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春と秋~大神来国の少女  作者: 霧島まるは
馬丁見習い編

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嘘と本当の隙間 1

 あれから、千秋はいつも通り馬丁見習いの仕事をしながら、西七理の内町で馬の技術を学んでいた。これまでも十分すぎるほど必死だったが、前回の襲撃事件で、死というものが決して待ってはくれないことを骨身に刻んだ彼女は、ひたすらに馬に張り付いた。


 一番最後に厩舎を出て、ほとんど寝た意識もないまま、朝一番で飛び起きて厩舎へ向かう生活。騎馬族の強い道具である馬に、彼女は心血を注いだ。


 同じ布団で寝起きしている春一は、そんな彼女に微妙な笑顔を向けることはあったが止めることはなく、それがまた千秋の背中を押してくれているようで、ただただ必死に馬に向き合った。袴姿も、随分と板についてきたと、千秋は自分でも感じていた。


 季節は春を過ぎ夏に入る。この屋敷の主の娘である牡丹が、婚礼のために都に向かう日まで一月を切った──そんなある日の夕刻。


 みなが厩舎から帰ってしまった後、千秋がいつものように最後の見回りをしていると、一頭の馬がそこへ入ってきた。まだ、背には人を乗せたままである。


 厩舎はもはや薄暗く、それが誰であるかは千秋には分からない。しかし、ここは万人隊長の松露が仕切っている厩舎だ。騎馬族以外が勝手に来ることは許されない。


 だからおそらく騎馬族の人間だろう──しかし、千秋は警戒を解かなかった。ここにいるべき馬は、既にきっちりと収まっている。いま来た馬が、余所の馬であることだけは間違いなかった。


 馬が、足を止める。いや、馬上の人間が止めた。


「何故、女がいる?」


 男の声は静かでありながら力強く、そして濃厚な疑問をたたえていた。馬から降りる気配がないということは、向こうも千秋に警戒を抱いているということ。彼が有能な騎馬族であるというのならば、高さという優位性を簡単に手放すはずがなかった。


「馬丁見習いをしています」


 千秋は、慎重に口を開いた。彼は千秋を知らない。この西七理の町の人間ではないか、もしくは長い間離れていた人間ということになる。


「女が馬丁見習い……松露しょうろも随分頭が柔らかくなったものだ」


 馬上で、万人隊長のあの顔を思い出しでもしたのだろう。男が微かに笑った気がした。


 ぶるると、馬がひとつ鼻を鳴らす。薄暗い厩舎の中に、溶けていきそうなほど黒い馬だった。


「で、お前は誰の娘だ?」


 その問いは、千秋を騎馬族だと思っている質問だった。話の通っていない人に、自分のことを説明するのはとても面倒なことだと千秋は思った。だが、この身分は春一が自らの自由をひとつ捨ててまで手に入れてくれたものである。とてもないがしろには出来ない。


 確かに、彼女は騎馬族の娘ではなかった。


 しかし。


「春一先生のところで、お世話になっています」


 代わりに、この男の名を出すことが出来るのだ。そんな千秋の幸福は、他の誰にもおそらく分からないだろう。


「春……一?」


 その怪訝な声の意図を、千秋はすぐには理解出来なかった。春一という人間に心当たりがなかったのか、それとももっと別の──


「あれあれ? 何してるんですか?」


 彼女の考えは、まとまることはなかった。厩舎の入り口の方から、柔らかく軽い声が投げられたためである。その声は、決して千秋が間違えようのないもの。


「春一……久しいな」


 馬上の男は振り返りもせず、誰かを確認することもなくその名を呼んだ。千秋はそれで気づくのだ。この男は、最初から春一を知っていたのだと。


「はい、お久しぶりですね。閉門してたのに、門番ビビらせて入ってきたでしょう? もう万人隊長までバレてますよ」


 千秋は、二人の会話をただ聞いていた。割り込める空気でもなく、また春一の会話の邪魔をしたくなかったからだ。その代わり、互いの間で交わされる言葉を一つ一つ拾い上げる。


