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春と秋~大神来国の少女  作者: 霧島まるは
馬丁見習い編
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嘘と本当の隙間 3

「春一を見ているようだな」


 地史は、少し笑った気がした。少なくとも、千秋の耳には、そう聞こえた。


「いいえ、私ではまだ全然春一先生には及びません」


 謙遜でも何でもなく事実。そしてその事実は地史も十分、分かっているはずだ。本物は、こんなものではない、と。


 互いの思考が読めるというのであれば、千秋は地史の思考の先を読まねばならない。そうしなければ、彼女が地史に勝つことは出来ないことは重々理解している。勝てないならば、逃げるしかない。その選択を、千秋はいま両足を踏ん張って思い巡らせていた。


「こうして無駄口を叩いている間にも、次の手を、生き延びる道を考えている。春一は、誰よりも命根性が汚い男だった」


「春一先生の話をしながら、次の手を考えて逃げ道をふさごうとしているんですね。先生は、誰よりも頭のいい人です」


 ジンジンとしびれる腕と左肩。両足と身体の中心が無事であることを考えれば、少しの隙をついて逃げるのが、千秋にとっては最良の策。だが、それは向こうもよく分かっている。


「色仕掛けのひとつもしてみればいい。春一は、余にはそれは教えていない……虚をつけるかもしれんぞ」


「そんなものは教わっていません。春一先生にとって私は『女』ではありません」


 互いに睨み合い、互いの唯一の共通の話題である「春一」という男について語る。「春一ならこうする」「春一先生ならこうする」を、脳裏にいくつもよぎらせながら、かの男の幻影を互いの背後に見るのだ。


「女ではない? ははっ、そうか……確かに余にとってお前は『女』ではない。だが違う。春一にとってお前は……まごうことなき『女』だ」


 地史の言葉は、千秋の意識に空白を作ろうとした。何を言われているのか、一瞬分からなくなりかけたのだ。それをすぐさま振り払い、千秋は強く地面を踏みしめた。


 地史の言葉ごときで心乱されるようでは、とても春一には届かない。彼の言葉が、本当であるかどうかなど、いまは何の関係もありはしない。それは地史の言葉に過ぎず、春一の言葉ではないのだから。


「何だ小娘……『男』としての春一を知らんか。だから小娘のままなのだ」


「『男』としての春一先生を知らないのは、あなたも同じでしょう」


 性の差の大きさというものを、千秋は感じていた。地史は『男』であり『オス』である。それを隠すこともしない。だからこそ、『女』に『メス』であることを求めるのだ。


 その性の差を、千秋の泣き所と思ったのか、地史は薄く笑うようにこう言った。


「馬鹿め……余に女の抱き方を教えたのは、誰だと思っている」


 その衝撃の発言に対する千秋の気持ちは──やはり『馬鹿め』だった。


「女の抱き方も習わなければならないほど、春一先生に大事に育てられたのですね」


 それは、まごうことなき皮肉。


 いまでこそ、千秋にさえとぎを申し付けようとするほど節操のない男のようだが、最初はそんなおぼつかない可愛いところがあったのかと、目の前の男に突きつけたのだ。


 言葉を突きつけながら、腕の痛みはともかく痺れが少し取れたことを千秋は感じていた。


 地史が狙ってくるとしたら、動きを封じるための下半身か、一撃で意識を吹っ飛ばせる首から上。だが、千秋は決めつけることはなかった。相手は、彼女より力があり背もある男だ。どこであろうが、まともに一発くらえばただでは済まない。


