千の秋 6
千秋は、家には寄らなかった。
これからやることが、自分の家に迷惑をかけることになるのは分かっていたからだ。
こんな綺麗な姿を知る者は、村にはほとんどなく、彼女は遠巻きな村人たちの視線を感じながら、村長とは口が裂けても呼びたくない男のいる屋敷へと足を踏み入れたのだった。
この辺では見ない、きちんとした身なりの女に、屋敷の男たちは多少引き気味に見ている。
正式な客人だと、勘違いしているのかもしれない。
「長さんに、お話があるのですが」
これほどすんなりと入れるとは思っていなかった千秋は、またも先生に感謝することになる。
たかが着物一枚。
たったそれだけの違いで、自分に対する扱いが何もかも違うからだ。
どんな風に、彼女の言葉が奥へと伝えられたのかは分からない。
だが、『綺麗な着物を着た、若い女が訪ねてきた』という事実だけでも、あの男は食いつくだろう。
でなければ、女を差し出せば税を減免するという、馬鹿げたことを言うはずなどないのだから。
そんな彼女の予想は、幸いなことにその通りだったようだ。
通された座敷では、脇息にもたれ女を横抱きにした、ヒキガエルみたいに太って醜い男が待っていた。
しゃんと立つ、千秋を上から下まで眺めた後、いやらしい舌なめずりをしている。
同時に、千秋も見たのだ。
男に抱かれている女が、青ざめていくのを。
彼女には、分かったのだろう。
自分が、誰であるか。
何しろ、そこにいた女は── 子どもの頃からずっと一緒に暮らしてきた千秋の姉だったのだから。
大丈夫よ、お姉ちゃん。
いまの姿を、千秋に見られたくなかったのと、どうしてこんなところに来たのかと、理解出来ずに混乱しているのが分かる。
いまの姉は、憐れまれることも望んでいない。
それどころか、女として屈辱の生活を送りながらも、死ねないでいる自分を憎んでいるようにも見えた。
死ねなかったのは、千秋も一緒だ。
ただ、彼女は運がよかった。
糸目先生と出会え、幸せな記憶が積み重なったのだから。
こんな幸福な娘は、きっとこの村では自分だけだろう。
「別嬪さんが、何の用かな? いや、用などなくてもいいのだがね」
姉を押しのけるように、男はこちらへと身を乗り出す。
田の畔で、ゲコゲコ鳴いている方がお似合いだろうに、この男は人の言葉をしゃべるのだ。
待ちきれないのか、すぐに立ち上がり、ニヤニヤ笑いながら千秋へと近づいてくる。
千秋は、ぺこりと頭を下げた。
「ぶっとばしに来ました」
先生のような糸目になることは、彼女には難しいだろう。
それでも、精一杯の恩返しを込めて、千秋は目を細めて笑みを浮かべたのだ。
「え?」
男の驚く顔を間近でみながら。
千秋は、男の喉仏めがけて拳を、ぶちかましたのだった。
完全に虚を突かれてモロにくらった男は、ぐらぐらする頭の揺れと急所の攻撃に耐えきれないように、どすんと大きな音を立てて昏倒する。
一瞬だけ。
その場には、静寂が広がった。
姉と、目が合う。
にこっと、微笑んで見せた。
「ちあ……」
姉が、自分の名を呼びかけた時。
「何だてめぇぇ!」
控えていた男たちが、その場に飛び込んで来た。
振り出された拳を掴んで投げる。
先生に比べたら、何て遅くみっともない動きなのだろうか。
思わず、千秋がおかしくなるほど、彼らは美しくはなかった。
ああ、先生。
ころころと男たちを転がしながら、山にいる彼のことを思った。
千秋は、やりました。ぶっとばしましたよ。
ふふふ、あははと笑いがこぼれる。
心の底から、爽快な気分だった。
山の空気の中にいるように、すがすがしい呼吸が身体の中で繰り返されている。
だが、それは長くは続かない。
転がされた男が、彼女の足を掴んだ。
その男の足を踏んで逃れようとしたが、もう片方から別の男にはがいじめられる。
多勢に無勢。
ついに千秋は、完全に動きを封じられてしまった。
なのに、彼女は自分がにこにこしていることに気づいた。
まるで、先生が心の中にいるかのようだ。
「このアマ!」
首がもげるかと思うほど強く、ひっぱたかれる。
髪を掴まれ、せっかく木の枝で作ったかんざしが、床に落ちていくのが見えた。
大丈夫。
痛いけれど、怖くはない。
もらった着物が、乱暴に引っ張られる。
多くの雑音が、自分の周囲で繰り広げられているが、もう何も耳に入ってはいなかった。
あらわになった自分の片方の胸のことなど、もうどうでもよかった。
あと必要なのは。
最後のひと跳びだけ。
千秋は──舌に歯をかけようとした。