嘘と本当の隙間 2
結果的に、千秋はここから出て行かずに済んだ。
彼女にさらわれてくれるという春一の言葉に、千秋は心から喜んで、「では」と地史に別れの言葉を言おうとしたら、「騎馬族でなければ女でもないか、ならもうよい」という答えが返ってきたのだ。
千秋だって、最初から分かっていた。地史という男が、本当に千秋が欲しくてそんなことを言っていたのではないことくらい。
そこにあったのは、せいぜい興味程度のものだろう。もしくは、春一に対する嫌がらせのようなもの。女に関しては、恨みのひとつも持っているようだったので。
しかし、権力者の気まぐれは、ほんの腕の一振りが暴風になることがある。千秋が春一と出会ったきっかけもまた、その暴風被害のひとつだった。良い気まぐれが起きたからといって、感謝することもないし警戒を解くこともない。ただそれだけだ。
「地史君は、牡丹をつまみ食いに来たんだよ。まあ、松露にも話があったんだろうけど」
上空では強い風が吹いているのか。雲が飛ぶように流れる夜空の下、千秋は春一と縁の端に座って話をしていた。遠くからは、宴会の声が聞こえてくる。
誰あろう騎馬族の長にして、この国の皇帝が現れたのだ。この屋敷にいる者全てがそちらに駆けつけているのか、この住まいの棟には誰も通りかかりもしない。だからこそ、こうして縁に座って話も出来るのだが。
間もなく地史に嫁ぐ万人隊長である松露の娘、それが牡丹だ。おとなしく待っていれば、間違いなくその手に出来る女を、地史はわざわざもぎ取りに来たという。その行為は、騎馬族らしいといればらしいのかもしれない。与えられることより、奪うことに特化した種族の血がなせる業なのだろう。
そんな騎馬族の長の話を、千秋は春一の口から聞かされる。それはどこか、春一そのものの話につながっているような気がして、彼女は目を伏せながら聞いていた。
宴会に行かなくていいのかと、千秋が彼に問うことはない。行きたければ行く、必要なければしない。春一が自分で選択をして、いまここにいることは、彼女もよく分かっていたし、その感覚は千秋にもまた染み付いていた。
ただ、それを嬉しいと思うかどうかは、また別の話である。この世の中が不公平で出来ていることを、彼女はよく知っている。不公平は、受ける立場によって良い意味と悪い意味がある。いま春一がここにいるということが、千秋にとって悪い意味の不公平であるはずがなかった。
だから、彼女はその不公平を甘美なものとして享受する。そしてそれは、「先生をさらわなければならない」と言った時と、同じ恍惚の色をしていた。
千秋は、自分がだんだん「女」になっていく感覚をはっきりと味わわされている。いままさに、だ。
春一を「欲しい」という熱情と、「どうやって獲るのが正しいのか」という思考が、同時に彼女の中にはあった。騎馬族の中で暮らしているおかげか、千秋は貪欲という感情を覚えつつある。
千秋は、春一という人間に飢え始めているのだ。
「千秋、どうかしたのかい?」
彼女が、だんまりであったことが気になったのか。春一に呼びかけられ、彼女は伏せていた瞼を上げながら、隣に座る男を見上げる。夜空を流れる早い雲は、時折ちらちらと半分ほどの大きさの月を見せてくれた。いまちょうど、月明かりが縁に差していたおかげで、千秋は糸のように細い春一の目をきちんと見ることが出来た。
ああ、まだだと思った。
その糸目は意図を見せず、千秋に物を考えさせようとしているのだと。
「『騎馬族でなければ女でもない』と言われました」
だから、千秋は地史が自分に向けて放った言葉を、手元に引き戻した。何気なく言われたようで、実はずっと彼女の中で引っかかっていた言葉。
騎馬族は騎馬族を大事にし、女を戦利品とする。
千秋は、大事にする価値がなく、そして戦利品としての価値もないということだ。
それは、「捨て置く」という意味にも聞こえる。関与しない、どうでもいい、興味がない。それらの言葉は、ある意味好意的解釈と言えるだろう。
縁から下ろしている足を、彼女は軽く前後に動かした。
だが、千秋は春一に関すること以外、好意的解釈でものを考える性質ではない。
「春一先生、もしあの人が、私を騎馬族でもなければ女でもないと思っているのであれば……」
彼女は、その後の言葉をまとめるのに、少しばかり多くの時間を必要としたのだった。
※
朝一番。
いや、朝というのもおこがましいほどの真っ暗な空の下、千秋は今日も厩舎へ向かっていた。
そんな彼女の耳元を、ヒュッと鋭い音を立てて何かが掠める。普段では決してありえない事象に、しかし千秋は足を止めなかった。
その足で、木の陰に隠れなければならなかったためだ。そうでなければ、次に「投げられるもの」が当たってしまうかもしれなかった。
斜め前方から飛んで来たのは──おそらく小石。
それは勿論、千秋を狙ったものだと彼女は確信していた。
「外れたか」
残念そうな響きもない声が、暗がりの向こうから発せられる。わざと、その声を千秋に聞かせているように思えた。いま、彼女に石を投げた人間が、一体誰なのかを知らしめるために。
それは、聞き間違いようのない地史のもの。
この国の皇帝ともあろう男が、千秋に向けて石を投げたのである。その人間臭さは、しかし千秋に笑みを浮かべさせはしなかった。彼女は、自分を落ち着かせるために多くの時間が必要だったからだ。
