嘘と本当の隙間 4
地史は脛の痛みも感じさせずに立ち上がって、春一と向かい合う。しかし、まったく痛みが残っていないはずがない。そんな状況であったとしても、弱いところを見せることなく春一の前に立つ。
地史は身体が春一より大きいせいか、正攻法に近い、しかし思考を巡らせた動きで彼に迫った。春一はそれを身軽な動きでかわす。地史は、皮一枚で避けた春一の着物を掴んだが、一瞬にして春一が諸肌脱いでその力の流れに水を差した。
滑稽にも見える、しかし見事な攻防が流れ、止まり、ぶつかりあう。
水と風がぶつかっているように、千秋には見えた。どちらも強くなることも弱くなることも出来る。小さくなることも大きくなることも出来る。分かれ、再びつながることも出来る。
柔軟で、多くの経験と臨機応変な思考に裏打ちされた、究極の追いかけっこ。
地史と千秋が戦った時よりも、地史は活き活きとしているように思えた。彼の身もまた、これまでの春一の教えを骨身に刻んでいたのだと千秋には分かった。
何と羨ましい光景かとも思った。まだ、千秋は地史に届いていないことが、ありありと分かってしまう。
そうしている内に多くの時間が費やされ、東の空は明るくなり始める。千秋の後から厩舎に向かう馬丁見習いが彼らの戦いを目撃するや、すぐさま屋敷に取って返し、馬丁やら野次馬を連れてきてしまうところから、この戦いは終わりの道をたどった。
「何やっとんですか、地史様!」
松露の登場が、トドメだった。万人隊長の酒で枯れた大声は、おそらく敷地中の人間の耳に届いたことだろう。皇帝にこの口調で済むのは、同じ騎馬族であるおかげか。
「春一も、何をやっとるか」
近かったならば、春一の頭さえもどつきかねない勢いで、松露は彼も叱責する。そのままドスドスと大きな足取りで、二人の間に割って行った。
「しょうがないでしょ、『女』の奪い合いは、昔からこうと決まってるんですから」
とぼけた表情と口調で、春一はそううそぶく。千秋は苦笑いさえ浮かべられなかった。すぐさま、松露のきつい視線が、突っ立っている彼女にすっとんで来たからだ。
「地史様は、うちの牡丹に会いに来たと思ってましたがね」
厄介者を見る目で千秋を見たまま、松露が言葉だけ地史に向ける。
「会うたぞ……そして抱いた。牡丹は、良い女だ」
「それはどうも」
実の父親の前で、地史は平然と床の話をする。そんな彼に慣れているのか、松露もまた右から左に皇帝の言葉を簡単に流した。
「大体、余がこんな小娘を相手にすると思うか? 妻にするなら処女に限るが、戯れに抱くなら処女は面倒だ」
そんな言葉を、地史は彼女に向かって投げつけた。ひどい言葉だと、千秋は思った。ここには多くの騎馬族の野次馬がいて、そこで地史はこう宣言したのだから。
千秋は処女だ、と。
それは、ただの事実に過ぎない。しかし、同時に彼女が本当の意味で春一の愛人ではなかったことが朝日の下に晒されてしまう。
ああと、千秋は嘘の終わりを知った。周囲から向けられる「春一の女」という視線で、彼女はこれまで嘘の鎧を纏うことが出来た。嘘という脆い鎧らしく、一瞬にして粉々に砕け散ったのである。
「何だ春一、手もつけてなかったのか?」
不甲斐ねぇと言わんばかりに、松露が春一に言葉の土くれを投げつける。
春一の表情は変わらない。真意を見せない糸目のまま、だが、彼はこう言った。
「いいえ、千秋は僕の『女』ですよ……何度抱いても処女のように恥らって可愛いのは事実ですけどね……大体、僕が千秋を抱かない理由なんてないじゃないですか」
唇に笑みをたたえて、春一は宣言する。千秋の口元が、綻ぶ瞬間でもあった。
壊れた嘘の鎧の代わりに、新しい嘘の鎧を彼女に着せ掛けてくれるのを彼女は感じた。いつだって春一は、千秋に着るものをくれる。
処女と言う地史、処女ではないと言う春一。
どちらが正しいかなど、周囲に分かりはしない。地史でさえ、確信に近い推測で語っているに過ぎない。それを証明する手段など、彼女を抱く以外にないのだから。
そして今、この世界でその権利を持つのは春一。彼の言葉が本当であるかどうかは、春一と千秋だけが知っていればいいこと。馬鹿正直に、周囲に教えてやる必要はない。
二人の秘密──浅はかな千秋の女心に、その言葉が甘くのしかかる。綻んだ口元に気づき、彼女はぎゅっと唇を力を込めて閉じる。
そして千秋は思った。
もし先生に抱かれる日が来たとしても、きっと自分は恥じらいはしないだろう、と。求められる喜びに、己の身を簡単に差し出してしまうに違いないと。
それを知るのもまた、春一だけでいい。
その日が本当に来るかどうかは別として、千秋は口をぎゅっと閉ざし、大勢の人間の前で平然と嘘をつく春一を、ただ信じて見つめていればよかった。
