玩具でもなくて、花火を欲しがったっけ。
だから僕はこの風車をあげたんだ。花火の代わりに。
花火には似ても似つかないけど……君はとても嬉しそうにしてくれた。
夏祭りの前日、晴れますようにと、君はこのてるてる坊主窓に吊るしたんだよね。
胸に抱いたてるてる坊主からはふんわりと太陽の匂いがした。