呼吸音ひとつ響かせないように、ゆっくりと息をしながら、彼女は木の陰から前方を見た。声のした方に目をこらすが、暗すぎてどこにいるのかよく分からない。
そして同時に、もはやそこにはいないのではないかと、千秋は疑った。自ら声を出したというのは、相手を騙すためのひとつの戦法ではないかと思ったのだ。
ということは。
向こうもまた、石が当たらなかった千秋が、そのままどこかに身を潜めたことに気づいているだろう。厩舎への道のりで身を隠せる場所など、木陰しかなかった。
ここに居続けるのは危険だと千秋が気づいた次の瞬間、背筋をぞわりとする気配が駆け抜けた。
いた、のだ。
彼女が、ちんたら思考を巡らせている間に、地史は動き続けていた。声という残響を残しつつ、決して足を止めなかったのは彼の方だったのである。
千秋は、感じていた。
己の真後ろに、既にその男が立っていることを。
同時に、自分の存在を千秋に感じさせようとしているとも思った。地史に対し、千秋は何と遅く愚かで弱い存在であるかを、この立ち位置で思い知らせているのだ。
次の瞬間。
彼女は、己の深くから沸き上がる昂揚を抑えることが出来なかった。
ああ、ああ、と。
千秋はあわ立つ肌で理解した。春一という男に育てられたのは、自分だけではない。後ろに立つ男もまた、そうであるのだと。
同じ男に育てられた地史と千秋。
地史という男は皇帝にまで駆け上がり、春一が側にいる必要がなくなった──春一を卒業した男だった。
そんな男の中に、はっきりと春一の息遣いを感じる。石ひとつ取っても、思考の流れひとつとっても、千秋より意図的で、千秋よりも速く賢く強い。
それを感じると、どんな敵と対峙した時よりも、千秋の心を震わせる。興奮させる。
真後ろを取った男が、悠長にその両手を伸ばして捕まえるはずがない。千秋は彼より小さく、下方に逃げやすい。身を沈められ、後ろ蹴りを入れられかねない。
手に取るように「分かる」ことが、千秋を喜ばせた。地史もまた、こんな彼女の思考を読んでいることに気づくと、更なる悦楽がその小さな身を包む。
私なら蹴りつける。後ろから蹴り、木に身体をぶつけて動きを縫い止めると、彼女は次の動きを予測する。
だが、おとなしく蹴られるわけにはいかない。千秋は、刹那に身を反転させていた。
暗がりの中、足が繰り出されているのが分かる。彼女の腰の位置──正面ならば腹の位置。下手に身を沈めていたら、後頭部を蹴られて致命的だっただろう。千秋はただ自分の判断を信じ、両腕で強く腹をかばった。
身体の中心を、ほんの少し地史からずらすのもまた、千秋はぎりぎりの時間で試みていた。彼の足は、そんな彼女のずれを追いかけて軌道修正される。
ドッと強く重い衝撃が両腕にかかった直後、彼女の腕の骨がみしりときしんだ。折れるな折れるなと、ただそれだけを彼女は願う。折れなければ、何とでも出来る。痛みを感じるのは、もっと後のことだと分かっていた。
彼の蹴りを、千秋は全部腕で受け止める気はなかった。身体ごと、後ろに逃がそうとしたのだ。
しかし、背後にあるのは木。
千秋はその木の幹にしたたか──左肩をぶつけていた。
頭ではない、背中ではない。
振り向きざまにずらした彼女の身体と、その分だけ地史の蹴りが軌道修正されたおかげで、彼女は左肩を激しく木にぶつけながらも、後方に下がることが出来たのだ。
そのおかげで、千秋が逃げ場を得た。広い後方が、彼女の退路となってくれる。
両腕と左肩の痛みが、彼女の意識を追いかけてくる。しかしまだ、その頭の中に溢れている快楽の方が強かった。
これが、地史。
これが、春一先生の手を離れた男。
その感覚が、千秋をいっぱいにする。千秋の意識に、「地史君」ではなく「地史」という男が刻まれる。これまで、春一という男しか刻まれていなかったそこに、確かに名が入った瞬間だった。
『春一先生、もしあの人が、私を騎馬族でもなければ女でもないと思っているのであれば……』
昨夜、春一に言った言葉が、彼女の中に甦る。
『春一先生を通さず、私を殺しに来ることもあるでしょうか?』
それが、千秋の出した答え。
地史が千秋を女として見るのであれば、愛人である春一を避けては通れない。だが、彼女がただの騎馬族以外の人間だとするのならば、地史が直接手をかけようが何の遠慮もないということになる。
人と人とが命の奪い合いをするのは、別に珍しいことでも何でもない。同族でなければ、尚更だ。
地史は、千秋が自分の味方になるものでも、従属するものでもないと判断しただろうし、彼女もそう振舞った。
だから、いまこうして対峙している。
彼は、あの時宣戦布告をしていたのだ。
『騎馬族でなければ女でもないか、ならもうよい』
この意味も分からず、地史の奇襲で殺されるような千秋であれば、それまでだ、と。
春一を卒業した男は、言葉の中にそれを潜ませていた。千秋は、その尻尾に気づけた。彼の声の中に、「春一」がいたからである。
この紙一枚の隙間を縫うやりとりが、千秋という娘に甘い戦慄を覚えさせた。
地史に愛を覚えたのではない。
地史の後ろには春一の幻影があり、いままさに自分が擬似的に春一と対峙している気がしたからだ。
先生と戦える!
それが──千秋の悦楽の正体。