そうして、嘘と本当の隙間に立った松露がこう言ったことで、全ては終わる。
「くだらねぇ……」
まったくもって、その通りだった。
※
「荷造り、終わったかい?」
「そんなものはありません」
これまで春一と過ごした部屋で、千秋は彼の帰りをただ待っていた。春一にもらった着物と春一にもらった袴こそが、彼女の持ち物だ。他は、全て置いていったとしても、千秋は何の後悔もなかった。
地史とやりあった翌朝、千秋はここを出て行くことになった。彼女の存在が面倒になった松露に、「お前、もう出てけ」と言われたからである。
地史は、既に昨日の昼には都へと帰って行った。結局、千秋はまともに地史の顔も知らないまま別れたが、そんなことは大事なことではなかった。
馬丁見習いの仕事に心残りこそあったが、それも一番大切なものではない。だから千秋は、春一に向き直ってこう言ったのだ。
「私にさらわれてくれますか?」
「喜んで」
そして二人で、松露の屋敷を出る。もはや、千秋は松露に挨拶さえ出来なかった。既に雇用関係は切ってあり、会う必要がないと思われたのだろう。これまでの礼ひとつ、千秋は言うことが出来なかった。
屋敷を出ると、千秋に馬の知識を数多くくれた馬丁が立っていた。そろそろ引退してもおかしくない老人ではあるが、彼が入るだけで厩舎の馬たちの気配が和らぐ、熟練の馬丁である。
「お前さんが騎馬族の男でなかったのが残念だよ」
それだけ言って、馬丁は屋敷の中へと戻って行った。彼なりの見送りの言葉だったのだろう。
そんな老人の背に向かって、千秋は深々と頭を下げた。相手が見ていようがいまいが関係はなかった。彼の教えは、確かに彼女の血肉になった。馬という生き物に対して、馬丁は嘘はつかなかった。
嘘と本当の隙間で生きている千秋は、それを己の身体でしっかりと感じていたのだ。
「馬丁としては、最高の褒め言葉だろうね……僕は同じ意見じゃないけど」
頭を上げると、隣の春一が苦い笑みを浮かべていた。珍しく、千秋にも表情が分かった。
「千秋が男でなくてよかった……さあ行こう」
手を、取られる。
驚くほど簡単に自然に手を握られて、彼女は春一の横を歩いていた。
千秋は、何から反応していいのか分からなかった。言葉と手の両方に、春一の気持ちが潜んでいる気がしたからだ。
「それは……私が『女』でよかったということですか?」
千秋は、同時に両方に応えようとした。握られた手を握り返し、春一にそう問いかける。
「そうだね……千秋が本当に『女』でよかった」
朝焼けの空を見上げながら、彼が言葉を紡ぐ。彼女は横にいるというのに、春一は上を見るのだ。
「私は……春一先生の『女』です」
だから、彼女はうそぶいてみた。嘘と本当の隙間にいる人間らしく、春一の真似をしながら、彼の気を引こうとした。
視線が。
春一の視線が、空から降りてくる。
ゆっくりと横の千秋を見下ろすその糸目の中の感情は、いまの彼女にはよく分からない。
「それは、光栄だね……でも、その言い方じゃ満点じゃないな」
歩きながら、しかし彼はぼそりと言葉を付け足した。何か足りなかっただろうかと、千秋は一生懸命思考を巡らせるが、答えには行き着かない。
「女なら、そろそろ『先生』はやめようか……ああ、呼び捨てにはしなくていいよ。僕は、千秋に『春一さん』と呼ばれたいけど……出来るかい?」
答えに行き着かないはずだと、千秋は彼の言葉に納得した。男と女の世界を、千秋が詳しく知っているはずがなかった。そんな訓練は、これまでしたことがなかったのだ。
新しい課題に、千秋は真正面からぶつかることになる。
しかし、難しい話ではなかった。
春一がそう望むのであれば、そう呼べばいいのだと。呼び方を変えたところで、彼が先生である事実は、千秋の中から消えるはずもない。
「はい、春一さん」
簡単に春一の出した課題を乗り越えた千秋を、しかし彼は少しの沈黙と共に見下ろす。
「うーん……満点はあげないよ」
「何が足りないんでしょう?」
「自分で答えを探すといいね、時間はたっぷりある」
春一の言葉に、彼女は一生懸命考え込んだ。しかし、その答えを千秋がこの時、掴み取ることは出来なかった。男と女の世界の深さは、千秋の足では届かないほどだったのだ。
彼が求めていたものが分からなくても、再び二人きりの旅路は始まる。
「春一さん」と呼ぶ以外、これまでと何ら変わらない旅路になると、千秋は思っていた。しかし、その想像は少し違った。
「千秋、次は都へ行ってみるかい?」
「春一さんと一緒なら、どこへでも」
前よりも自分が春一に近い場所にいることを、肌で感じる旅になったのだった。
『嘘と本当の隙間 終』
『馬丁編 終』