「女に会いに来ただけだ」


「はいはい、そんなところでしょうね……あ、千秋」


 話がひと段落したのだろう。春一は、ほぼ馬の陰になっている千秋に向かってさらりと声を投げかけた。


「……はい」


 この馬を預かって手入れをしておくように言い付かるのだろうと、千秋は意識のどこかで考えていた。空いた馬房を確認し、無駄な動きがないように手順を反芻する。


 だが。


 次の春一の言葉は、彼女の想像をはるかに飛び越えたものだった。


「千秋……この方が地史ちし君だよ。千秋は、初めて会うだろう?」


 ガチャン。


 頭の中で動いていた、合理的な歯車が噛み合わずに外れた音が、千秋の中に響いた。


 ちし……ぎみ?


 外れた歯車の隙間から、その音が入り込んでくる。地史のことを、千秋は知っていた。知らないはずがない。千秋が春一と共に過ごしてきた間、その名は何度も目の前をチラついていたのだから。


 この人が──先生の守った男。


 それが、最初に確認した言葉だった。暗いため、千秋が男の顔をしっかり見ようとしてもうまくはいかない。それでも、彼女は馬上の男を見ようとした。


 この国の皇帝にして、騎馬族の長。そんな風に、彼を表す言葉は他にもあったけれども、千秋にとってそれらは興味の範疇外の世界だった。


「春一先生のところでお世話になってます……千秋といいます」


 そこでようやく、千秋は名乗った。先生が守った人なのだから、敵ではない。ようやくその確認が取れ、彼女は最低限の礼を尽くす。


「……」


 馬上の男が、そんな彼女に一度黙り込んだ。それから、後方の春一の方を見る。


「春一……この娘は『何』だ?」


 彼は、奇妙な聞き方を春一にした。『誰』ではなく、『何』、と。


 そうしたら、はははと春一が笑った声を出す。上機嫌であることが、千秋にも伝わってきてほっとする。


「千秋は、僕の愛人ですよ。僕と女の奪い合いをしたくなければ、捨て置いて下さいね」


 騎馬族の中では、既に使い古されたと言ってもいい『愛人』発言だ。本当に愛人になれれば、どれほど良いかと考えたこともあったが、いまの千秋では役者不足でしかない。いまはまだ虚構の椅子でも、彼女は春一が用意した場所に座っているしか出来なかった。