 千秋は、じりと草履の足を踏みしめ、足場の確認をする。


 もはや──逃げる気はなかった。


 少なくとも次の一撃までは。


「余を怒らせたつもりか?」


 すぅっと、地史の身体が千秋に向かって動く。


「いいえ、羨ましいと思っただけです。春一先生に可愛がって育てられたんでしょうから」


 ひゅうっと一陣の風が、決して広くはない二人の隙間を通り抜けた。



 ※



 繰り出された地史の拳は、潔いほど純粋に彼女の顔面を狙ってきた。千秋が何かを狙っていようが、対応出来ると考えているのだろう。


 力の差のある男と真正面から殴りあえない分、千秋の方が不利なのは最初から分かっている。


 だから彼女は──後方に回転した。


 馬の軽乗を覚える際、彼女はこれまでより身体を柔らかくするための鍛錬をした。その背の柔軟さと跳躍により、千秋は曲芸のような後転が出来るようになった。


 冷たい夜明けの地面に両手をつき、強く身体を跳ね上げ再び立ち上がる。


「逃げたつもりか?」


 そんな曲芸で、地史から距離を取れるとは思っていない。そんなことは分かっている。すぐ目前に迫る男を前に、千秋はもう一度後転しようとした。


「二度同じことをするのは……」


 足が真上に上がったところを、千秋は地史に捕まれる。


 それは、分かっていた。


 地史が掴んだのは千秋の右足。


 彼女はそこから身体に逆の力を加える。空いている左足の踵を、そのまま地史の顔めがけて叩きつけようとしたのだ。


「それも分かっている」


 左足も捕まれた。


 それも、分かっていた。


 千秋は、両腕の力を抜いた。自ら、地史に逆さまに吊り下げられる形で、空いた両手を彼の両足に伸ばしたのだ。


「分かっている、蹴るぞ」


 顔目掛けて、地史は彼女を蹴りつけようとした。


 知っていた!


 千秋はもう一度その脛に両手をつき、相手の蹴りの勢いも加えて自分の身体を振り子のように大きく跳ね上げた。


 そして、両手で千秋の足を掴み、片足で彼女を蹴ろうとする男を支える唯一の足を戻ってくる身で狙う──フリをした。


「いつまでも、持ってやると思うな」


 千秋の足首を掴んでいる両手が離された。蹴鞠の球のように、もう一度蹴り出される足めがけて彼女を落とそうとする。


 千秋は。


 その足に。


 肘から落下した。


 肉の薄い男の脛めがけて、己の身をしたたかに地面に打ち付ける覚悟を持って体重を乗せた硬い肘で挑んだのだ。


「……!!」


 互いにうめき声ひとつあげず、もんどり打って地面に倒れる。


 骨と骨のぶつかり合った痛みと、地面にしたたか背中を打ったため、千秋は一瞬呼吸が出来なくなる。


 起きろ、起きろ起きろ。


 彼女は、必死に自分の身体を叱咤した。手ごたえはあったのだ。肘と脛。たとえ痛みが同じでも、移動に障害が出るのは間違いなく後者である。となれば、千秋は立ち上がりさえすれば逃げられる。


