千の秋 7
「あ、それはダメだから」
とぼけた声が、千秋の意識を現実へと突然引き戻した。
言葉とほぼ同じタイミングで口に手が突っ込まれ、舌を噛むのを止められてしまう。
あれ?
物凄い喧噪の中で、千秋の耳によく知った人の声が聞こえた気がしたのだ。
「そんなことは、僕は教えてないでしょ?」
幻聴かと思ったのに、もう一度はっきりと聞こえて来て、千秋は目をぱちくりと見開いた。
乱れた着物の自分の上に、のしかかっている男は──糸目だった。
千秋の口に手を突っ込んだまま、もう片方の手や足で、近づいてくる他の男たちを、子どもでもあしらうように跳ね飛ばしている。
「ふぇ、ふぇんふぇー(せ、せんせー)」
これは、夢なのだろうか。
いや、もしや既に千秋は舌を噛みちぎっていて、死んでしまっているのかもしれない。
だから、菩薩が先生の姿を借りて、自分を迎えに来たのかも。
「よしよし、よくぶっとばしたね。そのまま、少し待ってなさい」
ようやく口から手を抜いて、彼は千秋の上からどいてくれた。
「てめぇ、どこから来やがった!」
刃物や槍まで持ち出してきた男たちに囲まれて、先生はにこにこと笑っている。
「あ、それいいね」
男たちの輪など、まったく興味もなさそうに、彼は足を踏み出すと、自分に向けられていた槍を、何ともあっけなく奪ったのだ。
その次の瞬間。
床に転がっていた千秋は──見た。
いや、見えなかった。
目にも止まらないほどの速さで、先生が槍を一閃振りまわしたのだ。
いくつもの男の身体が、まるで物干し竿の洗濯物よろしく吹き飛んで行く。
先生は、武道の心得があるのだと、千秋はずっと思っていた。
だが、そうではないと分かった。
彼は、槍だろうが刃物だろうが、どんな武器も筆より簡単に扱うのだと。
投げられる小刀を掴んで簡単に投げ返し、男たちの身体に的確に突き立てていく。
的確に。
それは、眉間であったり、喉元であったり。
要するに。
確実に、人の死ぬ部位を狙っているのだ。
先生は、千秋に人のぶっとばし方は教えた。
急所も教えたが、刃物の使い方は教えなかった。
ぶっとばすことは教えても、人の殺し方を教えなかった男は、容赦なくその手を汚していく。
ばたばたと倒れる男たちと、笑顔の殺戮者に脅え、逃げ出す男たち。
生きて残っているのは、先生と自分と姉と──泡を吹いて倒れたままのヒキガエルだけとなった。
「いい、ぶっとばしだったよ」
槍を放り出し、へたりこんだままの千秋の前に、先生が膝を折って覗き込む。
ついさっきまで、笑みのまま簡単に人の命を奪って行った男。
だが。
屍累々な残虐な空間の中でも、千秋にとって何も変わらない糸目先生に見えたのだ。
「何で……来たんですか?」
また、助けられてしまった。
気持ちよく、死ねる瞬間があった。
先生を思い出しながら、先生にもらった着物で、この世を儚むでもなく充足して死ぬことが出来る時間が、すぐそこにあったのだ。
なのに、それを邪魔した目の前の男は、少し猫背になりながら顔を突き出してこう言った。
「そうだねえ……気持ちよく死なせたくなかったからかなあ」
まるで、千秋の心を読んだかのような言葉だった。
んーっと座ったまま、大きく伸びをした糸目先生は、姉に気づいたようで視線を向ける。
「しばらく新しい長は来ないだろうから、家に帰るといいよ」
千秋の姉だとは知らない彼は、優しくそう言った。
彼女はおどおどしながら、まだ生きているヒキガエルを見る。
「ああ、そうだね」
糸目先生は立ち上がって、男の方へと歩み寄った。
「とりあえず、ここはつぶしとこうか」
ひょいと持ち上げた足。
ズダーン!
その気軽さとは裏腹の大きな衝撃が、部屋を揺らした。
先生の足は、ヒキガエルの股間に炸裂していて。
千秋も姉も、そのすさまじい光景に、あんぐりと口を開け放ってしまった。
「さて」
その口を閉じきるより前に、糸目先生がこっちを向いた。
「僕はきっとお尋ね者になっちゃうから逃げるけど……君はどうする?」
ふわふわと軽い言葉。
お尋ね者になるということは、不幸の始まりのように感じるのに、彼にとってはそうではないようだ。
旅に出るくらいの気楽さだ。
彼がお尋ね者になるというのならば、原因をつくった千秋だって同じこと。
死に損なったのだから、生きる方法を探さなければならない。
生き残った先にあるのは、野垂れ死に。
そう考えていた千秋の目の前に──糸目先生がいる。
「わっ……私も一緒に逃げて……いいんですか?」
誘ってくれているような、気がした。
その一縷の望みに、彼女は反射的に手を伸ばす。
先生は。
そこらの男の下敷きになっていた千秋の髪を止めていた木の枝のかんざしを拾い上げ、ぼろぼろの彼女の髪に差してくれた。
「じゃあ、一緒に逃げようか」
にこり。
「はい!」
差し出される大きな手を握り、千秋は立ち上がって着物の乱れを直した。
「千秋……」
姉が、何か言いたげに呼び止めた。
先生の手を握ったままの彼女は、振り返って幸せな笑みを浮かべて見せる。
逃亡者になるはずなのに、いま、自分が世界で一番幸せな人間に思えたのだ。
「みんなによろしく言っといて」
そして、千秋は村を出た。
前に出た時と違って、一人じゃなかった。
大きくてあったかくて、そして残忍な手を持つ人と一緒なのだ。
そんな人と一緒なのだから。
鬼が出たって──怖くなかった。
【千の秋編 終】