「愛人……?」


 馬上の男──地史君が笑う。何を馬鹿なことをとでも言いたそうに、ハッとひとつ息を吐くのだ。


花枝はなえはどうした?」


 残酷な言葉が、千秋の目の前で乱れ飛ぶ。地史の中では、春一の愛人と聞いて思い浮かぶのは花枝なのかと、彼女は遠くの町にいまもいるであろう女性のことを思い出した。


「花枝がどうかしましたか?」


 しかし、春一の返事はとぼけたものだった。花枝が自分のことをどう思っているかくらい百も承知だというのに、この場には一切関係がないとでも言わんばかりに切り捨てる。


「余の誘いを蹴ってまでお前に走っただろう?」


「ああ、それを根に持ってたんですか……相変わらず、女に関しては心が狭いですね」


 千秋は、食い入るように二人の会話に聞き耳を立てていた。いとも自然にかわされる、過去の話を含んだ言葉。


 千秋の知らない、春一の世界の一部を、目の前の男が知っている。彼女は、懸命にそれを拾い集めようとした。


「女は戦利品だ。その戦利品を、強い人間から得ていくのが世の常だろう? 世の常に倣わない者は、命を落とすこともある」


「その戦利品には、口もついていれば足もついていますからね。たまには言うことをきかないものでしょう。それでも花枝は生きています。生かしたのは、私じゃありません」


「ああ、それは余が生かした。花枝は、よく仕えてくれたからな。女としてではなく、部下として生かした」


 馬が。


 話に耳を傾け続けていた千秋の目の前の馬が、一歩進み出た。もちろん、彼女の方に、だ。


 騎馬族の人間が、うっかり馬を歩かせるなんてことはない。一歩前に出すつもりで馬に命令を与えたのだ。


「さて、娘……」


 一歩近づいただけで、更に巨大に感じるほどの高い位置から、地史が彼女に声をかける。


 ついさっきまで花枝の話をしていたというのに、こんなに簡単に彼女へ意識を乗り換えてきた。その感覚に対応すべく、千秋は反射的に身構える。万が一、この馬が彼女にぶつかってきたり、前足を振り上げた時、とっさに己の身を守るための構えだ。


「……後で余の伽の相手をしろ」


 構えを解かないまま、千秋は地史の言葉を聞いた。命令の言葉だった。不意打ちの余り、言葉をうまく飲み込めない彼女だったが、しかしすぐに思考を巡らせる。


 断る言葉そのものは、簡単だ。ほんの数文字で済む。しかし、千秋の答えで困る人が出ることもまた、よく分かっていた。


 春一が警告を出したにも関わらず、地史がそう言ったということは、彼と戦って勝つ自信があるか、あるいは戦わずして従わせる自信があるということである。


 どちらにせよ、騎馬族という立場が春一を縛っているのは間違いない。


 それならば、と。


 千秋は、ぱっと春一を見た。いくらでも介入できる場面であるにも関わらず、彼はそのまま口を閉じている。ということは、千秋の答えを待っているのだと分かった。


 彼女は、目の前の馬上の男を見ずに、巨大な騎馬を横に迂回すべく首を伸ばして春一の方を見てこう言った。


「春一先生……私、ここをおいとましても良いでしょうか?」


 素晴らしい馬丁になることを、千秋は目指していた。それこそが、春一先生に報いることだと。


 しかし、ここで地史という人間に睨まれてまで居座るのは得策ではない。彼に睨まれるということは、騎馬族全体に睨まれるということだ。自分の立場どころか、春一の立場も悪くなってしまう。


 だからと言って、この身を地史に捧げる気には、これっぽっちもなれなかった。この身と命をくれてやれる相手は、春一以外になかったからだ。


「えー、千秋、出て行ってしまうのかい?」


 すると、彼は不思議な声を出した。まるで子供のように、不満気な声をあげたのである。何か間違っただろうかと、千秋はいまの自分の言葉を吟味しようとした。


「おい、娘」


 馬上の地史は、苛立つ素振りもない低い声で、彼女に呼びかけてくる。千秋はいま、大事な思考をしているところなので、邪魔しないで欲しかった。


 千秋とて、自分から望んで出て行きたいわけではない。ただ、この男にまともにぶつかって抵抗出来そうになかった。彼女は春一に逃げることも教わっている。ここは逃げるべき場面だと、何度考えてみても千秋は同じ答えにたどり着いた。


 ただ。


「……後から、先生も来てくれますか?」


 出て行くことに、千秋には何のしがらみもないが、彼と離れ離れになってしまうことだけはとても辛い。だから、彼女はそう春一に懇願したのだ。


「やだよ」


 けれど、彼は即答した。細い目と笑った口元のまま、千秋の言葉を拒否するのだ。


 ああどうしようと、千秋は思った。


 彼に拒まれてしまったのだ。そんな日が来てしまったからには、もはやこう言うしかないではないか、と。


「それじゃあ……私、先生をさらって行かなきゃいけなくなります」


 出来るとか、出来ないとかではない。そうしなければ、もはや道を見つけられなかったのである。それがたとえ、限りなくゼロに近い成功率であったとしても。


 必死で思考を巡らせる彼女を前に。


 春一は。


 こう言った。


「最初から、そう言ってね……喜んでさらわれるから」


 千秋はどうやら──言葉の順番を間違えたようだ。


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