 そう自分を励まし、彼女が身体を起こそうとした時。


「何故、最初に逃げなかった」


 着物の襟首が捕まれ、千秋は地面に仰向けに引き倒されていた。


「こんな相打ちまがいの真似をしても、生きる確率を下げるだけだ。まだ最初に逃げておけば、やりようもあったろう」


 地史に、組み敷かれる。それこそが、千秋の肘が確実に彼の脛に決まった証でもあった。足を思うように動かせない劣勢を、こうすることで覆したのだ。


 膝を踏まれ、両手首を押さえられ、挙句の果てに己の額で千秋の額を強く押し付ける。


 頭突きひとつ、千秋にさせる優しさは、もはや地史にはないということだ。


 暗がりでもはっきりと分かる、彼の目の中の黒。決め付けない、しかし強い色。その瞳は、まだ千秋が何かやらかす可能性を考え続けている。


 ふぅと千秋は息をした。ようやくにして衝撃が収まり、次第に彼女の思い通りに戻ろうとしていたのだ。そのためには、呼吸を落ち着ける必要があった。


「戦いたかったんです……あなたと」


 これまで、ただの一度も会ったこともない男を、千秋はまるで誰よりも知っている気がした。話をしている間、戦っている間、彼女はそれを感じ続けた。


「余の命が目的ではないだろう」


 千秋の考えを、簡単に地史が論破する。


 ええ、ええと彼女は心の中で呟いた。


「あなたを超えなければ、春一先生の向こう側は見えませんから」


 だからこそ、千秋は地史に挑んだ。いま己が、どれほど春一に近いのかを知るためには、この男ほど相応しい敵はいなかったのである。


「余を踏み台にしようとしたな」


「はい」


 ぎりぎりと額に力がこめられ、千秋は後頭部を地面にめり込ませた。


「だが余が勝った……命を獲られるのがよいか、女を獲られるのがよいか?」


 生殺与奪の権を握った男が、二つの選択肢を千秋に差し出してくる。


 こういうところにも春一の匂いを見つけ、彼女はおかしくなった。本当に身じろぎひとつ出来ないというのに、一撃も返せないというのに、たまらなく愉快な気持ちになったのだ。


「では、女を獲るといいでしょう」


 千秋は、ためらわなかった。二つの内のひとつをがっしりと掴み、地史に突き出したのだ。


「……何を考えている」


 しかし、それに地史は簡単に食いつかなかった。怪しむ色をたっぷり含んだ声と目で彼女に探りを入れる。


「おそらく、あなたと同じことです」


 分かっているのだ。


 地史だって、ちゃんと分かっている。彼の出した二択の一つには、大きな罠が仕掛けられていることを。


 ここで強情に「命を獲れ」という女であれば、生きるに値しないと思っていたに違いない。


 それが分かっていたからこそ、千秋は「女」を選んだ。


「犯すぞ」


「どうぞ」


 間髪入れない言葉のやり取りは、とても男と女のものではない。ましてや、雄と雌のものであるはずがなかった。


「あなたが私を『女』として獲るというのであれば……順序が違います」


 千秋は──笑っていた。


「そういうことだよ、地史君」


 千秋を組み敷いている地史のもっと向こうの暗がりから、一人の男がのどかに近づいてくるのが分かったからだ。


 春一、だった。


 千秋は、彼の愛人である。


 それがたとえ、名前だけであったとしても、この騎馬族の中では揺ぎないもの。女として千秋を獲りたければ、地史はまず春一と戦わなければならなかった。


 ただの命の奪い合いであれば、春一はこの戦いに関与しなかったかもしれない。たとえ、それで千秋の命が危なくなろうとも、だ。


 だが、地史は選ばせた。


 おそらく、分かっていて選ばせた。春一に学んだ男が、そんな迂闊なことを自分からするはずがない。


 千秋を試したのだとすれば、最初に彼女が逃げなかったことと同じ意味を持つ。


 千秋は最初に逃げなかったことで、生きる確率を下げた。地史は最後に選ばせたことで、彼女を殺す確率を下げた。


 おあいこだと思いかけたところで、千秋はその考えが浅はかであったことに気づく。


「……」


 地史の手が、無言で千秋の着物の袷にかかり、ぐいと両側に押し開いたのだ。冷たい気に晒される、千秋の「女」の身。


「はい、地史君、そこまで」


 既に春一の声は、地史の真後ろに。千秋はいまだ額を押し付けられているせいで、その姿を見ることは出来ないが。


「素直に言っていいんですよ、地史君。千秋をダシにしないで……最初から僕と戦いたいって」


 笑う春一の声。


 そうだと、千秋も気づいた。地史が千秋と戦ったのは、結局前座に過ぎない。春一を先生と呼ぶ彼女が、どの程度の腕かを計るに過ぎず、結局地史は──春一と戦いたかっただけなのだ。


 昨日、千秋に伽を申し付けたことさえも、ただ春一を挑発しているだけだったのかもしれない。


「そろそろ、なまり始めているんじゃないか?」


 額が離れていく。身体中が、地史という男から解放される。


 もはや、彼は千秋など見てもいない。


 地史はただ振り返り──春一と対峙したのだ。



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